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六稜六四会の集い2017写真編

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記事更新日:05月24日

六稜六四会の集い2017

【六稜六四会の集い】第3回

日時   2017-4-12(水)

会場   ホテルグランヴイア大阪

 

気楽な集いの場として再スタ-トした同期会も今年で3回目を迎えた。

昨年より参加者はガタ減りでは?の私の懸念は見事追い払われ、当日は昨年と同数の47名。

男性29名(内、東京より参加7名)女性18名が集まった。

1年先、いや明日の運命も分らぬ世代の私たちだから、旧友と元気なうちに会っておきたい気持ちは募る一方なのだろう。

あの懐かしい「昭和校舎」で、六稜史上では一番長く学んだ64期の私たちだから、母校への熱い想いも、旧友との結束度も高いのは当然。

参加者の中には、杖持ち,付添い付き,認知症予備軍などさまざまでも、往時の学生時代の見慣れた顔には変わりない。

会場となった「鶴寿の間」には、6卓が用意されていて、着席は籤引き。

先ず、司会役の今井幹事の言葉を皮切りに、足立会長の音頭で「カンパ~イ!」後、宴は始まっ

た。しばらくするうちに席を離れて友と談笑する姿があちこちに林立、カメラを向け撮られる人。

会場は一見、老紳士・老淑女の場となり時は流れる。思いなしか、昨年に比しパワ-不足?

より穏やかさを増した面々とまた逢う日を夢見つつ二次会へ。

二次会と言っても飲み会に非ず喫茶メニュ-。1階ロビ-ラウンジ「リップル」の予約済窓際席で、帰宅を急がぬ20人が16時半頃まで雑談に花を咲かせた。

荒木幹事が、来年の「集い」の場をいち早く予約していたのは言うまでもない。

1年先の再会を目標に、64期の皆さまの健康を祈って止みません。

河渕清子(64期)

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六稜六四会の集い2016写真編

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記事更新日:04月12日

六稜六四会の集い2016

【六稜六四会の集い】

日時    2016-4-12 (火)  12時開演
会場    ホテルグランヴィア大阪

同期会の名前が「集い」となり気楽な集会の場として再スタ-トしたのは昨年の4月。
あれから1年今年もまた「第2回六四会の集い」が開催される運びとなった。
1年先、いや明日をの運命も分らぬ世代の私たちだから、旧友と元気なうちに会っておきたい気持ちは募る一方なのだろう。
関東方面からの参加もあり、ドタキャンもありで、結局当日の参加者総数は47名(男性:33名、女性:14名)の中には「行けるのは今回が最後と思って…」と言う人も何人か。
ステッキ姿、付添い付き、などさまざまでも、往時の学生時代の懐かしい顔には変わりない。
64期と言えば、1年生、2年生時代は男子は北野中学、女子は大手前高女で夫々学び、学制改革で中3から北野高校併設中学校として初の男女共学となったのだから、男子は6年間、女子は4年間を、あの懐かしい「昭和校舎」で学んだことになる。
六稜史上、一番長く北野生として過ごした私たちだから、北野への思いの熱さも相当なもの。旧友との結束度も高い。
今後、此の会をどうするのか?「来年も」「2年後の85歳を記念して」の何れにするか?…は「来年も」が会場の圧倒的多数の賛成を得て本決まりとなった。

さて、会場となった「鳳凰の間」には、A~Eの8卓が用意され、籤引きで夫々のテ-プルに座る筈だったが、「○○さんと一緒がいい」とか「○○くんと同席したいので○卓の札はもうないか?」などあり、男女織り交ぜて座るよう苦心して決めた受付裏方の 苦労も水の泡(笑)。

足立一郎会長の音頭で「カンパ~イ!」後、飲みつ食らいつ駄弁りつのパ-ティが始まった。飲むほどに酔うほどに声高まり歓声上げ…は今は昔のこと。
しばらくするうちに席を離れて友と穏やかに談笑する姿があちこちに林立、カメラのシャッタ-が切られる。「立てば芍薬座れば牡丹」じゃないけど、座って居れば堂々とした老紳士も立って歩き出す姿は背中を丸め小腰をかがめたいわゆる「老人スタイル」は幾星霜の歳月を物語っているようだ。
会場は一見、老紳士・老淑女?の歓談の場となり時は流れる。
約2時間30分で鳳凰の間は一応、お開きとなり2次会へ…と言っても飲み会に非ず、喫茶メニュ-。あらかじめ予約済みの階下のロビ-ラウンジで約40名が16時頃まで雑談に花を咲かせ、1年後の再会を約して三々五々帰途に就いた。
新たなる発見?を交えながら、愉快に過ごせた「集い」だった。

終わってからもあちこちから「楽しかった」「また来年も会いたい」などが聞こえてくる。私も幹事の一員としての努力が報われて嬉しい限りです。
この会の企画、幹事会のまとめ、ホテル側との交渉ほか多大なご尽力をいただいた荒木萬治幹事長にはこの場を借りて厚くお礼申し上げます。

Reporter:河渕清子(64期)

(写真は4/20(水)最終幹事会 於:ホテルグランヴィア宴会サロン)
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六稜六四会の集い2015写真編

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記事更新日:04月07日

六稜六四会の集い2015

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平成27年4月7日(火)12.00~14.30

ホテルグランヴィア大阪 鳳凰の間

 

北野高校を卒業(昭和27年)して60年、暦を一巡して迎えた平成24年の総会を区切りに、それまで定期的に実施してきた六四会総会を、未練を残しつつも終了した。あれから3年、何処からともなく、やはり淋しい、総会はしないが組織として残されていた六四会を再開しようじゃないかとの声が出てきた。東京六四会は継続して実施されているし、会報「六稜」には先輩たちの同期会の報告が出ているじゃないか、若い我々が同期会を止めてしまうなんて意気地がない。六稜トークリレーで顔を合わす同士の間でも、有志だけでも集まって格式張らない同期会を開催しようとの声が高まった。2月始め頃に具体化の話が出はじめ、“善は急げ”で、急きょ幹事有志が集まり4月7日にホテルグランヴィア大阪で開催することを決めた。

六四会総会の終了を決めていたこともあり、会合の名称を「六稜六四会の集い」にすることとし、50人の参加を予定して準備を進めた。蓋を開けてみると、東京方面からも多数の参加があり、60名が参加した。 会場には10組のテーブルと椅子席が用意され、各テーブルに料理が配られるという変形バイキング形式で、和洋の手の込んだ料理が出された。田中幹事の開会の挨拶に続いて、足立会長の発声で乾杯をして会が始まった。卒業以来、初めて同期会に顔を出したという希少種の人もあり、久しぶりに互いの近況を話し合い、高校時代の懐かしい話題に時間を忘れ、和気あいあいの内に会が進められた。幾人かの人から、近況や東京六四会の様子が報告され、また幼稚園から北野までずっと同期であったという人たちの紹介もあった。受付時に配られた札で予め座席が指定されていたが、宴たけなわになるにつれて人の移動が活発になり、旧交を温める者、時局について議論する者など大いに盛り上がった。

会も終わりに近づいた頃を見計らって白藤新幹事より「来年も同様の六四会の集いを開催しよう」という呼びかけがあり、全員の拍手で賛同を得た。すでに傘寿を超えた我々であるが、顔を合わせた瞬間、懐かしい高校時代に戻れる同期会の楽しさを満喫して、次回の六四会での再会を約してお開きとなった。なお、この会の準備・運営には、荒木、今井、岩田、興津、河渕、津田の幹事諸氏にも協力して頂きました。写真は津田幹事の撮影による開会時の会場の様子です。       (白藤純嗣 記)

付記:4月22日の幹事会で、一年後の平成28年4月12日(火)に同じ会場で

  「六稜六四会の集い」を開催することを決めた。

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六稜六四会2012最後の総会

http://www12.ocn.ne.jp/~kiddy/rokusikai2012.JPG

  6月10日(日) 天候に恵まれた六稜会館で六稜六四会の卒業60周年記念総会が開かれた。

当日集まり始めた諸君は関西の他、東京岡山九州からの計112人、まず地下展示室を見学後、

13時半から3階ホールに集まり、川島弘君(今も現役シャンソン歌手)の司会で総会が始まった。

はじめに物故者122名への黙祷。

長年、会長を務めて2年前に逝去した川本晴男君の後を継いだ足立一郎会長の総会挨拶に続き、楠野校長から母校の現況報告をいただいた。校長先生の生誕年1952年春に私たちは母校を巣立っている。

正面スクリーンに投影される津田信昭君制作のビデオのプログラムに沿って会が進められ、記念撮影のあと懇親の部に入る。懇親会の間も写る思い出写真やビデオをチラチラ横目にグラスと食事とお喋りが続く。卒業10周年(第一生命ビル)、20周年(北野高校)、その後3、5年間隔、50周年記念総会から3回を経た今年の卒業60周年記念総会をもって六四会総会は最終となった。昔の暦で云えばみんな傘寿だ。この60年はみんなそれぞれ別々の人生を歩んできたが、振り返るとすればそれに先立つ入学からの6年間であろう。

北中入試の面接で印象に残るのは、一人ずつ待機したあの長い廊下で、そのコンセプトは新校舎にも引き継がれている。

終戦翌年春、北中(北野中学)入学。50人6組で3百人。制帽の白線に六稜の徽章。電車に乗っても北中生は凛々しくキリッとしていると親戚から云われた。

校歌に「…星のしるしを、青春の額にかざし…」とあるが、今どこにその姿が見られるのか。入学して上級生から受けた校歌指導では「紅顔の子弟いく百、日に通う北野ちゅうが」と中学を詰めて歌うように教わった。

十三駅からは瓦礫の合間を縫いながら通学し、数学の教科書はA5サイズに折りたたまれた全紙判を自分で裁断して糸で縫いつけた。ホチキスはまだない。

翌年学制改革で新制中学が出来、私たちは旧制最後の中学生となった。

1年の担任は数学の江副先生で2年生でも担任だったが、夏休みが終わって登校したら先生の姿はなく、後任は新米の石田千代之輔先生だった。なぜか白衣を着て授業に臨み、一言話す毎に上を向いて「あ~」と云うので「アーコ」とあだ名が付いた。因みに江副先生は、かつて政界を揺るがしたリクルート社創立者のご尊父だった。

1948年男女共学となり、淀川以南の友は大手前へ。代わって大手前高女からは才媛がどっとやってきてトイレはドット混む。野球で北野を優勝に導いた多胡投手は淀川以南だったが北野に残された。大手前には野球部がなかった。

大手前に移籍した男子生徒達は集まるといつも北野の話をしていたと聞いたが、北野に来た才媛達には大手前を懐かしむそぶりは全く見られなかった。

1949年北野高校併設中学を卒業してそのまま新制高校にスライド。生徒数は8組で4百人余になった。翌春、新制中学卒を迎えてやっと上級生になったが、それまでの4年間は最下級生。

美術部員の写生モチーフは十三公園と手前の焼け跡で、6年目の秋になっても残る瓦礫の間に三脚を立てて描いていた。

教師陣はバライティーに富んでいた。

生物を教わった岩田久二雄先生は、昆虫学の泰斗で兵庫農大(現神戸大)教授に。「福島の定理」もある数学の福島豊先生は、新設の福井大学数学教授に。

昭和27年に阪大に入ったら、北野で習った先生が4人もおられ、その講義も受けた。

高校の地学授業で岩石採集に甲山へ連れて行ってもらった小泉光恵先生(旧姓失念)、英語の小松昌先生、統計の大澤先生、社会の増田毅先生からは政治学。

今で云う中高一貫校の6年間に大学教授レベルの先生方の授業を受けていたことになる。

北野中学校長から大阪府初代教育長に転出された浜田成政先生の口癖は「反省無くして進歩なし」だった。復員し「スマトラ帰りの名馬」と渾名された生物の佐賀真一先生は30年間おられ、私達が生まれた年に北中に赴任し33年間を北野で過ごされた美術の岡島吉郎先生など、今では考えられない主のような名物先生が沢山おられた。

さて、懇親会も佳境に入り、中国に帰った段元培君からのメッセージと添付の漢詩、それを訓読し解説してくれた小松美博君の返礼の自作詩の披露。ショートスピーチでは槌田敦君の北野放校となった経緯と原発の問題点指摘があり、大谷遷君指揮の校歌斉唱をもって閉会となった。

総会は終了したが、六四会そのものは存続し幹事会も休眠しながらも残留。他学年のようにクラス持ち回りではなく、交代しながらも14人の固定幹事会として運営してきたが、初期から一貫して黒子として事務局役を引き受けてくれた岩田江一君の陰のはたらきは感謝にたえない。

楠野校長のお話にもあったように進学指導特色校制、段階的学区撤廃など府立高校の活性化策によって、北野高校への志願者数が増えつづけ、上で振り返った終戦直後の北中のように北野高校は受験生たちの憧れの的になってきたようだ。いろいろの歴史と精神を背に、わが北野高校は来年創立140周年に向けて歩を進めている。

                                                                                                                        今 (64期)

記事更新日:07月26日

64期同窓会のもよう2011

                                                                                  6月4日(土)1時、大阪、堂島の中央電気倶楽部に77~78歳の老々男女
88人が集まった。64期の同窓会。3年おきにやっている。東京方面から10名
あまり、長崎、岡山から各1名。
 はじめに新会長選出。30年間続けてくれた川本晴男君が昨年逝ってしまった
からだ。おざなりの拍手で足立一郎を選ぶ。再登板で替わり映えしない。
 つぎに64会の今後の運営について①来年が卒業60周年にあたるので、記念
大会をしてこれで打ち上げにする②従来通り3年ごとにする、の2案について賛
否を問うたところ拍手の大きさは同じくらい。そこで司会の北村芙佐子さんの名
さばきで幹事会一任となった。
 それから昨年秋、文化勲章を受章した脇田晴子さんのスピーチ。部屋の壁に
は小振りだが「受章おめでとう」の垂れ幕が掛かっている。
 だんだんと会場がざわつきだしたところで、槌田敦君が、専門的見地から福島
原発事故について「汚染を受け入れるしかない現実」と題して資料に基づきレク
チュアー。それを受けて銀行出身の山本修滋君が日本経済の成長のためには
原子力が必要との見解を披歴。
 ほろ酔い加減の司会(男性に替っている)の話が続くなかいつしか宴も終わりに
近づき、現役シャンソン歌手(いつまでやるのだろう?)の川島弘君の指導で校歌
斉唱、幹事長岩田江一君の締めの言葉で4時半お開きとなった。(足立)
(写真はフォト・アート社 山口 茂君(同期)撮影)

記事更新日:07月05日