ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その3》

2010年2月28日

ゴシック様式(世上建築編)

ゴシックと呼ばれる様式は、何も教会や宗教的施設に限って当てはめられるものではない。中世、豊かな市民階級=有産階級(ブルジョワ)と呼ばれる人々 は、当時の「流行」を自分達の所有物(家屋や調度品)に取り入れた。


▲ゴシック家屋が連なる旧市街
急角度の屋根、間口の狭さなどの特徴が顕著。窓は18世紀になってバロック様式に直されたものが多い。

ポラントリュイ市旧市街を例に取ってみる。建物の間口が狭いのが特徴である。都市が建設され始めた頃(13世紀以前)、建物の幅で税金がかけられていた ためである。道の上に現れる部分1トワズ(フランスの古い単位)=約1,95mが最小単位である。(1289年には約2,5mに引き上げられた)幅は狭 く、奥行き深い建物が連なっている。数軒毎に小路があり、建物の裏側や向こう側の通りと繋がっている。ここはかつて生活廃水を垂れ流しする場所であり、共 同便所であり、火災の延焼を防ぐ役割も兼ねていた。


▲ゴシックの典型、三連になった窓
ここは「Jolat(ジョラ)の家」と呼ばれる。16世紀半ば過ぎ、ある錠前職人がカトリック批判演説 をしていた宗教改革者を追い出したことで評価され、「ジョラ」という名前を与えられた上、有産階級に列された。つい最近に至るま で、子孫は錠前製造業を継いでいた。現在、一階部分はクリーニング店である。

▲切り石からできたらせん階段
これは城の内部で凝った造りだが、有産階級者もそれなりに立派ならせん階段を備えていた。

扉を開け、屋内に入ってみよう。廊下があり、左右の壁の向こうは居住区域。(現在は商店や事務所になっているところがほとんど)らせん階段があり、 2~4階の各部屋に行けるようになっている。(現在は貸しマンションとなっている建物が多い)階段は石造りであり、火事の際に焼け落ちないため、非常階段 の役割をも果たした。また、富の象徴でもあり、有産階級者はらせん階段所有を人々に知らしめるため、建物のその部分をわざと膨らませた。
そのまま階段を上りきると、屋根裏部屋に続いている。現在観光ガイド付きで一般公開されているRiat(リア)家では、屋上まで出ることができ る。ここからは表通りと違って手入れが悪く、かつては不潔さでペストやチフスの発生源ともなった小路が覗ける。家々から突き出た石の排水口が、用済みと なった今でも当時の形のまま残っている。

屋内に話を戻す。有産階級者家屋の典型的な造りに、露天の中庭がある。そしてその裏には家畜小屋。小屋からは例の小路に直接出ることができた。有産階級 者のほとんどは農業も営んでいた。彼ら(又は使用人)は朝、馬や牛を連れて城壁外にある畑に出向いた。冬の間は小屋に家畜を繋いでおけた。
小路を挟み、同様の造りの家屋が背中合わせにくっつき、並んでいる。都市の一番外側では、家屋の後ろに城壁があった。窓を大きく開けられるようになった のは1754年の条例以来である。それまではヨーロッパ列強の国々が戦争をする度に軍団の通り道となり、「現地調達」が当たり前であった傭兵達の狼藉や略 奪に苦しんでいた。そのため、城壁側の窓はなるべく小さく、そして閉め切られていたのである。


▲「リア家」中庭から店に続く
ゴシックの扉

1549年製造。元々は通りに面した正門であったが、18世紀、バロック様式が流行した時に取り外され、中庭 に入れられた。「主よ、この家と家に住むものにお恵みを」とラテン語で刻まれている

その他の特徴を挙げると、階毎に中庭を向いて付けられている、ギャラリーと呼ばれるバルコニー、そして井戸である。水源豊かなポラントリュイでは旧市街 の地下を水が流れており、井戸さえ掘れば一般市民でも自家用の水を汲み上げることができた。ただ、浅い井戸の水の中には雑菌が混じりやすく、ここもペス ト・チフス流行の原因の一つとなった。しかし当時の人々は伝染病を「外国兵がもたらしたもの」または「ユダヤ人の企み」と信じ込み、嫌悪と迫害を露にした のである。ゴシック様式流行の時代は、その意味では暗黒時代そのものと言えるかも知れない。

実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?


▲1569年建造
現在はZaugg財団に買い取られ全面改装中だが元は有産階級者の屋敷膨らんだ部分には勿論、富の象徴 「らせん階段」がある!

▲「世上」建築の最高峰はやはり権力者バーゼル大公司教ゆかりの建造物。
1590年、司教の中でも最も革新的と評価されたジャック・クリストフ・ブラレー・ド・ヴァルテンゼー(Blarer de Wartensee)が再建した城。
小塔を挟み、左側が邸宅、右側が公国の事務局である。扉はルネッサンス、窓上部はレジャンス様式、と時 代毎に流行を追って改築。
フランス革命軍が押し寄せてくる1792年まで代々、大公司教はここで宗教・世上、両世界において権力を振るった。