「人に歴史あり」と言うが、人口数百人の小さな村にも大いなる歴史が存在する。ワールドアイで歴史エッセイ執筆のお仕事をさせていただくことになって以 来、スイスのどこにでもある小さな村の資料を紐解くことが多くなったが、悲喜入り乱れた豊かな深層に、驚嘆することしばしば、ボンフォル村もその一つであ る。
1989年、偶然、鉄器時代(ハルシュタット初期)の土墳が発見され、アジョワ地方で最初に人間が定住した村と推測されている。ボンフォルという村の語 源はラテン語で「良き森」に通じるが、ケルト語では「粘土の豊富な場所」である。古来より陶器作りの盛んな村であるから、私としては後者を押したい。(し かも、ローマ人はケルト人の後に入植しているゆえ)
ボンフォルの名は1136年、最初に文献に登場した。粘土・陶芸についての記述はもっと後になってから、1383年である。この粘土、ライン氷河の堆石 (モレーン)の賜物で、ジュラではここでしか見られない地層であるから、氷河はちょうどこの村で終わっていたと推定される。赤みを帯びたボンフォル粘土で 製造した陶器は、荒削りながら火に強い。特にフォンデュ鍋は一世を風靡した。現在でこそフォンデュと言えばチーズフォンデュなどスイス料理の代名詞たる料 理に使われるものと思われているが、フォンデュ鍋 = caquelon(カクロン)の語源はcaquelle(カケル = 焼いた土・テラコッタ)であ り、どの家庭でも様々な煮炊きに使っていた一般的な調理鍋だった。元々は三本足で、直火にくべた。質素で実用重視・丈夫なボンフォル製の鍋は1283年か らポラントリュイ・アジョワ地方の支配者となったバーゼル大公司教宮廷の台所で重宝された。 歴代バーゼル大公司教はこの村の池をこよなく愛した。自然の中で散策を楽しみ、狩猟という娯楽に浸った。この池に集まる様々な魚や鳥は、宮廷の食糧とも なった。この池は1961年、自然保護地域に指定されたため、現在では植物を採取したり動物を捕獲することは許されない。キャンプや焚き火も禁止。犬を放 し飼いにすることはできないので愛犬を連れて散歩の際はご注意を! 美しい池と森林を有し、村人は農業と陶器製造に勤しむ・・・一見、おとぎ話に出てくるような村にも、悲惨な歴史がある。 中世ヨーロッパを吹き荒れた魔女狩りの嵐は、小さな村をも見逃しはしなかった。1609年、魔女の疑いをかけられたある寡婦が首をはねられ、火刑に処せ られた。 数々の困難を乗り越えたボンフォル村は、19世紀後半よりジュラの近代化・産業化と共に飛躍的に発展を遂げていったが、その後の痛々しいばかりの斜陽ぶ り・復興に向けての努力は次回お伝えする。 |
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ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その2》
ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その1》
ポラントリュイから15km。フランス国境が間近に迫る、どこにでもある小さな村。15年ジュラ州に在住していながら気にも留めていなかったボンフォル 村に注目し始めたのはつい最近のことだ。 2年ぐらい前か。一通のメールが舞い込んできた。沖縄在住のダニエル・ロペス氏。「本の注文をしたい。今、ボンフォルに里帰りしているから、良ければ手 渡し願いたい(そうすれば会って話もできるし)」という丁寧かつジュラ人らしい親しみやすさ溢れる内容だった。お付き合いの始まりである。写真家・平和活 動家・TVキャスターとしてジュラよりは沖縄では知られた存在のダニエルは、現在、沖縄の大学生である。彼の両親はボンフォル村で家庭菜園を営みながら悠 々自適の生活をしており、私達家族はダニエルの友人、そして日本人というだけで彼らにはお世話になっている。
縁と閃きは背中合わせ。 そして第三の出会い。この秋、樽見さんのスイス来訪を控えた頃、日本から小包が届いた。見知らぬ方の名前で、少しドキドキしながら開封してみると、猪の 人形であった。(上部写真参照)送付主、西正道さんは、博多で陶芸を営む方である、来年(2007年)の干支である猪について調べているうちに、私が書い た「ポラントリュイ便り第17話・イノシシ伝説」に行き当たったそうだ。興味を持って下さった西さんは、ホームページへの小文転載を希望し、わざわざ貴重 な作品である猪の人形二体を、「日本・スイス親善大使」としてお送り下さったのだ。私は運命を感じた。「これはジュラを代表する伝統的な陶芸村・ボンフォ ルを推せという天啓だ!」と。西さんのホームページをまずご覧いただきたい。イノシシに関する記事だけでなく、私が送ったボンフォル関係の写真も掲載中で ある。 樽見さんがいらした2006年10月30・31日は、近年のスイスで最も美しい晩秋の日々であった。私達はボンフォル村中心部に位置する陶芸家・フェリ シタス・ホルツガングさんのアトリエと陶芸博物館を訪れた。 フェリシタスさんは中央スイス、シュヴィーツ州出身である。ベルンの芸術学校を終えた後、ジュラの陶芸家に師事し、結果としてボンフォルの伝統陶芸を後 世に伝えていく重要な人物となった。彼女は自作品の展示販売だけでなく、アトリエ近くに建つ博物館の館長として文化保存・促進に奮闘中である。また、ポラ ントリュイ市老人ホームで週に一度、陶芸を教えている。2007年1月にバーゼルで開催される中世関連のフェスティヴァルで使用するというコップ100個 の製造の手を休め、私達たった二人のために労を惜しまず案内をしてくれたフェリシタスさんの姿に、私は大いなる感動と共感を覚えた。活動を通じてジュラと いう出身地以外の土地に溶け込み、根を下ろし切った同志として・・・。 西正道さんのホームページ「博多陶遊窯」 http://homepage2.nifty.com/touyuu/ |
ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その3》
ゴシック様式(世上建築編)
ゴシックと呼ばれる様式は、何も教会や宗教的施設に限って当てはめられるものではない。中世、豊かな市民階級=有産階級(ブルジョワ)と呼ばれる人々 は、当時の「流行」を自分達の所有物(家屋や調度品)に取り入れた。
ポラントリュイ市旧市街を例に取ってみる。建物の間口が狭いのが特徴である。都市が建設され始めた頃(13世紀以前)、建物の幅で税金がかけられていた ためである。道の上に現れる部分1トワズ(フランスの古い単位)=約1,95mが最小単位である。(1289年には約2,5mに引き上げられた)幅は狭 く、奥行き深い建物が連なっている。数軒毎に小路があり、建物の裏側や向こう側の通りと繋がっている。ここはかつて生活廃水を垂れ流しする場所であり、共 同便所であり、火災の延焼を防ぐ役割も兼ねていた。
扉を開け、屋内に入ってみよう。廊下があり、左右の壁の向こうは居住区域。(現在は商店や事務所になっているところがほとんど)らせん階段があり、 2~4階の各部屋に行けるようになっている。(現在は貸しマンションとなっている建物が多い)階段は石造りであり、火事の際に焼け落ちないため、非常階段 の役割をも果たした。また、富の象徴でもあり、有産階級者はらせん階段所有を人々に知らしめるため、建物のその部分をわざと膨らませた。 屋内に話を戻す。有産階級者家屋の典型的な造りに、露天の中庭がある。そしてその裏には家畜小屋。小屋からは例の小路に直接出ることができた。有産階級 者のほとんどは農業も営んでいた。彼ら(又は使用人)は朝、馬や牛を連れて城壁外にある畑に出向いた。冬の間は小屋に家畜を繋いでおけた。
その他の特徴を挙げると、階毎に中庭を向いて付けられている、ギャラリーと呼ばれるバルコニー、そして井戸である。水源豊かなポラントリュイでは旧市街 の地下を水が流れており、井戸さえ掘れば一般市民でも自家用の水を汲み上げることができた。ただ、浅い井戸の水の中には雑菌が混じりやすく、ここもペス ト・チフス流行の原因の一つとなった。しかし当時の人々は伝染病を「外国兵がもたらしたもの」または「ユダヤ人の企み」と信じ込み、嫌悪と迫害を露にした のである。ゴシック様式流行の時代は、その意味では暗黒時代そのものと言えるかも知れない。 実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?
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ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その2》
ゴシック様式(宗教建築編)
永遠の隣人・フランスにおけるゴシック建築の誕生は、時代の流れと大きく結びついている。異民族の侵入や略奪の脅威がほぼ取り除かれた11世紀から12 世紀にかけて、農村部で大開墾運動が起こり、生産性が格段に上がった。食糧事情の好転は人口急増に繋がり、たった200年でフランスの人口は3倍以上、2 千万人を超えた。豊かになった農村地帯では労力が余り、都市部への人間の移動も始まった。 ロマネスク建築の教会が自然の中でのストイックな祈りの場、巡礼者が行き来する街道沿いの辺鄙な場所に建てられたのに対し、ゴシック建築の教会・大聖堂 が都市部に発達した一つの理由は、都市部に人口が集中し始めたことにも起因する。それまでの、身内だけの平穏な暮らしから数多くの他人に混じって暮らすよ うになったストレス・・・彼らは精神的な救いを祈りに求めた。 もう一つの理由は、発展した都市で台頭してきた市民・有産階級の経済力、そしてそれを利用して国内統一を目指す王・大領主の権力アピールの場としての建 築熱である。彼らは競って壮大で華麗な大聖堂を建てた。また教会は、文字が読めずラテン語を理解しない市民に対しても図解的に教義を説くことができる「巨 大な聖書」としての役割も果たした。現代においても、像やフレスコ画、壁や柱のレリーフに目を奪われる人間は、何も信者だけではないだろう。 ここまで述べてから、ふと気づいた。人間の本質というものは中世も、科学が発達し物が溢れた現代も、大して変わらないということを・・・
ゴシック建築の特徴を、ロマネスクと比較しながら幾つかあげてみる
教会から南側に突き出したサン・ミッシェル礼拝堂は15世紀後半に完成、同名の信徒団体が惜しみなく財力を注ぎ込んだ、小さいながらもなかなか見ごたえ がある一角である。ここにひっそりと置かれている「奇跡の聖母像」については連載の第18回をご参照に。 教会では1978年から1983年にかけて、大規模な修復・改築工事が行われた。その際、内陣の華美過ぎるバロック調祭壇を取り除き、建設当時のスタイ ルに忠実な、ゴシック式へと改められた。さすがに傷みが激しいフレスコ画であるが、消えかかっている部分はそのままになっている。これは修復チームが取り 決めたことで、 実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか? |
ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その1》
ロマネスク様式
他の多くの国と同様、ジュラ州に於けるロマネスク様式の建築物はほとんど残っていない。いずれも時代時代に応じた改築、または破壊を免れなかったからで ある。 ヨーロッパの歴史的背景を少し述べる。5世紀から10世紀中の、芸術や建築どころでなかった暗黒と混乱の戦争の時期がようやく終わりを告げた。また、人 々は世紀末思想~999年に世界は終わる~に怯え続けていたが、結局終焉は訪れることなかった。彼らは神の愛と加護に感謝し、各地で巡礼が盛んに行われる ようになった。また、その巡礼の道に沿って数多くの教会が建設されるようになった。 建築技術がそれほど発達していないロマネスク建築様式の特徴は、時には1mを超える分厚い壁と、小さな窓、そして半円形のアーチである。石の半円形天井 は構造的に外側に開く傾向があるため、崩れやすい。そのため、壁を厚くし、窓もできるだけ小さく開けたのである。また、後に都市部を中心に発達したゴシッ ク建築の教会と違い、自然の中での祈りの場として選ばれたため、山間部や森林、川べりといった僻地、田舎に建てられた。 地理的条件から観光コースには含まれていないため、訪れる観光客はめったにいない。現在、定例ミサは日曜の18時からここで行われている。町の中心から は少し外れているが、出席者は意外と多い。ポラントリュイで最も古い建築物の簡素で厳かな雰囲気は、夕方の静かな祈りにより適しているからだろうか。翌 日、月曜から新たに始まる日常の憂鬱をしばし忘れるために・・・。 |