Pages: Prev 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Next

‘未分類’ カテゴリーのアーカイブ

私のラ・ヴィ・アン・ローズ

「セシル・エ・クロード」(セシルとクロード)という、これと言ってインパクトの無いタイトルの小説は、ある文学賞で選外になりました。 (まだ私は力不足だ)この結果は当然と思いながらも、一方で、(こんな良い小説をどうして外すのだ???)と根拠の無い自信はたっぷりありました。(笑) 家族、特にセシルの娘である義母は、会う度に聞いてきました。「あの小説はどうなったの? 本にならないの?」彼女自身は読書をする人ではありませんが、 自分の父母の生涯を描いた小説の行方が気になっていたのでしょう。自他共に募った思いが飽和状態に達した時、私は遂に決心しました。 「何としても、この作品を埋もれさせたくない!」


▲「夢を追い続ければ必ず叶う」

2002年、書き直した作品を、ネット上で知った出版社、新風舎に送ってみました。すると、「幸せとは何かという普遍的な問題を、時代を超え、 現代の我々にも強く訴えかけてくる完成度の高い作品です。是非出版してみませんか」とお返事がありました。いきなり「出版」とは!  出版方法の「共同出版」は初耳でした。著者が制作費用を負担し、出版社が宣伝広告・営業費用を担当するというもの。 自費出版との違いは、書店に流通するというところです。稼ぎの無い主婦の私にとって、決して安くは無い値段。しかし、夫に相談してみたところ、 「折角のチャンスだから頑張ってみなさい」という寛容な、暖かい言葉が返ってきました。こうして何度かの修正・校正を経て、 2003年2月、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」と新たに題された作品は出版され、梅田・紀伊国屋さんなど、夢にまで見た書店に並べていただけることになった のです。

「ラ・ヴィ・アン・ローズ」校正中、私は何度も不思議な体験をしました。またそれはどこかで書く機会があると思います。 そのせいか、ふと、「亡くなった人々への鎮魂歌を、この町を舞台にして創造したい」というインスピレーションが湧き、 二作目「レクイエム」の執筆に取り掛かりました。こちらも賞は逃したものの、2004年2月11日、夫と私の11回目の結婚記念日に出版されました。


▲「日本文学の夕べ」にて
50人の聴衆を前に日本語の作りを説明し
俳句や和歌(百人一首)を紹介。

一作目は三刷、二作目も二刷と、めでたく増刷になりました。スイスでも私独自の宣伝活動が功を奏し、数多くの日本人に愛読していただいています。 2003年の秋から、大阪市の通訳業務派遣会社、「国際通訳合資会社」のホームページ、そしてここ六稜同窓会WEB上に於いてもエッセイを連載させていた だいています。 スイスの新聞各社にも、「スイスを舞台にした小説を書く日本女性」として記事を掲載していただきました。また、2004年の5月には、 地方文学団体主催の「日本文学の夕べ」にてスピーチをするという、この上なく光栄な機会を賜りました。
最近、ポラントリュイ市ガイド協会に入会しました。単にガイド業務に興味があるだけでなく、日本の方はほとんど知られていないこの町を紹介したいからで す。 町の歴史を徹底的に勉強したいという願いは、小説の下調べをしていた時からありました。「ラ・ヴィ・アン・ローズ」では第二次世界大戦中のジュラ地方の歴 史、 「レクイエム」では三十年戦争時にポラントリュイの町を救った奇跡のマリア像や教会についての歴史を学びました。知識が増えるに連れ、ポラントリュイとい う町、 ジュラという州、そしてスイスという国をどんどん好きになっていく自分がいます。小説を通じて開けた私の「ラ・ヴィ・アン・ローズ」。 しかし、ここに至るまでは執筆とは直接関係の無い、様々な出来事があったゆえ。


▲シナゴーグ通り
気取ったところが微塵も無い、人情味ある土地柄M
著者の住むアパートは、
ユダヤ教会(シナゴーグ)跡地に建てられた。

とことんまで落ち込んだ時、ある結果に辿り着きました。「人生の全ての出来事は一つの線で結ばれているのだ」と。 英語好きが高じて英国留学したことも、スイス男性と恋愛結婚してスイスを終の住み処と決めたことも、家庭の内外で悩み苦しんだことも、 全ては現在の自分に繋がっていたのだと。そしてまだまだ前に道が伸び、次の瞬間、瞬間と結ばれているのだと。そう悟った時、何も恐いものはなくなりまし た。 もし、私の生命が明日ふいに絶たれたとしても、私はこう思いながら永遠の眠りにつくでしょう。 「この世に生を受けたことに感謝したい。私は幸せだった」  自分が自分らしくいられるよう、そして一人でも多くの人と分かち合えるよう、生涯を執筆活動に捧げます。

ここまで読んでいただいた皆様、どうもありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

石の上にも・・・?

幼少時より、暇さえあれば部屋にこもり、文章や長編マンガを書いていた私。学校の読書感想文で入選経験あり。雑誌に投稿すれば、たいていの場合、採用。 ちょっとした物語を書いて友達に回せば「面白い!」と絶賛。「もしかして私には、いわゆる文才があるのかも?」とうぬぼれたことも少なくありませんでした が、 単なる自己満足に過ぎませんでした。名声や富を得ることが執筆活動の目的ではありませんが、作品が評価され、 プロの小説家として認められたいと強く思うようになりました。


▲小説の資料集めを
していた頃

まだまだ二人とも手が掛かります!

▲私に初期衝動を
与えてくれたバンド

2000年末に解散してしまいましたが彼らの音楽は、私の精神・作品の中に宿っています。そして「彼」は今でも活躍中!

私は、「どうすれば自分の書いた作品が世に出るのか」とひたすら考えつつも、「まず自分が楽しむことが先決」と、 好きな題材を選び、毎晩少しずつ、コツコツ書こうと心がけました。「まず自分が楽しむ」とは、ミュージシャンの「彼」から学んだことです。 肉体労働のアルバイトをして小金を稼いでは音楽活動につぎ込み、食べるものもろくに食べず、デビューまでの数年間、貧困生活の中に自分を追い込んでいった 彼。 それでも、「自分が一番好きなことをやっている」という意識があったからこそ続けられたと振り返っています。

一方、私は夫のお蔭で食べ物にこそ困りませんでしたが、執筆に集中できる一人の時間がほとんどありませんでした。 当時、長女がやっと幼稚園に行き始めたばかり。二歳の次女は昼寝をあまりしなくても一日中元気一杯。 一般のスイス人家庭では、それぞれが正午に仕事場や学校から帰宅し、家族揃って昼御飯を食べます。 午前中は子供の相手と食事作りだけで終わり。午後は後片付けや子供連れでの買物に大部分を費やします。 長女の幼稚園での拘束時間も日本に比べれば短いものです。自分の時間と言えば、子供達が寝静まった夜しかありませんでした。 誰にも譲れない、自分だけの貴重な時間。一分でも、一秒でも惜しい! こんなにも時間に飢え、24時間が短いと思えたのは、 人生で初めてかも知れません。「時は金なり」とはよく言ったものです。

99年から始めたインターネット・メール交換を通じ、新たに日本在住の友人が沢山できました。 その中の数人に、気負い無く書いたコメディ小説(官能小説とも言われた!)数作を読んでもらいました。 「スイスに住んでフランス語を喋って暮らしていても、日本語文章力は落ちていない」と自負した私は、 小説を書いては文学賞に応募し始めます。最初に書いた中編小説のタイトルは「エトランジェ」。 夫と出会った英国留学の体験がモチーフです。そして、2000年の夏、人生を変えるきっかけとなる閃きが、私を突き動かします。 「あ~あ、どこにも行けないなんて・・・一人では何も出来ないなんて・・・ほんと、つまらないわ、つまらないわ」


▲三世代で長女ジェシカを囲んで。
初・ひ孫の誕生に喜んだ、元気な頃のおばあちゃん。
「ラ・ヴィ・アン・ローズ」の中に、彼女と、
彼女を育んだ土地への愛情を込めました

夫の祖母、セシルはベッドに腰掛けてぼやきます。彼女の青白い顔には、かつて私達を驚嘆させた、 「幾つになってもヤンチャで行動的で少女のように無邪気な」若作りおばあちゃんの面影すら見当たりませんでした。 その傍らで私は溢れる涙を拭い続けていました。 (もうおばあちゃんは死んでしまう・・・もうこの世で二度と会えないのだ!)  その見舞いの帰り道、私は夫に宣言しました。 「おばあちゃんのことを小説に書く!」 予感通り、セシルおばあちゃんは、私が帰国中の2000年8月6日、愛する七人の子供達に看取られながら生涯を終えました。  この年、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」はまだ存在していませんでした。

TRUE BLUE & SHINE

このエッセイを読んで下さっているお母さん方にはご経験がおありでしょうか? 出産後の女性が育児疲れや環境の変化などから心身に異常をきたすという マタニティーブルー。 ちょっとしたことにも敏感に反応し、イライラしたり涙を流したり。

長女出産後二ヶ月ほど、夜中の授乳で疲れて精神的に不安定だった時期はありましたが、大して深刻ではありませんでした。ところが次女出産後、何と一年 もこの病気を患ったのです。 出産前後に手伝いに来てくれていた両親が帰り、夫が仕事と音楽活動で忙しかった頃、私は3歳でまだまだ手のかかる長女と、赤ん坊の世話に疲れ果てていまし た。 フランス語も人並にマスターし、環境にはすっかり慣れ、知人友人も増えてスイスの生活を満喫している・・・自分ではそう思っていましたが、鬱状態になると 全てがネガティヴに思えてきました。 「友人といっても実はうわべだけではないか、スイス人は外国人を嫌っている、働く女性は家事と育児に専念する女性を無能だと蔑んでいる・・・」私は「劣等 感の塊」でした。そして最悪なことに、 弱き存在の長女に辛く当たることで欲求不満を解消しようとしたのです。私の生涯で最も恥ずかしい時期であると告白せねばなりません。 「高学歴、かつてキャリアを目指していた女性が家庭に入って幼児虐待に走る」という内容の日本の新聞記事を読んで自分の成れの果てではないかとぞっとした こともありました。


▲幸せな家族の風景
優しい夫と娘二人に囲まれ、幸せな家族を築いたつもりだったが・・・。

そんなある日の夜、私の人生を変えた一つの出来事がありました。私はいつものようにアイロンかけをしながら日本のビデオを見ていました。ビデオ鑑賞は当 時、唯一といってもいい私の娯楽でした。 音楽番組に、見知らぬ日本のロックバンドが出演していました。彼らの演奏が始まった時、衝撃が走りました。懐かしい、でも、新しい音。「私が求めていた音 はこれだ!」と。 画面に飛びつき、ビデオを巻き戻して何度も見ました。

13歳の時に洋楽・ロックに目覚めたことをきっかけに、西洋文化にばかり目を向けていた私。英語とイギリスが大好きで、それが高じて英文 科に進みました。 バブル絶頂期の大手銀行に勤めていても何かしら心は満たされず、辞めてイギリス留学。夫との出会い、ロマンス、結婚・・・。私の人生は決して行き当たり ばったりでも運命が狂っていたわけでもなく、 「ロック」を聴いた瞬間から現在までずっと繋がっていたのです。彼らの音を聴いた瞬間、ぐるっと回って原点に戻ってきたような気がしました。

丁度、インターネットを始めた頃でした。バンドの情報収集に努め、親や友人に頼んでCDや音楽雑誌を送ってもらいました。ロックバンドの熱狂的なファン になる・・・ここまでは誰にでも良くあることです。 しかし、彼らの音楽や生きざまには、それだけで終わらせないエネルギーが含まれていました。私は彼らの音や存在を通して自分自身に問いかけるようになりま した。「自分は一体何をしているのだろう?  ただ愚痴を言いながらぼんやり暮らしていていいのか? 折角与えられた人生を無駄に過ごしていないだろうか?」


▲二人の愛娘と
自分らしさを取り戻し、 生き甲斐を見つけたとき、母としても自信を持った。

バンドの中でもベーシストの人間性に魅力を感じた私は、彼の言葉の一つ一つが心身に染み込むようになり、自分という人間を深く追究するようになりまし た。 「誰でも皆、何か一つ光るものを持っている。自身と対話して自分を見つめ直してごらん。きっと答えが見出せる。ありのままの自分を好きになってごらん」

私は32年の人生をこと細かく振り返りながら、「自分に何ができるか?」と考えてみました。ありのままの自分を見つめ直し、出た答え、そ れは・・・。 「生涯を執筆活動に捧げる」

彼らが楽曲の中で歌ったように、「燃え上がる太陽は私のもとにも昇った」のです。

母性の日々、そして二度目の妊娠・出産

12月6日は聖ニコラの日。スイスの子供達には、聖ニコラが良い子にプレゼントを持ってきてくれるこの日の方がクリスマスよりも重要かも知れません。 ジェシカは7日に決まっていた帝王切開日ではなく、自分で6日を選んで生まれてきました。娘の誕生は、子供から親へと脱皮した私への、神様からのプレゼン トなのかも知れないと思えてなりません。

初めての子を授かった私は、絵に描いたような「親バカ」になりました。ジェシカの辞書に「むずかる」という文字は無く、朝も昼も夜もベッドに入れれば スースーとよく寝てくれました。 「早く起きてくれないかな~」または、「まさか窒息死なんてしていないよね?」と、何度も子供部屋をそっと覗いてみました。彼女が寝ている間は、家族や友 人にせっせと手紙を書き、赤ん坊のいる生活がいかに楽しいかを綴りました。 「世界で一番可愛い!」と有頂天の私が叫ぶと、夫は冷静に「そりゃジェシカは可愛いけど、世界で一番ってことはないと思うよ」・・・ですって。でも、親に とって子は世界に二つと無い宝なのです。せめて家の中ではそう言わせて下さい。


▲ジェシカ生後6ヶ月
この笑顔にメロメロだった私。
ハイハイと伝い歩きを同時に始めた頃。

子供と散歩したり、公園に行くことで、町のお母さん達とも交流が始まりました。外国人が土地に溶け込む助けとなる要素に、安定した仕事を持つことやクラ ブ・ボランティアなど地域レベルでの活動に参加することが挙げられます。 私の場合、根本的な支えは家族です。出産以来、新たな交流が生まれるに連れ、子供を介してしっかりとスイスに根を下ろしつつある自分を実感しました。

ジェシカが二歳の誕生日を迎えて間もなく、二度目の妊娠。ところが、今度の発覚は「出血」から始まりました。「流産の可能性があるからすぐに入院して下 さい」病院でそう言い渡された後、泣きながら運転して帰宅しました。 (今思えば事故を起こさなくて良かった)そう言えば、疲れやすく、自我が芽生え始めたジェシカの行動にイライラしがちな毎日でした。次の日、ジェシカを夫 の実家に預け、入院しました。第一子を授かってウキウキしていた前回と違い、 小さな命を奪われるかどうかという瀬戸際の入院は重苦しいものでした。私は「絶対安静」を強いられ、ベッドから一歩も降りてはいけないと言われました。


▲無事に次女リサを出産
二人の娘の出産時間は 共に午前6時半過ぎでびっくり。
写真は退院日の朝です。

入院中、同室の女性達が私の心を和ませてくれました。向かいのベッドには三十代の女性ミッシェル。妊娠と同時に子宮筋腫が見つかり、しかも筋腫は胎児の 成長と共にどんどん大きくなっているということ。 切除手術の際に胎児が助かるかどうか不安一杯のはずなのに、彼女はいつも陽気で、私を励ましてくれました。斜め前のベッドのおばあさんは腕を骨折。声高に 痛みを訴えることは皆無で、謙虚で穏やかな方でした。
数日後、超音波検査の為、別室に呼ばれました。そんなちょっとした移動も「車椅子」です。黒い画面に子宮の内部が映り・・・あるものが認められました。 「胎児は成長しています。大丈夫、ちゃんと生きていますよ」 それからはもう涙で何も見えませんでした。

おばあさんは退院し、ミッシェルの子宮筋腫除去手術は大成功に終わり、私達はそれぞれの生活に戻っていきました。おばあさんにはその後お会いしていませ んが、ミッシェルは現在、四女の母です。 たまにスーパーで会いますが、子供四人を引き連れたその姿は「たくましい!」の一言です。

退院後、私はすぐに元通りの体になったわけではなく、二週間ほど安静にしていなければなりませんでした。その間、老人・病人の自宅介護を専門とする女性 が家事を担当してくれました。費用は保険会社が負担。さすがプロの彼女は掃除、洗濯、アイロン等を限られた時間内に効率良く片付けました。彼女のアイロン 中によくお話しましたが、感じの良い方でした。また、自腹を切りましたが、食事配達専門業者にお願いし、病院で出す食事を毎日正午に持ってきてもらいまし た。ポラントリュイ市の病院には優秀な料理人がいると思われ、毎日メニューが変わり、味もちょっとしたレストラン並だと付け加えましょう。
こうして、周囲の人々に助けられながら、97年11月27日に次女リサを普通分娩で出産しました。

母親への道

妊娠中、ひどい悪阻に悩まされていたことは第七章でも書きましたが、私は絵に描いたような妊婦でした。 朝起きて最初の行事は洗面所に駆け込むこと。まず、妊娠発覚の際の面白いエピソードをお話しましょう。

私と夫は、当時大ヒットしていた「シンドラーのリスト」という映画を見に、車で40分ほど走ってフランスの映画館にまで行きました。 ナチス恐怖政治時代、数多くのユダヤ人を自分の工場に雇ったシンドラーという名の男の物語です。彼のお蔭で強制収用所行きを免れたユダヤ人が生き延び、 あの時代にも彼のような勇気と英知ある男が存在していたのだと、一筋の光を見出した気分でした。その帰り、私と夫は車をマンション前に停めるや否や、同時 に茂みに駆け込みました。 「残酷な場面が沢山出てきた映画だったからねえ。それとも風邪かな?」と笑い合いましたが、私の嘔吐は悪阻のせいだったと間もなく分かりました。 それでは夫は何故? 未だに謎のままです。「夫婦の絆」と良い方に解釈しましょうか!?


▲マッターホルンを背に
さすがに上らず、母とツェルマット
にとどまりました。
妊娠中でも大好きな旅行はやめられません。

妊娠すると食べ物の好みが変わったりしますが、私の場合は異常な行動に走りました。 棒状でカニかまぼこ風味のお惣菜「スリミ」(スイスのスーパーに売っている)にマヨネーズをべったりつけて何本も食べると悪阻が治まったのです。 また、そうめんなら幾らでも腹に入り、何把もがつがつと平らげました。今思えば、出産雑誌の定番特集「妊婦・胎児に最も適切な料理」など全く無視した凄ま じい食生活でした。。

悪阻も治まった妊娠中期から後期にかけては、赤ちゃん用品を揃えたり、出産・育児雑誌を読むことが、何よりの楽しみでした。また、アメリカで婚姻した日 本女性が四人の「天才少女」を育てた本を読み、 いたく感銘を受け、私も彼女が推奨する「胎教」をやってやろうじゃないかと決意しました。
まず、文房具屋で画用紙を買ってきて正方形のカードを作り、平仮名・カタカナ・アルファベット・数字を鮮やかな色で濃く描きました。 そして毎日のようにカードの文字を指でなぞり、発音しました。その本によれば、お腹の中の赤ちゃんはもうちゃんと耳も聞こえているし、母親が集中すれば、 同じように学習しようとするのだそうです。 外出時にも、一応は人目をはばかりながら、目に見える景色がどのように美しいか、胎児に向かって説明し、優しく語りかけました。絵本も、声を出して読み聞 かせました。また、ソファにゆったり座って目を瞑り、クラシック音楽に耳を傾けました。 (現在はロックをガンガン聴いている私ですが)この胎教に効果があったかどうかは分かりませんが、一つだけ確かなことは、長女ジェシカは非常に育てやす く、赤ん坊の頃からむやみに泣いたりしない、感情の安定した子でした。 (次女リサの妊娠中は、折角作ったカードに触れもせず、全く胎教を施しませんでしたが・・・ジェシカよりやんちゃでハラハラさせられることが多いのはその せいでしょうか?)


▲生後3日目のジェシカ
帝王切開の手術中、心配だったパパ。
母子の無事を確認した後、
ボロボロ泣いたそうです。
(見たかったな~)

妊娠後期、「逆子」が直らないと言われ、帝王切開を勧められました。夫婦で通っていた出産教室で学んだ「逆子反転運動」なるものを試みましたが苦しくなる だけ。そんなわけで手術日は94年12月7日に決まりました。 ところが、6日の早朝のことです。破水で目が覚め、夫の運転する車で病院に直行。いきなり物凄い陣痛が始まりましたが、やはり予定通り帝王切開になりまし た。全身麻酔で出産しましたが、この時の不思議な感覚は今も忘れません。 麻酔がかかっていても、重苦しい、内臓が引き出されているような痛みが途切れ途切れに続いていました。ふいに、「女の子だ!」という声。その後、記憶はテ レビでも消したように「ブチッ」と途切れました。

「ふぎゃふぎゃ」という頼りない声に目が覚めました。既に私は病室の中。傍にいた夫がジェシカを手渡してくれた瞬間、涙がどっと溢れ出ました。

Pages: Prev 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 Next