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運転免許取得物語

大阪のほぼ中心、分かりやすく言えば北野高校から徒歩三分という便利な団地で育った私には、ジュラ州での暮らしはかなり不便に思えました。 電車もバスも一時間に一本。しかも電車は各村々を網羅している訳ではありません。必然的に、住民は運転免許の取得に気持ちが向かうわけです。

これから、93年から94年にかけて免許獲得に奮闘したお話をします。日本で車のハンドルに触ったことも無かった私は、夫に横に乗ってもらって練習開始で す。 3年以上運転免許のある23歳以上の人に同乗してもらい、かつ車の後ろに青地に大きな黄色の「L」の字を貼れば路上で練習出来ると夫が言うので、 当時彼が勤めていた会社の広大な駐車場で、休日にレッスンを始めました。10年物の日本車で、よくエンストして困りました。 (スイスの人はオートマティックよりマニュアル車を好みます)それから段々と車道に出て行きました。


▲最初のオンボロ日本車
練習用にこき使われた為か?二年でお陀仏。
結婚式後の伝統的パレードに使う為、お色直し中。(93年7月撮影)

おっかなびっくりの路上訓練と並行し、公式にこなさなければならない試験があります。 まず、「運転感覚コース」呼ばれ、内容的には人命救助の講座を数回受けます。 事故を目撃した場合、どのような適切な行動を取れば良いのか、等。 人工呼吸の仕方も怪しげな人形で学びました。簡単な試験を受けて誰もがパス。 次は教習所に行って筆記の勉強です。(2004年現在では、筆記試験に合格しなければ路上運転は出来ないことになったそうです) 私の通った学校は古い建物の一室。開いている時間に行って好きなだけ黙々と勉強し、分からないところは先生に聞きに行きます。 受験は仏・独・英・伊・スペイン語・ユーゴスラビア語(セルビア語?)等の外国語でも出来ます。行く度に20フラン(当時2000円ぐらい)払います。 試験はまた別の場所で、私は日本人らしく真面目に勉強し、ほぼ全問正解で合格。しかし、それからが苦難の道でした。

94年4月に妊娠が発覚。それからはひどい悪阻と闘いながらの実技レッスンでした。当時ポラントリュイ地方に4人いた指導員のうち、 夫の同僚がお勧めの、ジュラ州唯一の女性指導員を選びました。厳しいながらもさっぱりとしていて、かっこいい人でした。教習料は毎回終了後に払います。 指導員によって違いますが私の場合は50分授業で75フランほど(7000~8000円ぐらい)でした。十数回の教習後、6月に最初の受験。 (既に自信のある人はほんの数回の教習後、受験に望むそうですが)この時は、縦列駐車が出来なかったことと、発進しようとしたら別の車が死角から現われ、 試験官に先にブレーキを踏まれたことで不合格。受験料金は運転免許申請料金に入っていたのですが、ここからは再受験の度に追加料金を払わなければなりませ ん。 約一ヵ月後にやっと合格しました。(実は大通りの真ん中で一回エンストしたのですが、「重大じゃないから大丈夫」と言われて見逃して貰えました。 終始渋い顔をしていた一回目の試験官よりも優しめのおじさん・・・だったかな。試験中、日本について質問してきたので運転を誤らないかと少々焦りました が。)


▲買い替えた日本車
スポーツ仕様なので夫が喜ぶこと喜ぶこと。
マルキ明子@第一子妊娠中だが果敢に運転していた頃

今となっては指導員さんに注意されて落ち込んだことも、 教習時間が終わって車から出た途端に我慢出来なくて道端に吐いてしまったことも、 実技試験の失敗も、懐かしい思い出になりました。
ただ、残念なことに、最近車を買い替えてから全くのペーパードライバー状態になり、 夫や夫の家族に渋い顔をされています。 新車をぶつけるのが恐いと他人の前では冗談めかして言っていますが、 実は余りにも長く運転しなかった為、考え過ぎて恐くなってしまったのです。 ジュラ州は飛ばすドライバーが多く、事故も多発しています。

元々それほど運転が好きでなかった私の気持ちを決定付けた事件がありました。 去年、すぐ傍の道路で知っている男の子が車にはねられて亡くなったのです。 その時の急ブレーキやぶつかる音を聞き、今でも耳に残っています。運転手に特に過失が有るわけではなく、 男の子は対向車同士の死角で、走ってくる車が見えないまま、自転車に乗って道路を渡ろうとしたのです。 あと数秒ずれていたら、彼は間一髪無事だったのに・・・。享年9歳。 公園でよく見掛け、一際眼を引く活発な美少年でした。家に写真を飾っています。 この場を借り、その子のご冥福をお祈り申し上げます。

一年がかりの結婚式 その3

披露宴会場は実家近くの村のレストランでした。当時の控えを取り出してみると、以下のメニューが書かれていました。  ハーブ入りコンソメスープ、アントレ : ねぎ入り生鮭のパイ、メインコース : 豚ヒレ肉のモリーユ(キノコの一種)ソース掛け、クロケット(和風に訳すとコロッケですが、じゃがいもをすり潰して小さく固めたものを衣をつけて揚げた 物)、季節の野菜。デザート : 自家製ヴァシュラン(メレンゲのアイスケーキ)  このメニュー選択で小さな失敗がありました。生鮭のパイが思った以上に大きくて中身もぎっしり。お蔭で折角のメインコースのヒレ肉の時には満腹感と戦い ながら食するという羽目に。(お代わりが出来るのですが、ほとんどの人がしていなかった・・・)


▲スイス名物ラクレット・ロゼワインで乾杯
溶かしたチーズをゆでたじゃがいもに付けて食べる。我が家では干し肉とピクルス、小玉ねぎの酢漬けを添えて。

披露宴中、現在ではPOWER POINTというCD-ROMを駆使した映画上映が盛んですが、当時の私達は昔ながらの「スライド」。機械をレンタルし、二人の赤ん坊の頃からの写真を司 会者(夫の伯父)の解説付きで公開しました。(ネガが無ければスライドは作れないとスイスの店では言われ、わざわざ日本まで写真を送って作りました・・・ 裏話です)

スイスの結婚式でお決まりの催しとしてダンスは欠かせません。一人でキーボードを弾いて歌うボーカリスト、ドラムスやギターが入ったポップスバンド、昔な がらのアコーディオンなど、様々なタイプの出張ミュージシャンがいますが、好みに応じて選び、直接本人に連絡を取って条件を話し合います。これまで数々の イベントに参加して思ったのですが、どんなタイプのミュージシャンであっても幅広いレパートリーを持ち、必ず昔ながらの民謡を演奏し、歌い、あらゆる世代 を見事に楽しませてくれます。客の方も、ダンスを通じて一体となると言っても良いでしょう。

日本のホテルでは普通、数時間で披露宴は切り上げられ、次の新郎新婦が同じ会場を使用するという慌しさもありますが、スイスの披露宴は夜8時ぐらいから開 始し、料理が全部終わっても飲み続け、歌い、バンド演奏に合わせて踊ります。社交ダンスから始まり、盛り上がってくると、「ア・ラ・ク・ル・ル」(一列に なって)と歌いながら、肩に手を置いて参加者全員が繋がってレストランの内外を駆け回るという騒ぎが一晩中続きます。伯母は途中でダウンしてレストランの 階上にあるホテルの一室で仮眠を取らせてもらっていましたが、他の人達は全員元気で、老いも若きも踊り狂い、帰宅は明け方5時頃でした。  主に日本とスイスの違いをクローズアップしながら紹介いたしましたが、スイスの伝統的な結婚式が垣間見えたでしょうか?


▲新婚旅行・ベネチアにて
父母と伯母も一緒に楽しんでくれました

▲ルツェルンの観光名所、カペル橋前にて
1333年に建築された木造の橋は1994年に大半が焼失。現在は修復済ですが、その火災前の貴重な写真となってしまいました。 左から父・伯母・母・私。

この夏の結婚式で嬉しかったことは、何と言っても、父母が揃ってスイスの地を踏み、楽しんでくれたこと、夫の家族と対面し、言葉が通じないながらも真摯に 交流してくれたこと、式後、スイス国内やイタリア(ベネチア)を一緒に旅したことでした。また、日本でも滅多に会えない伯母と寝食を共にしたこの三週間の 滞在をきっかけに、以前よりもずっと親しくお付き合いさせていただくことになりました。

結婚の行事はこれで終わったわけではなく、年明けの1994年1月2日、親しい身内と友人だけで、大阪市内のレストランで披露宴を行いました。この時も失 敗話があり、基本コースとして申し込んだ二時間の宴は余りにも短か過ぎ、バイキング形式の料理がまだ大量に残っているのにお開きにしなければならず、特に はるばる遠方から駆けつけてくれた方には本当に申し訳なかったです。「超過料金を払って三時間にすれば良かったね」と後で家族で反省会。それでも今となっ てはどの宴も美しい思い出です。
こうして、夢のような「結婚式の年」は無事、終了しました。

一年がかりの結婚式 その2

教会での式が終わると、アペリティヴ(本来の意味は食前酒)と呼ぶ、酒と軽食を出すパーティに参列者全員を招待します。参加者が移動しやすいように教会の すぐ近くにある小学校の屋根裏部屋(と言ってもかなり広い)を確保した上で、パン屋さんに、人数とこちらの予算に合わせた軽食を作ってもらうように予約し ました。スイスのパン屋さんは結婚式や誕生日などの行事用に軽食を作って出前をしてくれるところが多いです。ケーキやお菓子類は勿論、カナッペ(パンの上 にピクルスやゆで卵のスライス、スモークサーモンなど冷たいお惣菜を載せたもの)も色とりどりで見た目にも美しい、芸術作品のような食べ物が一杯。一番目 立つものは、「驚きパン」。巨大なパンの中身が綺麗に繰り抜かれ、数種類のサンドイッチがぎっしり詰まっています。


▲アペリティヴにて
様々な種類のカナッペはあっという間に無くなりました。

私達は直接印刷屋さんに行って、カードや封筒、文章のレイアウトを選び、結婚式招待状を作りました。招待状発送時に特に気を使うことと言えば、アペリティ ヴのみに招待する客と、アペリティヴ後、レストランでの披露宴にも招待する客とを区別すること。例えば、招待状には「式後、アペリティヴがあります」とあ らかじめ印刷しておき、披露宴招待客だけに「貴方を○○レストランでの披露宴にご招待します」という小さなカードを差し入れたりする方法があります。

結婚祝いについては、日本の慣習通りに考えてはいけないといささか驚きました。スイスでは参列の意思を伝えてきた人々に、「お祝いは何が欲しい」とはっき り伝えても良いからです。私達はあるデパートに行って欲しい物をどんどん選び、専用の棚に保管しておいてもらいました。店の名前を参列者に教えておき、店 員に新郎新婦の名を言えば倉庫に案内して商品を見せてもらえるという段取りにします。贈りたい物を選んで支払いが済めば、後日、私達が品物を取りに行くだ けです。「お店に行き損ねたので」と、披露宴の最中に現金の入った封筒を渡しに来てくれた人もいました。夫のいとこが結婚する時、オーストラリアへの新婚 旅行の資金作りに協力してくれと、「貴方が私達に贈りたいだけのお金をこの銀行口座に振り込んで下さい」という案内を送ってきました。何とも合理的かつ、 率直で裏表の無い伸びやかさを感じませんか?


▲式を控えてのツーショット
州都にあるドレモン城・庭園内にて

日本のホテルでの挙式のようにパックになっている訳ではないので、衣装も花も全て個別注文。私は、挙式にも参列してくれた伯母(母の姉)の手作りで、既に いとこが二人袖を通しているウェディングドレスを日本から持ってきてもらうことになりました。元々は伯母が自分の娘の挙式用に縫ったものですが、レンタル ショップで借りるよりも暖かく心の籠もったドレスだと、細かいレースのフレアなどをつくづく眺めたものです。

披露宴参加者は結局40名ほど。日本側からは父母と伯母、ヨーロッパ旅行中の友人母娘の5名のみ。かなり少人数ですが、心から私達の結婚を祝ってくれる、 ごく親しい人だけに参加していただければ良いと考えました。何と夫は会社の人間を一人も招待しませんでした。夫曰く、「仕事とプライベートは分けていた い」のだそうです。私が住んでいた頃の日本では考えられませんでしたが、現在はどうなのでしょうか?

一年がかりの結婚式 その1

日本においても外国人との結婚が珍しくない今日この頃、「国際結婚」という言葉はいささか陳腐な気もします。四方を外国との国境に囲まれたスイスには、あ りとあらゆる国籍の外国人が出入り、在住し、当然、「国際結婚」は特別な行為ではありません。しかし、その手続きとなると、ずばり、面倒くさいものです。 スイスは市町村によって手続き方法が異なったり、審査の厳しさにも差があり、事前に確認が必要です。


▲和やかな入籍の手続き
いつも冗談を飛ばす義理の弟が保証人としてサイン中

当時、私達の周りには日本―スイスという国際結婚の夫婦が皆無で、結婚を決意したものの、何をどうして良いかすぐには分からず、全くの手探り状態でした。 とにかく州の戸籍係のエライサンの所に行けば分かるだろうと面会予約をして直接会い、必要な書類について教えを請い、前後して州都ベルンの日本大使館にも 連絡を取りました。また、彼の戸籍がある村の共同体事務局に行き、私のパスポートに「メルベリエ村に92年9月1日,“観光客として到着”」とスタンプを 押してもらいました。これが「婚約者ビザ」としての効力を発揮し、六ヶ月間婚姻無しで在住できることになりました。(学生や就労ビザ無しでの日本人のスイ ス滞在は三ヶ月と限定)

1993年2月11日、私達は村役場に「結婚保証人」と共に赴きました。この保証人は、普通、身内や親しい友人の中から男女各一名を選びます。私達の場 合、夫の妹とその恋人にお願いしました。(彼らは当時同棲状態でしたが、時期が来れば結婚するだろうという確信があったので)入籍に立ち会う方は戸籍係の 責任者ですが、小さな村ゆえに家族全員と知り合いで、和気あいあいと進行しました。妻と夫の身分(出身や独身であるかどうか)を確かめた上で、結婚につい ての規則を読み上げ、巨大な台帳にサインして入籍完了。全員の祝福を受けます。その後は家族だけでレストランで食事。奮発して「シャトーブリアン」という 分厚い牛ヒレ肉のステーキを食しました。

私達夫婦の結婚生活の第一歩が踏み出されたわけですが、これはほんの序章。同年7月31日、教会での式とレストランでの披露宴が本当の意味での結婚となり ました。


▲結婚式
19世紀半ばに建立された教会にて

スイスの結婚式は「手作り」です。伝統的な式を希望する場合、結婚する本人達が何ヶ月も前から計画を練ります。 まず、教会の予約。そして挙式を担当してくれる神父さんとの打ち合わせに入ります。 夫の一家は全員洗礼を受けたカトリック教徒ですが、それほど凝り固まっているわけではなく、カトリックでない私や父母を配慮して「聖体拝領の儀式」(分か り易く言うと神父さんが小さな丸いおせんべいみたいなものを信者の口に入れる、あの儀式です)を省いた式にしたいと申し出ました。神父さんの表情からは若 干、不本意さが読み取れましたが、異教徒同士の結婚もごく自然な現象になった今、時代の流れには逆らえないと思われたのか、すぐに柔軟な姿勢を示してくれ て、結局、私達の希望通りの簡素な式となりました。(ちなみに夫の父母の時代までは、同じキリスト教徒のカトリックとプロテスタントの結婚さえ、親族・外 野入り乱れてかなり物議をかもしたらしく、どちらかが改宗させられることもあったそうです)

スイスの暖かい家族

イギリス留学から10年以上経てみて、あの頃、学校で付き合っていたカップルはどうなったのだろうと考える時があります。風の便りでは各々の国に帰り、別 々の道を歩んでいるとか。今や国際結婚は珍しくないとはいえ、文化や生活習慣の違いを乗り越え、互いの愛情を揺るぎないものに確立するまでは数々のハード ルを越えなくてはならず、憧れだけでは到底全う出来ません。私の親友だったサウジアラビアの女の子は日本人の男の子と恋に落ち、「日本で一緒に暮らす」と まで考えていたようですが、日本の家族の反対にあって二人の気持ちが崩れ、結局別れました。ちなみに彼女はその後、イギリス人男性と結婚し、ロンドンで一 男の母となって幸せに暮らしています。


▲Marquis家の食事風景
左から、Roger、父、母、妹、妹の恋人(現在の夫)

さて、スイスに到着した私は、まず恋人の家族の家に招待され、クリスマス・イヴから10日ほど、一緒に休暇を過ごさせていただきました。ここでまず第一の 難関がやってきます。嗚呼、フランス語!

英語にはちょっとばかり自信があった私も、フランス語は「こんにちは」と「ありがとう」等の挨拶用語、そして自分の名前を言うのがやっとの状態でした。フ ランス語を勉強した方はお分かりだと思いますが、「R」の発音は日本人が全く使わない喉の一部を鳴らさなくてはなりません。それも含め、きちんと発音しな いで単にカタカナ風フランス語でコテコテに単語を並べてもきょとんとされてしまうだけです(または分からないふりをされるという悲しい目にも遭う……世間 の風は冷たいのです)。

恋人の名前は「Roger」。苦手なRがしょっぱな。イギリスでは英語風に「ロジャー」と呼んでいましたが、彼の家族が別の発音で呼んでいることに軽い ショックを受けました。


美男子の老犬ノッピとRogerの実家のテラスで▲
(1994年他界・享年11歳)

家族は英語をほとんど解しません。彼が通訳してくれているうちは良くても、トイレにでも立ってしまうと、途端に居心地が悪くなりました。また、彼自身が会 話に熱中し過ぎて通訳を忘れてしまう……その間、ただニコニコ愛想笑いをしているという辛さ。しかし、そんな異邦人の私を、家族は「Rogerの恋人」と いうだけで暖かく迎えてくれました。言葉が分からなくても一生懸命話しかけてくれる、スイスの暮らしは不自由ではないかと気を使ってくれ

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