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ポラントリュイだより:奇跡の聖母像伝説


▲聖ピエール教会
14世紀建造。

▲聖ピエール教会内の聖ミッシェル礼拝堂に安置される
「奇跡の聖母像」

▲ロレット礼拝堂
約100年毎に改修工事が
きちんと行われている

ポラントリュイ市旧市街にそびえ立つ聖ピエール教会。 この教会内から、聖ミッシェルという信徒団体(1337年結成)が建造した聖ミッシェル礼拝堂(1423-40建設)に直接入ることができる。
中世から宗教的・政治的に実力を持ったこの団体は、時代ごとにこの礼拝堂に惜しみなく金をつぎ込み、飾った。 大天使ミカエル(ミッシェル)を描いた19世紀のステンドグラスは暗い堂内の中で輝くばかりであるが、私の目はまず、入口近くの古ぼけた像に向けられる。
「Notre-Dame des Annonciades」(アノンシアド会の聖母マリア)は、別名「奇跡の聖母」とも呼ばれ、400年にも渡って大切に保存されている。 人々の間に語り継がれ、ポラントリュイに関する歴史書にも登場するこの聖母像について、ご説明する。

三十年戦争(1618-48年)は、ドイツを中心に行われた戦争である。ハプスブルグ・ブルボン両家の国際的敵対と、ドイツ新旧両教徒諸侯間の反目を背 景に、 皇帝の旧教化政策を起因としてボヘミアに勃発。戦火はヨーロッパ各国に飛んだ。この時期、ポラントリュイを含む現在のスイス国・ジュラ地方はバーゼル司教 直轄の小国家であった。 ローマ帝国、スウェーデン、フランスといった列強の侵攻で、地域は多くの被害にさらされた。ことに傭兵の狼藉はひどいもので、略奪・放火が繰り返され、住 民は飢えに苦しみ、 ペスト・チフスが蔓延し、国は荒れ果てていた。
その頃、戦火の真っ只中にあったフランス・アルザス地方のアノンシアド修道会を抜け出し、ポラントリュイに逃れてきた尼僧達がいた。 彼女達は、幼いキリストを抱く聖母マリア像を携えていた。

1634年、スウェーデン軍が再びポラントリュイの町に近づいているという情報が入り、住民は恐怖に怯えていた。尼僧達は、この聖母像を敵の方向に向 け、侵攻を阻んでくれるよう、祈り続けた。 次の朝、スウェーデン軍がポラントリュイ市を見渡せる南の丘に着いたところ、濃い霧が市を包み込み、視界を遮っていた。このため、スウェーデン軍は町に下 りることなく、退却していったという

別の文献はこう語っている。
「・・・尼僧達は聖母像の前に平伏し、町の解放を願い続けた。次の朝、スウェーデン軍の上に大きなコートの形をした青い巨大な雲が現れた。これは聖母の 加護の印であった。 その日、スウェーデン軍は退却し、その地方から去っていった」

「奇跡」と歓び湧いた町の人々は、侵略軍が踏みとどまった場所に「La chapelle de Lorette」(ロレット礼拝堂)を建設(1653-57)、 現在、毎年8月15日の聖母被昇天祭に聖母像を輿に載せ、ロレット礼拝堂まで巡礼する催しが行われている。
この聖母像は、フランス大革命の際、貪欲な革命軍がパリの博物館に売り飛ばそうとしたところを、ある市民の機転で難を逃れた。現在は、先述の聖ピエール 教会内の聖ミッシェル礼拝堂に安置されている。

ポラントリュイは、ジュラ地方の中でも比較的霧の少ない地域である。400年近く前のこの事件はただの空想上の物語なのか、それとも現実に起こった奇跡 なのか? それを信じるか否かは貴方次第である。

付記・ちなみに、私はこの伝承にいたく感銘を受け、小著「レクイエム」にて主人公に影響を与える場面に挿入した。(小説自体はフィクションです)
〈参考文献〉
「Images de vieux Porrentruy」Roger Ballmer著・出版元Democrate SA(1984)
「PORRENTRUY Hier et aujourd’hui」編集・出版元Le Pays(1996)

ポラントリュイだより:イノシシ伝説


▲市庁舎前のイノシシ像
ポラントリュイ市の観光名所である。

ポラントリュイの古都に翻る旗の中に、銀地に恐ろしげな目の黒いイノシシが記されたものがある。 また、観光局などで手に入る、町に関するパンフレットなどを見れば、こちらは可愛らしく漫画化されたいのししが印刷されている。 この「イノシシ」こそ、ポラントリュイ市の紋章である。

古来より現在に至るまで、この地方の森林にはイノシシ、鹿、キツネ、野ウサギなど、狩人にとっては獲物となる動物が生息している。 (★ 現在、狩は、季節や曜日、射止めて良い頭数など厳密に指定されている。例えば、イノシシの冬狩りは12月1日から一ヶ月間のみ、 10月に狩ることができる野ウサギは狩人一人一匹、二日間に限定と法で決まっており、破れば罰金や罰則が待っている) イノシシは住民にとって身近に存在する動物ゆえに、市の紋章に選ばれたともいえる。
また、別説では、勇敢さ、勇気の象徴であるイノシシは、しばしば領主旗にも描かれていたゆえ、そこから引用されたという。 このように紋章の由来には様々な説があり、定かではない。



2005年1月1日より施行された
税つきゴミ袋にも
キャラクター化されたイノシシ


市庁舎の中にあるポラントリュイ市の旗

こちらのイノシシは恐ろしい三角目

非常に叙情的な物語で綴られる説を御紹介する。

「昔々、ある日、巨大なイノシシが、しっぽをピンと立て、大口を開け、全速力で駆けてきた。 この生き物は、10ピエ(当時の計量単位、1ピエ=約32,4cm)もある城壁を、何でもない囲いのように飛び越え、町に侵入した。 町の住民は恐怖におののき大騒ぎとなったら、勇気ある一人が窓から斧を投げつけた。イノシシは、市庁舎の階段付近で絶命した」
この出来事は、その後、町の議会で取り上げられ、《町を囲む城壁の一部が敵の攻撃に対して十分な高さではない》と判断され、 より城壁を高く、強化するきっかけとなった。
さらに伝説は語る。
「このイノシシは、疑いなく、町の守護《能天使》(=天使9階級の中で下から4番目)の使いである。 議会は、今後、イノシシを町の紋章する決定を下した。こうして、旗は銀地に黒イノシシ、全ての書類への公印は、善霊が化身した、 《毛むくじゃらで、飛び跳ね、唸る》イノシシとなった」

もう一つの伝説である。
「昔々、ジュラの森林は獲物の宝庫であった。狩は、バーゼル司教の楽しみの一つであり、それに一日を費やした。 ある日、司教一行は素晴らしいイノシシを追い込み、追跡した。 そのイノシシはローフォン(Laufon=現在バーゼルラント州の町の一つで、BaselとDelemontの中間辺りに位置する)に逃げ、 町を横切り、それからドレモンに入った。ここで、門を勢いよく落とし、傷つけたにもかかわらず、イノシシは止まらなかった。 イノシシは血を流しながらポラントリュイに突進し、市中に入った。有産階級の人々は門を閉ざしてようやくイノシシを捕獲し、殺した。

同日、バーゼル司教はこの三都市の紋章を定めた。
ローフォンは、イノシシの色、すなわち黒地に白い司教杖。ドレモンは、イノシシが流した血の色、 すなわち赤地に白い司教杖。 そしてポラントリュイは、銀地に黒いイノシシ」

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Claude Voisard de Fontenais


▲ローフォン市の紋章


▲ドレモン市の紋章

〈参考文献〉
ジュラ州ポラントリュイ市観光局サイトよりhttp://www.porrentruy.ch/
「Images de vieux Porrentruy」Roger Ballmer著・Democrate SA

〈写真引用〉
バーゼルラント州公式サイトよりローフォン市のページより

http://www.baselland.ch/docs/gemeinden/info/laufen.htm

ドレモン市公式サイトよりhttp://www.delemont.ch/

ポラントリュイだより:駅物語《その2》

「ベル・エポック」と呼ばれる1900年代初頭、鉄道の発展と共に、ポラントリュイは最盛期を迎えた。
観光客、ビジネスマン、商人、外交官が数多くポラントリュイ駅を利用することになったため、駅前を中心として町そのものの開発も進んだ。
現存する駅前の数本の大通りは、この時期に建設されたものである。市の人口増加もめまぐるしく、1879年に4452人だった住民が1900年に は6959人に達した。 (ちなみに2003年末の統計では、6630人)産業が栄え、それに伴い定住労働者が増加したため、新興住宅地も次々と開発された。


▲現在のポラントリュイ駅
二年ほど前、外壁の修復が終わった。

パリ、ロンドンと南ヨーロッパを結ぶ中間地点に当たるポラントリュイは、旅人の休憩所としての役割も果たすようになった。
駅から旧市街にかけ、ホテル・レストランが発達した。その中でも旧市街の入り口に位置する「Grand Hotel International」(1907年開業)は 当時としては最先端の設備、すなわち電気、浴槽、セントラル・ヒーティングを完備した高級ホテルだった。 旅行客が退屈しないようにとおよそ800人収容の劇場が内部に設置された。天井は当時流行りの化粧漆喰で贅沢に装飾が施され、 一階席をぐるりと囲んで見下ろすバルコニー席も用意されていた。

このホテルは1912年には既に倒産し、カトリック団体に売却された。この団体は後に「L’Inter協会」と名称変更し、建物を管理している。 現在はアパート、そしてレストラン「L’Inter」が入り、劇場はコンサートや演劇などの催しに、頻繁に利用されている。
このホテルの倒産は、ポラントリュイ衰退の序曲と言えるかも知れない。
1914年、第一次世界大戦勃発。1918年、敗者ドイツよりアルザス・ロレーヌ地方がフランスに返還されると、 フランスはストラスブール(アルザス)―バーゼル間鉄道を好んで使用するようになった。ジュラ側の働きかけもむなしく、 1928年からフランス―ジュラ間路線は荒廃の一途を辿った。1938年にはフランス国有鉄道(SNCF)設立。翌年、再び世界大戦勃発。全ては遮断され た。


▲二十世紀初頭から賑わっていた「駅前ホテル」

▲かつてのホテル・インターナショナル
現在はレストラン・劇場となっている。
外壁は当時も黄色に塗られていたそうだ。

細々と乗客を運び続けていたフランス国境の駅デルとスイスを結ぶ路線は、1990年代に入って閉鎖された。

シナゴーグ物語にも登場していただいた、パリ出身のデニーズさんはこう嘆く。
「昔はパリとポラントリュイが繋がっていたから里帰りも楽だったし、異国で暮らす寂しさも減っていたわ。今では・・・何てこと。 直線距離ではあんなに近いパリに行くのに、わざわざドレモン、バーゼルまで迂回しなければならないなんて! もうパリに行くこともできなくなってしまっ た。 私は車の運転もできないし、この年で電車を乗り継いでの大旅行はもう無理なのよ」
彼女は確か82歳。帰国のために12時間も飛行機に乗る私にとっても身に染みる話である。

フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザス地方を通る鉄道(ベルフォール―スイス・バーゼル間〉を利用しなくなり、 アルザスを通らずにスイス入国を可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。この会社の財政・技術援助により、 1872年にはフランス国境の町デル(Delle)(ベルフォール県)―ポラントリュイ間鉄道開通。同年、ポラントリュイ駅開業。そして、ジュラ地方の鉄 道網は次々と増えていった。 高架橋やトンネルも同じくフランス東武鉄道会社の援助で開通した。1877年にはかつてアルザス地方への路線を伸ばしていたベルフォールがデル駅と結ばれ た。

現在、ポラントリュイ駅は、ジュラ州各地を結ぶローカル駅として、一時間に一本の電車を走らせている。 2004年12月12日よりダイヤが大幅に変わり、一時間に二本(うち急行列車が一本)走り、それぞれバーゼル駅とビエンヌ駅(ベルン州)に直行となる。 電車を多く利用する私としては嬉しい限り。そして、かつての栄光を取り戻すまではいかずとも、 バーゼル・ベルン・ヌーシャテル地方の人々のポラントリュイ訪問が増えて欲しいと願ってやまない。

〈参考文献〉
スイス国・ジュラ州公式サイト資料より http://www.jura.ch/
ジュラ州ポラントリュイ市ガイド協会資料よりhttp://www.juratourisme.ch/

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Madame et Monsieur Denise et Jean Vallat

ポラントリュイだより:シナゴーグ物語《その2》

19世紀半ば、ポラントリュイ市在住ユダヤ人社会の間で、シナゴーグ、すなわちユダヤ教会建設の動きが高まった。それまでは、カトリック色強いこの地域 でユダヤ教徒に祈りの場所を提供してくれる者も少なく、専任司祭もいなかった。 ユダヤ教徒達はフランスの出身町にまで赴き、祈りを捧げていたようである。
そんな厳しい状況の中、1869年、シナゴーグ建設に向けて管理委員会が発足し、建設資金調達計画に着手した。一度は州政府(当時はベルン州)の援助を 確約したものの、 計画倒れになった。そのことについて彼らは多くを語りたがらない。結局、市のユダヤ社会全体が協力し合い、病院や銀行からの借金で何とか建設にこぎつけ た。


▲当時のポストカードより
木々と鉄格子の一部は現存する。

1874年夏、シナゴーグは完成した。当時のユダヤ系週刊紙(ドイツ語)によると、「東洋的要素も混じったバロック建築のシナゴーグ、スイスで最も大き く最も個性的な造りの建物の一つである。 セミ・ゴシック式の二本の長尖塔の間には、十戒が書かれた碑が建っている。建物の全ての角は丸みを帯び、スイスでは大変珍しい」と描写されている。収容人 数は100名ほどだった。

建立当時、ユダヤ人共同体は秩序が保たれ、積極的に教会の維持に寄与していた。1949年には大規模な改修工事もしている。 しかし、実は1920年代よりポラントリュイ市におけるユダヤ人共同体は衰退の一途をたどっていた。 スイス人への同化が進み、親が子にユダヤ人としての教育を施さなくなってきたこと、若い夫婦が引越し町を出て行ってしまったことなどが原因として上げられ るが、 ユダヤ人経営の会社を次々と閉鎖・売却に至らしめた経済危機・市の産業衰退も大いに関係していると言えよう。
ユダヤ教のミサを執り行うためには最低10人の成人男性が必要であるが、1926年以降、ポラントリュイ・ユダヤ教会は、慢性的な信者不足に悩まされる ようになる。


▲「十戒」の石碑
元々は屋根の上に位置していた。
(撮影Jean Vallat氏)

「シナゴーグはどうなるのか? ここ数年来、シナゴーグは見捨てられている。 昔は小奇麗だった庭も草が伸び放題で荒れ果てている。建物の表面は剥げ落ち、窓は割れ、鉄格子は破損している。美しい庭木だけが過去の豊かさを物語ってい る・・・そう昔のことではないのに・・・」
1980年6月4日付け地元紙「Democrate」は、シナゴーグの惨めな状態を抒情的に書き綴っている。建物の荒廃には、心無い人々の仕業(破壊行 為・器物盗難など)も影響していたらしいと、当時を知る数人が証言している。  1982年、共同体メンバーは市内にたった2家族、市外に1家族となった。建物は文化遺産に登録されておらず、市は全く関心を示さなかった。他市のユダ ヤ共同体の援助もほとんど得られず、窮地に追い込まれた3家族は、相談の末、辛い決断を下した。
「シナゴーグ売却」
1983年4月28日、建物は解体され、速いペースで作業が進んだ後、現在のアパートが建てられた。当時の世間にとって、ユダヤ教会を壊すことは、その 辺の古ぼけた建物を壊すようなものだった・・・決して反ユダヤ主義者ではない人すらそう言いきっている。


▲現在の石碑
父、娘2人と一緒に。

隣人シャンタルは、二年に及ぶユダヤ系家族への聞き込み調査と資料研究の末、1998年、ポラントリュイ市ユダヤ移民に関する論文を書き上げた。彼女の 研究結果は、2000年8月、同市博物館において開催されたジュラのユダヤ共同体展に貢献した。

屋根の上に掲げられていたモーゼ「十戒」の石碑は、現在、庭に建て直され、唯一、シナゴーグの名残を留めている。
1999年夏、私は縁あって「シナゴーグ通り一番地」に引っ越してきた。かつてユダヤ移民の心の支えであったこの場所で史実を見据え、自分なりのやり方 で後世に伝えていきたい。

〈参考文献〉
「LA COMMUNAUTE JUIVE DANS LE JURA」編集・MUSEE DE L’HOTEL-DIEU PORRENTRUY

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Madame et Monsieur Denise et Jean Vallat、Madame Chantal Gerber(参考文献の著者の一人)

ポラントリュイだより:シナゴーグ物語《その1》

スイス国ジュラ州ポラントリュイ市。「シナゴーグ通り一番地」に私のアパートは位置する。 かつてこの場所にはシナゴーグ、つまりユダヤ教会が建っていた。現在、町にユダヤ系家庭はたった一家族。 更に、「ユダヤ人」という定義を、ユダヤ教義を重んじユダヤ教信仰厚い人間に限るとすれば、人口約7000人中ゼロに等しい。 そんな町になぜユダヤ教会が存在していたのか? ポラントリュイ市のユダヤ移民の歴史に焦点を当てると、民族の数奇な運命と共に、 ジュラの地方産業・経済の盛衰、そして・・・そう遠くない過去のあやまちが浮き彫りにされる。


▲在りし日のシナゴーグ、
ポラントリュイ名物の青空に映える。

(撮影Jean Vallat氏)

ポラントリュイ市に移民してきたユダヤ人の大多数はアルザス地方出身である。記録に残る最初のユダヤ人は、革命政府統治下のフランスから1794年に移 住してきた家族である。
19世紀半ばからフランス・アルザス地方で反ユダヤ運動が盛んになった。1870~1871年の普仏戦争後、アルザスがドイツの統治下に入ると、スイス に移住するユダヤ人が激増した。 ポラントリュイを含むジュラ地方全体で1850年に200名ほどだったユダヤ人が、1880年には500名にのぼる。その後、ジュラの政治・経済危機、産 業衰退と並行してユダヤ人口は減少し続け、1950年には100名ほどになってしまった。
ナチス支配下のフランスからは、多数のユダヤ人が命がけでスイスに入国しようと試みたが、越境を果たしたとしてもスイス国境警備隊によって追い返され た。ドイツをはばかるスイス連邦政府の命令であった。 一方で、密かに彼らの入国を助けていた修道会や民間の人々もいたようである。このテーマについてはまた別の機会にお話ししたい。

19世紀から20世紀初頭にかけ、ユダヤ人の伝統的な職業と言えば、商業、主に牛馬や土地の売買であった。1818年から1840年頃のポラントリュイ 市における彼らの職業は、 繊維・皮革製品製造業が大多数で、その他は牛馬の売買であった。1910年頃になると衣類を中心とした商店と牛馬の売買業者が7 :3の割合になる。
ユダヤ人定住者の子孫の中には、別分野に新天地を見出し、類い稀なる成功を収めた者も少なくない。スイスが世界に誇る時計会社やチョコレート製造業者の 一部がその例である。


▲現在建つアパート
建築家は「人目を引く奇抜な形の建物」
を追求したそうだ。

ここでは、ポラントリュイ市におけるユダヤ人の活動に焦点を絞ってお話しよう。 「S家」は、20世紀初頭から半ばにかけ、地域経済に貢献した実業家一族である。1898年、ポラントリュイに定住した創設者は、既製服の小売店を開い た。 彼には四人息子がいて、うち一人は1906年にストッキングと靴下製造の工場を開いた。1911年に彼は他の兄弟とも提携し、メリヤス製品会社を設立し た。 ところがこの後、兄弟間の意見・経営方針の不一致で会社は分裂し、別々の工場経営に入る。
S家が経営する工場の一つで隣人デニーズさんが働いていたそうなので、お話を聞いてみた。 「当時は120人ほど働いていたかしら。冬の朝は寒くてね。ありったけの服を身にまとって仕事をしたわ。 給料はそんなに良くなかったけど、新製品、特にビキニを試着させてもらえた時は嬉しかった。各製品の質は最高級。長持ちしたわよ。 二つの兄弟工場の間には確執が依然としてあって、工員同士までお互いをけなしていたわ。おかしな話よね」
経営者の一人のご子息にあたるアンリさんの自伝によると、その後、経営者の息子同士(つまり従兄弟)は仲直りしてめでたく大親友となったそうである。

~次回に続く~

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