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ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その2》

「人に歴史あり」と言うが、人口数百人の小さな村にも大いなる歴史が存在する。ワールドアイで歴史エッセイ執筆のお仕事をさせていただくことになって以 来、スイスのどこにでもある小さな村の資料を紐解くことが多くなったが、悲喜入り乱れた豊かな深層に、驚嘆することしばしば、ボンフォル村もその一つであ る。

1989年、偶然、鉄器時代(ハルシュタット初期)の土墳が発見され、アジョワ地方で最初に人間が定住した村と推測されている。ボンフォルという村の語 源はラテン語で「良き森」に通じるが、ケルト語では「粘土の豊富な場所」である。古来より陶器作りの盛んな村であるから、私としては後者を押したい。(し かも、ローマ人はケルト人の後に入植しているゆえ)


▲ボンフォルの池
四季折々、美しい顔を見せてくれる。

▲池周辺に集まる鳥のパネル
池の周りにある遊歩道には、様々な動植物に関する説明のパネルが設置されており、散歩しながら自然につ いて学べるようになっている。

ちょっとグロテスクな色使いだが、池に住む(または養殖されている)魚達。鯉のフライはこの村の名物。レ ストラン「Grütli」が評判の店。

▲ルーベンスが描いた
最後のブルゴーニュ王・シャルル突進公

知的戦略というよりは情熱の赴くまま無謀な戦争を繰り返したことからつけられた渾名。神聖ローマ皇帝に なりたいという野望があったらしい。彼の戦死後、娘マリーが神聖ローマ皇帝となるマキシミリアン一世に嫁ぎ、短命ながらも幸福な結婚生活 を送ったことで、魂は安らいだだろうか?

▲陶器作りの様子を表した絵画
かつては家内産業だった

ボンフォルの名は1136年、最初に文献に登場した。粘土・陶芸についての記述はもっと後になってから、1383年である。この粘土、ライン氷河の堆石 (モレーン)の賜物で、ジュラではここでしか見られない地層であるから、氷河はちょうどこの村で終わっていたと推定される。赤みを帯びたボンフォル粘土で 製造した陶器は、荒削りながら火に強い。特にフォンデュ鍋は一世を風靡した。現在でこそフォンデュと言えばチーズフォンデュなどスイス料理の代名詞たる料 理に使われるものと思われているが、フォンデュ鍋 = caquelon(カクロン)の語源はcaquelle(カケル = 焼いた土・テラコッタ)であ り、どの家庭でも様々な煮炊きに使っていた一般的な調理鍋だった。元々は三本足で、直火にくべた。質素で実用重視・丈夫なボンフォル製の鍋は1283年か らポラントリュイ・アジョワ地方の支配者となったバーゼル大公司教宮廷の台所で重宝された。

歴代バーゼル大公司教はこの村の池をこよなく愛した。自然の中で散策を楽しみ、狩猟という娯楽に浸った。この池に集まる様々な魚や鳥は、宮廷の食糧とも なった。この池は1961年、自然保護地域に指定されたため、現在では植物を採取したり動物を捕獲することは許されない。キャンプや焚き火も禁止。犬を放 し飼いにすることはできないので愛犬を連れて散歩の際はご注意を!

美しい池と森林を有し、村人は農業と陶器製造に勤しむ・・・一見、おとぎ話に出てくるような村にも、悲惨な歴史がある。
1474年、ブルゴーニュ戦争のきっかけは、この村も含めた、オー・ラン地方(Haut-Rhin)の悲劇が発端である。ブルゴーニュ王、シャルル突進 公の補佐官でオー・ランの代官であったピエール・ド・ハーゲンバッハは、Breisach市民の蜂起により、捕らえられ、正当な裁判もないまま処刑され た。彼の弟であるエティエンヌ・ド・ハーゲンバッハは、兄の仇とばかり、蜂起に加担した市町村を急襲。ボンフォル村もその犠牲となった。生き残った民は村 はずれに集まり、他村の協力も得ながら、新しい村作りに取り掛からなければならなかった。スイス連邦と同盟軍はフランス王ルイ11世と協定を結び、戦争に 突入。ブルゴーニュ王シャルルを倒すために3年を費やした。ブルゴーニュ公国南半分はフランスに併合され、北半分フランドルはシャルルの遺児マリーが神聖 ローマ皇帝の後継者に嫁いだため、ハプスブルグ領となった。

中世ヨーロッパを吹き荒れた魔女狩りの嵐は、小さな村をも見逃しはしなかった。1609年、魔女の疑いをかけられたある寡婦が首をはねられ、火刑に処せ られた。
1618‐1648年の三十年戦争では各国軍傭兵の現地調達・・・つまり略奪に苦しみ、他の市町村同様、大きな被害を蒙った。とりわけ酷かった1634 年、スウェーデン軍はボンフォル村を占領した挙句に焼き討ちし、数多くの住民を虐殺した。この時、12km離れたポラントリュイは「奇跡的に」暴虐を免れ ている。第18話「奇跡の聖母伝説」をご参照に。
1768年、水が抜かれていた大池からガスが発生、悪性の熱病を流行らせた。僅か数日間で宗教関係者を初め、60人が死亡した。多くの家々は腐り、閉鎖 された。
第一次世界大戦中、フランス・ドイツ戦線に近かったため、誤爆を受けた。しかし、ある仏・独バイリンガルのスイス兵の提案で、クリスマスの夜、フランス 兵とドイツ兵が村で一緒に夕食を取ったというような美談も存在する。

数々の困難を乗り越えたボンフォル村は、19世紀後半よりジュラの近代化・産業化と共に飛躍的に発展を遂げていったが、その後の痛々しいばかりの斜陽ぶ り・復興に向けての努力は次回お伝えする。

ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その1》

ポラントリュイから15km。フランス国境が間近に迫る、どこにでもある小さな村。15年ジュラ州に在住していながら気にも留めていなかったボンフォル 村に注目し始めたのはつい最近のことだ。
2年ぐらい前か。一通のメールが舞い込んできた。沖縄在住のダニエル・ロペス氏。「本の注文をしたい。今、ボンフォルに里帰りしているから、良ければ手 渡し願いたい(そうすれば会って話もできるし)」という丁寧かつジュラ人らしい親しみやすさ溢れる内容だった。お付き合いの始まりである。写真家・平和活 動家・TVキャスターとしてジュラよりは沖縄では知られた存在のダニエルは、現在、沖縄の大学生である。彼の両親はボンフォル村で家庭菜園を営みながら悠 々自適の生活をしており、私達家族はダニエルの友人、そして日本人というだけで彼らにはお世話になっている。


▲西正道氏作、猪の「いがみ様」と「疾走君」
友好大使、そして新しい心の友でもある。

▲フェリシタスさんの特別展示会場
アトリエ兼住居の屋根裏部屋にある。一つ一つが個性的で色も美しい。

▲仕事中のフェリシタス・ホルツガングさん
ボンフォル陶器の将来は彼女にかかっていると言っても過言ではない。見事なまでに均一のコップ。

▲「水を吐くカエルと飲むカエル」
ジュラは各村にあだ名がついている。ボンフォル村は「ヒキガエル」写真は、フェリシタスさんのユーモア溢れる作 品。

▲ボンフォル村陶器博物館の壁」
このプレートもフェリシタスさんの作品。旧小学校を改装した建物であるが、有史以前から現在までのボ ンフォル・ジュラ陶器製造の歴史が楽しく学べる。フェリシタスさんの実演もあり。3月から10月の第一・第三日曜が公式の開館日だがそ れ以外でも予約による入館可能。

縁と閃きは背中合わせ。
二つ目の出会い。スイス個人旅行向け旅行会社「Let’s SWISS」の代表・樽見さんとは前年度から親しくさせていただいている。その彼が、今年の夏、ポラントリュイ・サンチュルザンヌ観光にもう一つ目玉を くっつけて、パッケージにした上でお客様にお勧めしたいので何か個性的な観光地はないかという相談を持ちかけてきた。私はふと、陶器で有名だというボン フォルの名前を出した。前出のダニエルとご両親に、間接的に恩返しをしたいという気持ちがあったのかも知れない。

そして第三の出会い。この秋、樽見さんのスイス来訪を控えた頃、日本から小包が届いた。見知らぬ方の名前で、少しドキドキしながら開封してみると、猪の 人形であった。(上部写真参照)送付主、西正道さんは、博多で陶芸を営む方である、来年(2007年)の干支である猪について調べているうちに、私が書い た「ポラントリュイ便り第17話・イノシシ伝説」に行き当たったそうだ。興味を持って下さった西さんは、ホームページへの小文転載を希望し、わざわざ貴重 な作品である猪の人形二体を、「日本・スイス親善大使」としてお送り下さったのだ。私は運命を感じた。「これはジュラを代表する伝統的な陶芸村・ボンフォ ルを推せという天啓だ!」と。西さんのホームページをまずご覧いただきたい。イノシシに関する記事だけでなく、私が送ったボンフォル関係の写真も掲載中で ある。

樽見さんがいらした2006年10月30・31日は、近年のスイスで最も美しい晩秋の日々であった。私達はボンフォル村中心部に位置する陶芸家・フェリ シタス・ホルツガングさんのアトリエと陶芸博物館を訪れた。

フェリシタスさんは中央スイス、シュヴィーツ州出身である。ベルンの芸術学校を終えた後、ジュラの陶芸家に師事し、結果としてボンフォルの伝統陶芸を後 世に伝えていく重要な人物となった。彼女は自作品の展示販売だけでなく、アトリエ近くに建つ博物館の館長として文化保存・促進に奮闘中である。また、ポラ ントリュイ市老人ホームで週に一度、陶芸を教えている。2007年1月にバーゼルで開催される中世関連のフェスティヴァルで使用するというコップ100個 の製造の手を休め、私達たった二人のために労を惜しまず案内をしてくれたフェリシタスさんの姿に、私は大いなる感動と共感を覚えた。活動を通じてジュラと いう出身地以外の土地に溶け込み、根を下ろし切った同志として・・・。

西正道さんのホームページ「博多陶遊窯」 http://homepage2.nifty.com/touyuu/
Let’s SWISSホームページhttp://www.letsswiss.com/
ボンフォル村公式ホームページhttp://www.bonfol.ch/
ボンフォル村陶器博物館のページhttp://www.bonfol.ch/rubrique.php3?id_rubrique=17 http://www.museesbeju.ch/index.php?template=view_musee.inc&uid=60

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その3》

ゴシック様式(世上建築編)

ゴシックと呼ばれる様式は、何も教会や宗教的施設に限って当てはめられるものではない。中世、豊かな市民階級=有産階級(ブルジョワ)と呼ばれる人々 は、当時の「流行」を自分達の所有物(家屋や調度品)に取り入れた。


▲ゴシック家屋が連なる旧市街
急角度の屋根、間口の狭さなどの特徴が顕著。窓は18世紀になってバロック様式に直されたものが多い。

ポラントリュイ市旧市街を例に取ってみる。建物の間口が狭いのが特徴である。都市が建設され始めた頃(13世紀以前)、建物の幅で税金がかけられていた ためである。道の上に現れる部分1トワズ(フランスの古い単位)=約1,95mが最小単位である。(1289年には約2,5mに引き上げられた)幅は狭 く、奥行き深い建物が連なっている。数軒毎に小路があり、建物の裏側や向こう側の通りと繋がっている。ここはかつて生活廃水を垂れ流しする場所であり、共 同便所であり、火災の延焼を防ぐ役割も兼ねていた。


▲ゴシックの典型、三連になった窓
ここは「Jolat(ジョラ)の家」と呼ばれる。16世紀半ば過ぎ、ある錠前職人がカトリック批判演説 をしていた宗教改革者を追い出したことで評価され、「ジョラ」という名前を与えられた上、有産階級に列された。つい最近に至るま で、子孫は錠前製造業を継いでいた。現在、一階部分はクリーニング店である。

▲切り石からできたらせん階段
これは城の内部で凝った造りだが、有産階級者もそれなりに立派ならせん階段を備えていた。

扉を開け、屋内に入ってみよう。廊下があり、左右の壁の向こうは居住区域。(現在は商店や事務所になっているところがほとんど)らせん階段があり、 2~4階の各部屋に行けるようになっている。(現在は貸しマンションとなっている建物が多い)階段は石造りであり、火事の際に焼け落ちないため、非常階段 の役割をも果たした。また、富の象徴でもあり、有産階級者はらせん階段所有を人々に知らしめるため、建物のその部分をわざと膨らませた。
そのまま階段を上りきると、屋根裏部屋に続いている。現在観光ガイド付きで一般公開されているRiat(リア)家では、屋上まで出ることができ る。ここからは表通りと違って手入れが悪く、かつては不潔さでペストやチフスの発生源ともなった小路が覗ける。家々から突き出た石の排水口が、用済みと なった今でも当時の形のまま残っている。

屋内に話を戻す。有産階級者家屋の典型的な造りに、露天の中庭がある。そしてその裏には家畜小屋。小屋からは例の小路に直接出ることができた。有産階級 者のほとんどは農業も営んでいた。彼ら(又は使用人)は朝、馬や牛を連れて城壁外にある畑に出向いた。冬の間は小屋に家畜を繋いでおけた。
小路を挟み、同様の造りの家屋が背中合わせにくっつき、並んでいる。都市の一番外側では、家屋の後ろに城壁があった。窓を大きく開けられるようになった のは1754年の条例以来である。それまではヨーロッパ列強の国々が戦争をする度に軍団の通り道となり、「現地調達」が当たり前であった傭兵達の狼藉や略 奪に苦しんでいた。そのため、城壁側の窓はなるべく小さく、そして閉め切られていたのである。


▲「リア家」中庭から店に続く
ゴシックの扉

1549年製造。元々は通りに面した正門であったが、18世紀、バロック様式が流行した時に取り外され、中庭 に入れられた。「主よ、この家と家に住むものにお恵みを」とラテン語で刻まれている

その他の特徴を挙げると、階毎に中庭を向いて付けられている、ギャラリーと呼ばれるバルコニー、そして井戸である。水源豊かなポラントリュイでは旧市街 の地下を水が流れており、井戸さえ掘れば一般市民でも自家用の水を汲み上げることができた。ただ、浅い井戸の水の中には雑菌が混じりやすく、ここもペス ト・チフス流行の原因の一つとなった。しかし当時の人々は伝染病を「外国兵がもたらしたもの」または「ユダヤ人の企み」と信じ込み、嫌悪と迫害を露にした のである。ゴシック様式流行の時代は、その意味では暗黒時代そのものと言えるかも知れない。

実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?


▲1569年建造
現在はZaugg財団に買い取られ全面改装中だが元は有産階級者の屋敷膨らんだ部分には勿論、富の象徴 「らせん階段」がある!

▲「世上」建築の最高峰はやはり権力者バーゼル大公司教ゆかりの建造物。
1590年、司教の中でも最も革新的と評価されたジャック・クリストフ・ブラレー・ド・ヴァルテンゼー(Blarer de Wartensee)が再建した城。
小塔を挟み、左側が邸宅、右側が公国の事務局である。扉はルネッサンス、窓上部はレジャンス様式、と時 代毎に流行を追って改築。
フランス革命軍が押し寄せてくる1792年まで代々、大公司教はここで宗教・世上、両世界において権力を振るった。

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その2》

ゴシック様式(宗教建築編)


▲サン・ピエール教会内部開口部のほとんどが尖頭アーチである。写真右下・柱に描かれている青い服の男性は聖・クリストフ。「突 然死からの守護聖人」である。朝、彼を見ると、その日突然死から逃れられると信じられ、早朝礼拝の折に後方の信者からもよく見られるよ うに大きく描かれたそうだ。忙しい皆様、どうぞ見て下さい!

永遠の隣人・フランスにおけるゴシック建築の誕生は、時代の流れと大きく結びついている。異民族の侵入や略奪の脅威がほぼ取り除かれた11世紀から12 世紀にかけて、農村部で大開墾運動が起こり、生産性が格段に上がった。食糧事情の好転は人口急増に繋がり、たった200年でフランスの人口は3倍以上、2 千万人を超えた。豊かになった農村地帯では労力が余り、都市部への人間の移動も始まった。

ロマネスク建築の教会が自然の中でのストイックな祈りの場、巡礼者が行き来する街道沿いの辺鄙な場所に建てられたのに対し、ゴシック建築の教会・大聖堂 が都市部に発達した一つの理由は、都市部に人口が集中し始めたことにも起因する。それまでの、身内だけの平穏な暮らしから数多くの他人に混じって暮らすよ うになったストレス・・・彼らは精神的な救いを祈りに求めた。

もう一つの理由は、発展した都市で台頭してきた市民・有産階級の経済力、そしてそれを利用して国内統一を目指す王・大領主の権力アピールの場としての建 築熱である。彼らは競って壮大で華麗な大聖堂を建てた。また教会は、文字が読めずラテン語を理解しない市民に対しても図解的に教義を説くことができる「巨 大な聖書」としての役割も果たした。現代においても、像やフレスコ画、壁や柱のレリーフに目を奪われる人間は、何も信者だけではないだろう。

ここまで述べてから、ふと気づいた。人間の本質というものは中世も、科学が発達し物が溢れた現代も、大して変わらないということを・・・


▲リブ・ヴォールト
ゴシック教会建築の大きな特徴の一つ。筋つきの交差丸天井。

▲教会の壁を支える飛梁(フライング・バットレス)
それほど派手ではないが、飾りではなく
薄い壁の建物が崩れないようにする機能的な役割。

ゴシック建築の特徴を、ロマネスクと比較しながら幾つかあげてみる
ロマネスクの半円アーチは、ゴシックにおいて尖頭アーチへと進化した。天により近づくため天井を上へ上へと高くするようになった。壁の外側からつっかい 棒のように支える飛梁(フライング・バットレス)の導入で、外に開こうとする力を受け止められるようになったからである。ロマネスクの場合は、壁を厚く し、窓をできるだけ小さくすることで倒壊を防いでいた。飛梁の発明で、壁は薄くて済み、大きなステンドグラスをはめる窓を開くこともできた。(注・飛梁= 控壁は既にビザンティン建築で使用されていた)
また、ロマネスク建築で度々使用されていた交差ヴォールト(丸天井)にリブと呼ばれるアーチの筋をつけた。(リブ・ヴォールトと呼ばれる)この筋は天井 を支えていると長い間信じられてきたが、今日の研究成果ではリブは天井を軽く見せるという意匠的・造形的な意図だったと考えられるようになった。
ポラントリュイの代表的な宗教的ゴシック建築は、1475年にサン・ジェルマンに代わり小教区教会となったサン・ピエールである。1321年から 1333年にかけて建築された後、改築を重ね、各時代の様式を取り入れながらも、内部は上記に述べた特色に忠実な、ゴシック色を濃く残している。


▲サン・ミッシェル礼拝堂内部
飛梁によって支えられている。この建築技術によって,
大きなステンドグラスがはめられる縦型の窓を
開けられるようになった


▲サン・ジェルマン教会
ロマネスク~ゴシックの過渡的建築物のゴシック部分。
正門は明らかなる尖頭アーチ。(第34話:ロマネスク様式 参照)

教会から南側に突き出したサン・ミッシェル礼拝堂は15世紀後半に完成、同名の信徒団体が惜しみなく財力を注ぎ込んだ、小さいながらもなかなか見ごたえ がある一角である。ここにひっそりと置かれている「奇跡の聖母像」については連載の第18回をご参照に。

教会では1978年から1983年にかけて、大規模な修復・改築工事が行われた。その際、内陣の華美過ぎるバロック調祭壇を取り除き、建設当時のスタイ ルに忠実な、ゴシック式へと改められた。さすがに傷みが激しいフレスコ画であるが、消えかかっている部分はそのままになっている。これは修復チームが取り 決めたことで、
「我々は当時の人間にはなり得ない。つまり、彼らの感性・芸術観にはほど遠い。よって、いくら真似たところで絵は再現できない」
という信念から来るものである。なるほど、と私は感じ入った。有名な観光地の大聖堂は何から何までキンキラキンのピッカピカ、昨日描いたかと思われるよう な美しいフレスコ画があったりするが、それはあくまでも後世、丹念に手を入れられたゆえんである。

実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その1》

ロマネスク様式


▲サン・ジェルマン教会、内陣側の壁
写真上が欠けていて微妙な屋根の伸び具合が見られないが修道院と教会が合体したような不思議な造りである。 窓が小さい!

▲サン・ジェルマン教会内部
外陣から内陣を見て。非常に簡素である

敷き詰められた墓石を踏みつける度に心が疼く…

彫られた字が見えないほど古くなった墓も。日本の霊園と違ってあまり恐怖感はない?

▲ポラントリュイ城の
砦的役割を果たしたレフュ塔

1270年頃完成。以来700年以上…サン・ジェルマン教会を見下ろしながら建っている(こちらは ロマネスク様式ではなく「ローマ式軍事用建築物」)

他の多くの国と同様、ジュラ州に於けるロマネスク様式の建築物はほとんど残っていない。いずれも時代時代に応じた改築、または破壊を免れなかったからで ある。
ポラントリュイでは、サン・ピエール教会以前に町と周囲の村々の小教区教会だったサン・ジェルマン教会が唯一のロマネスク建築(正確にはロマネスク後期 からゴシック初期の過渡期的建築)である。
発掘調査結果によると、元々の教会は1000年前後にMoutier-Grandval修道院からの入植者によって建てられたらしい。彼ら修道士は当時 最高の教養を身につけており、布教活動を行うだけでなく、地域住民の教育や農地開拓の指導者でもあった。その後、教会は13世紀に建て直されおおよそ今日 の形となった。

ヨーロッパの歴史的背景を少し述べる。5世紀から10世紀中の、芸術や建築どころでなかった暗黒と混乱の戦争の時期がようやく終わりを告げた。また、人 々は世紀末思想~999年に世界は終わる~に怯え続けていたが、結局終焉は訪れることなかった。彼らは神の愛と加護に感謝し、各地で巡礼が盛んに行われる ようになった。また、その巡礼の道に沿って数多くの教会が建設されるようになった。
余談であるが、ジュラ地方の支配者の一人であったブルゴーニュ王ルドルフ3世は世紀末の恐怖に耐えかね、999年に自分が支配下においていた Moutier-Granval修道院及びそれに付随する土地をバーゼル司教・アダルベロン2世に寄付した。この世を滅ぼす天変地異はついぞ起こらず、も しかしたらルドルフ3世は損した気分ではなかっただろうか?
ちなみにこの贈与でバーゼル司教は膨大な支配地域を獲得し、それは一つの国家の誕生と見なされた。1792年まで続くバーゼル司教公国の前身である。

建築技術がそれほど発達していないロマネスク建築様式の特徴は、時には1mを超える分厚い壁と、小さな窓、そして半円形のアーチである。石の半円形天井 は構造的に外側に開く傾向があるため、崩れやすい。そのため、壁を厚くし、窓もできるだけ小さく開けたのである。また、後に都市部を中心に発達したゴシッ ク建築の教会と違い、自然の中での祈りの場として選ばれたため、山間部や森林、川べりといった僻地、田舎に建てられた。
サン・ジェルマン教会はゴシック初期への過渡期に建てられたため、建物の屋根は微妙な角度で上に伸びている。ゴシックの計算され安定した尖り具合に懸命 に近づきつつある、という少し微笑ましい趣である。建物の幅は最大で60cmの差(技術的ミス?)がある。
教会への入口扉と内陣へ入る開口部分は柔らかな角度の尖頭形であり、やはりゴシック初期への移行を示している。
この教会はポラントリュイの城壁外にあるため、有事の際に守り切れないということで小教区教会は1321-1333年に城壁内に建設されたサン・ピエール 教会に移った。(1478年)サン・ジェルマン教会自体は1427年に北側にチャペルが加えられて拡張、1698年に5m余り外陣(=人々が祈る場所、特 に中央の身廊)が伸ばされた。16~18世紀にかけて回廊には石灰岩の墓石が敷き詰められた。1960年の修復時には幾つもの壁のフレスコ画が発見され、 17世紀に描かれたものと推測される。霊園は手狭になったため、1884年を最後に埋葬は行われなくなった。

地理的条件から観光コースには含まれていないため、訪れる観光客はめったにいない。現在、定例ミサは日曜の18時からここで行われている。町の中心から は少し外れているが、出席者は意外と多い。ポラントリュイで最も古い建築物の簡素で厳かな雰囲気は、夕方の静かな祈りにより適しているからだろうか。翌 日、月曜から新たに始まる日常の憂鬱をしばし忘れるために・・・。

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