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ポラントリュイだより: スイスグルメ話~パーティ編~

スイスは地域や言語によってメンタリティが異なるが、私が住んでいるジュラに限って言えば、人々はパーティをこよなく愛している。何か機会があれば家 族、親戚、友人などが寄り、長時間にわたって飲み食いする。さあ、夕方になったからそろそろ・・・と思っていても誰かが必ず「じゃあ場所を変えて、うち で!」と提案し、ぞろぞろ移動。(意志の強い人はここで退散)誰かの家の居間に入れば、酒とつまみ(パン・ハム類・チーズ・ナッツ類など)が登場する。暗 くなり、「じゃあそろそろ帰りますよ」と、玄関口、または外でお見送り。そこで「そうだ、あれ、どうなったっけ」と新たな話題が出たらさあ大変。よほど寒 くない限り、立ち話に花が咲きまくり、決して数分では終わらない。


①我が家のクレープパーティ。
「火傷をしないように、自己責任でね」(笑) それぞれが自分のクレープ作りに勤しむ。

スイスに来たばかりの頃はフランス語が不自由だったため、長話が退屈でしょうがなかった。年月を経て多少はフランス語会話が何とか形になってきても、大 都会の典型的核家族の中、しかも一人っ子として育った私、この大人数での「パーティ社交」が苦手だった。しかし、住めば都というのか、郷に入れば郷に従え というのか、こちらの暮らしが長くなるに連れ、「パーティ命」とまではいかなくても、「パーティが当たり前」、同じ参加するなら楽しまなけりゃ損々!と性 格改善?に至った。
この回では、行事としてのパーティとその食事についてお伝えする。


②マルキ明子特製のお土産
チョコレート・みかん・ピーナッツは、クリスマスシーズンのお菓子「三点セット」である。

③豚ちゃんのパイ皮の中身はハム。
ブタの足一本分入っている。お祝いの席での定番料理の一つ。

スイスでは、子供が大きくなっても、時には大人になっても「誕生パーティ」をやっている。我が家の場合は、子供が友達を家に呼んでの誕生会は小学6年生 までと言い渡してある。しかし、家族内ではおそらく娘が独り立ちするまでやっていると思う。
友達を呼ぶ誕生会では、クレープが我が家のお決まりメニュー。そしてゲーム(太っ腹にも景品ありですぞ)をし、帰り際、菓子袋を渡す。娘達2人ともクリ スマスシーズンに近いので、菓子もクリスマス仕様である。
成人すれば、20,30,40,50,60歳・・・と、節目節目のパーティがある。これは誰が催すのかというと、親ではなく自分である。やる気満々な人 は25,35・・・と5飛びでもやる。同い年の私と夫は、30歳と40歳の誕生会に家族と親しい友人を大勢招いて楽しんだ。


④夫と私の40回目の誕生日
ケータリング業者にハムを渡してパイ皮で包んで焼いてもらい、じゃがいものグラタンと数種類の野菜も注文。給仕の女性2 人も派遣!

⑤こちらは同じく40歳の誕生日
デザート三種類。真ん中は「黒い森ケーキ」である。

日本同様、結婚式の内容は人それぞれになってきている。子供ができても同棲を続け、籍を入れない人、入籍を済ませ身内だけで食事会という人もいれば、伝 統にのっとって、入籍→教会で挙式→アペリティヴ→場所を移動してレストランなどで食事会、そして朝まで歌い踊り騒ぐ、という私と夫の結婚式のようなパ ターンを踏襲する人もいる。その「伝統的」結婚式については第4~6話「一年がかりの結婚式」をご参照に!


⑥友人の結婚式(入籍+身内でのパーティ)に招かれた時のアペリティヴ。
一口サイズで色々な種類があったが、春巻きが絶品!
夕食会に招かれていなかったらもっと食べたかった(笑)

⑦結婚式での夕食会にて、メーンディッシュ。
牛フィレ肉に、フランス語圏では最高格のモリーユ茸ソースがかかっている。


⑧こちらは、別の友人の結婚式
5段ケーキはアイスクリーム! 他にもフルーツサラダやティラミスなど、既にお腹が一杯でも無理して食べたくなるデザー トばかり。

その他、パーティと言えばキリスト教国では当然、クリスマス。カップルでいちゃつくことがメインイベントの日本と違い、本場のクリスマスは家族で過ご す。(だから、スイスで家族のいない人はこの季節、かわいそうである。店もすべて閉まり、家族同士で寄り合っているので友人すら招いてくれない。レストラ ンは開いているところもあるが、独りで食事も・・・。ポラントリュイではそんな人を含め、誰でも来れる「皆のクリスマス」というパーティが12月24日の 夜にCOOPレストランで催され、身寄りのない人、外国から単独で来た家族などが出会う場となっている)
ジュラのクリスマス・イヴ料理は七面鳥とは決まっておらず、ごく普通の家庭料理に舌鼓を打つ。「今年も早かったねえ~子供達、大きくなったわね~」とし みじみ語り合いながら過ごし、早めにお開き。クリスマスの特別礼拝に行く人がいるためだ。 毎年クリスマス当日は、夫の母方の親戚がシャレーに集まり、賑やかにパーティ。1年にこの日しか会わない人もいるので、貴重なひと時である。

⑨毎年恒例のクリスマスパーティ。
12月25日は主人の母方が一堂に集う。ハム&グラタンという定番メニューに、各自が持ち寄ったサラダとデザート。
そ れぞれの家庭の味が楽しめる。
⑩クリスマスイヴは義妹宅でのパーティが恒例。
義妹の義母がいつもケーキを差し入れてくれる。
手作りケーキの素晴らしい出来ばえに、ただ驚くばかり!


⑪お祝いの巨大なぶどう型パン。
2年前の復活祭前夜にカトリック洗礼を受けた著者。
その時に教会からいただいたもの。

スイスはキリスト教国と言えど、教会に頻繁に通っている人、洗礼を受けても教会に行かない人、途中で信仰を捨ててしまう人など様々である。 ジュラ州はカトリック教徒が大多数。子供が生まれれば洗礼→小4で初聖体拝領と初懺悔→中2で堅信、と段階を経て晴れて正式なカトリック教徒となる。初懺 悔以外は、パーティがつきものである。家族と子供の洗礼代母・代父だけを呼んで身内だけの食事会が一般的である。(写真⑬)

様々な理由はあっても、結局、人々は「家族や親しい友人と楽しく飲み食いし、しゃべる」ことを人生の喜びの一つと考えてからこそ集い、その幸福を子孫に 伝えようとする。日本人が忘れかけている人と人とのぬくもりある交流や、伝統や文化を大切にしていこうという心が、ジュラには生きている。


⑫ヴァシュランアイスクリームケーキ
姪で洗礼代子でもあるノエミの初聖体拝領のパーティにて。
v ⑬長女ジェシカの堅信式後のパーティ(2008年9月)
レストランの一室を借りてコース料理を振舞った。

ポラントリュイだより: スイスグルメ話~アジョワ名物編~


「アジョワ」(Ajoie)という地域名は全世界的には馴染みがないし、スイス人でも知らない人の方が多いかもしれない。しかし、その「知る人ぞ知る」 アジョワは、一年に一度、ある行事に参加する人々により、異常なまでに人口が膨れ上がるのである。

スイスのカレンダーを見ると、各日に聖人の名が記されている。11月11日は聖マルタン。聖マルタンは動物をいさめたり憑いた悪霊を払ったりしたことか ら動物の守護聖人としても聖別されているが、その日辺りの週末(11月の2週目の週末)、アジョワ地方は「聖マルタン祭り」に突入し、豚料理一色に染ま る。
この週末に備え、各農家は多くの豚を屠殺する。祭りの由来は聖人というよりも(豚自身は聖人の恩恵をちっとも受けていない!と嘆いているだろうか)、元 々はこの時期に農家は収穫を終え、長い冬に備えて食べ物の貯蓄準備に入ることから来ているそうだ。干し肉やソーセージなど長期間置ける加工食品を作る。大 切な命の源の豚君には犠牲になってもらうが、頭から足までしっかり食べてあげる。

この週末は、聖マルタンのための特別コースメニューを用意するレストランや特設会場がほとんどだが、聖マルタンの「メッカ」と呼ばれるシュヴネ (Chevenez)村に行く人は予約をした方が無難である。本式のメニューでは10数品目あるが、シュヴネ村の特設会場ではその半分。地元アクロバット チームによるダンス・ショーや、バンドによる民謡演奏(といっても日本と比べるとかなり賑やか)付きである。半・メニューと言っても、小食の日本人には多 いぐらいである。私達が食した皿をご紹介しよう。

まず、豚の頭を煮込んで出た汁を固めたゼリーに包まれたパテ(写真①)。しっかり固められていて、ご覧のように皿を回しても落ちない!


①フリスビーにしても大丈夫?
回転させても落ちない、パテのゼリー固め

②豚の血入りソーセージ
見て地獄、食べて天国かどうか?

③ソーセージの皮を切ると、中途半端に
固まった中身がどどっと飛び出してくる

二品目は、見た目グロテスク、味は・・・かなり癖があるが、「臓物大好き」な方は大丈夫だろう。豚の血のソーセージである(写真②③)。これだけでは辛 い、という人のためにリンゴのコンポートが添えられている。私は最初は一口しか食べられなかったが、リンゴのコンポート(リンゴを小さく切って砂糖をお好 みの量で入れ、長時間煮る)を大量につけて毎年少しずつ食べる量を増やしていき、去年、ついに一本丸ごと食べることができた!(私もやっと正真正銘のア ジョワ人になった……笑)赤い野菜はテーブルビートと呼ばれる根菜の一種である。
その後、口直しにシャーベット(アルコール入り)が出る。特設会場の舞台上ではミュージシャンが音楽を演奏し、食事の合間に客は歌って踊りまくる。こう して腹を少しばかり減らしてから次の皿に挑むのである。

お次はドイツ語圏でもお馴染みの、塩漬けキャベツの千切り煮込み、シュークルット(ドイツ語ではザウアークラウト)。一緒に煮込む定番食品は、ラードと 呼ばれる脂肪の多い肉、ロース肉、そしてアジョワ産ソーセージ(これがまた美味!)とじゃがいもである。
デザートは店によって異なる。クリームブリュレという、日本でもお馴染みの、カスタードクリームをガスバーナーで焦がした一品は万人向けであろう。これ だけの料理を食する間、大量のワインが消費されているのは、書くまでもない。酔っ払ってもいいように、特別バス(有料)が一晩中Chevenez村とポラ ントリュイの間を往復している。


④口直しのシャーベット
この年は「ケ・セラ・セラ」の歌詞が配られ全員で合唱

⑤こんな風に騒いでも踊っても椅子の上に立ち上がってもすべて
無礼講!踊らにゃ損、損!騒ぐだけ騒いだら今度は 食べまくる!
⑥シュークルットにたどりついた頃には、正直、
小さな私のお腹?はもう一杯。拷問の一品。

⑦お腹が一杯でも「これぐらいの量なら大丈夫
かな?」と、つい食べてしまうクリームブリュレ。

最後に、豚肉料理はあまり・・・という人のために、アジョワでは様々な魚も食べられていることをお知らせしよう。写真⑧は、第38話「陶器の村、ボン フォル」でも紹介した池の傍に立つ看板であるが、このように、鯉やパーチ、カワカマスという魚や写真⑨のようなマスのムニエルも名物である。レストランの メニューには、肉料理と並んでほとんどと言っていいほど、魚料理もお勧め品として出ている。スイス旅行中、肉に飽きた人は、是非アジョワでお試しあれ!


⑧本当にこんな色? と疑いたくなる、ボンフォル池に生息の魚達。この地方の名物は鯉のフライ。臭みもなく、からっと揚 がっていて美味。

⑨我らがWebmaster谷さんをお招きした時。
サンチュルザンヌの川沿いのレストランで谷さんが食されたマ スのムニエル。

ポラントリュイだより: スイスグルメ話~家庭料理編~

万国共通、人々の好奇心は普通、食文化に注がれるのではないだろうか。行ったこともない国の歴史や政治などちんぷんかんぷんという人でさえ、その国の人 が何を食べているのだろうということには結構関心があったりする。
今回は、私が日頃親しんでいる、スイスの食生活について述べたい。


①ヴァレー地方で食べたチーズフォンデュ
厚めのフォンデュ鍋の手前、角切りパンを、
しかと目に焼き付けていただきたい


②家族と野外チーズフォンデュ
ジュラの各村には必ずといっていいほど森の中にバーベキュー施設付きの
小屋があり、ハイカー達の憩いの場となっ ている。


③我が家のラクレット風景
ワールドアイ編集長をお招きした時の写真。手前の袋は茹でたじゃがいもの「保温袋」

スイスを代表する食べ物と言えば、チーズ、チーズと言えばチーズ・フォンデュと言われるぐらい、現在では定番となっている。日本でもチーズフォンデュが 食べられるレストランがぽつりぽつりと増えてきているが、残念なことに、「正式な」食べ方はなされていない。
正式とは何か、それは、専用のフォークに角切りにしたパンを突き刺し、フォンデュ鍋の中でぐつぐつ煮立っているチーズをからめて食べることに他ならな い!(←強調)日本で見られるように、茹でた野菜やミニソーセージなどをからめると、水分がフォンデュの中に徐々にしみ出し、しばらくすると水っぽい哀れ な味のチーズと化してしまう。乱暴な言い方だが、敢えて「邪道」と呼ばせてもらおう! 例外的に、パンに加えて心持ち堅めに茹でたじゃがいもを出している のは、チーズで有名なグリュエール村のレストラン。これは美味であったし、チーズも水っぽくならなかったと記憶している。そして、この料理には面白いルー ルがある。パンをチーズの中で失くしてしまうと、その人は、罰として次に飲むワインをおごらなくてはならないのだ。

もう一つの典型的チーズ料理と言えば、ラクレット。これはフォンデュほど知られていないが、我が家を訪れた日本人には100%大好評である。対して、前 出のチーズ・フォンデュには白ワインとキルシュ(さくらんぼ酒)が入っているので、アルコールの苦手な方はそうたくさんは食べられないだろう。また、スイ スアルプスがそびえるヴァレー(ドイツ語でヴァリス)地方の家庭で出されるチーズ・フォンデュには、キルシュがたっぷり入っているということを付け加えよ う。(東欧出身者がウォッカや96度!という蒸留酒をまるで水のようにがぶがぶ飲んでいるのを見たことがあるが、冬が長い地方の人々は厳寒に耐えるために 飲兵衛となってしまうのだろうか?)

さて、ラクレットは、専用に作られたチーズを溶かし、茹でたじゃがいもにつけて食べる。おかずとして、ピクルス、酢漬け茸、干し肉、ベーコンなどと一緒 に食べると、栄養のバランスが取れて良い。また、スイス人宅には「一家に一台」ラクレット器がある。大阪人のたこ焼き器のようなものか。写真③のように、 6~8人が一度に食べられる。また、もうちょっとフンパツして、写真④のような大型のラクレット器を持っているご家庭もある。電熱を浴びて溶けたチーズを ヘラでジャジャッと一気に落とす。(写真⑤)しかし、この器具の不具合な点は、誰か一人が給仕係になってしまうことである。その点、「一家に一台」版は、 全員が同時に食事ができて、罪悪感に陥らなくて済む。

④娘が参加したブラスバンド合宿の夕食
茹で上がったじゃがいもを皿に載せて、
列を作ってチーズが溶けるのを待っている子供達。

⑤奉仕の精神でひたすら溶けチーズを給仕し続けるバンドのお兄さん

何ゆえ、スイス人はチーズを大量に食べるのか? 魚介類を食べる習慣があまりない彼らは、本能に従い、カルシウムをチーズから摂取するようになったのだ ろうか。聞きかじりの知識だが、チーズは、乳製品の中でも、カルシウムが最良の形で含まれているということだ。

フォンデュには、まだ種類がある。写真⑦は一般にミート・フォンデュと呼ばれているが、フランス語では「フォンデュ・ブルギニヨン(ブルゴーニュ地方の フォンデュ)」。
サイコロ状に切った牛肉を、鍋の中の熱した油で軽く揚げて、数種類のソース(手作りする家庭が多い)をつけて食べる。ソースは、卵の黄身に少しずつ食用 油を注いで泡だて器(手動が美味さの基本!)で混ぜ、固くなると酢を少し入れて緩め、その作業を繰り返して段々と量を増やしていく。最後にこしょうなどの 調味料で味を調える。このソースをベースにして、タルタルソース(ニンニクとピクルス入り)やオーロラソース(ケチャップ入り)などを作り、料理人のアイ ディアとお手並みが披露される。付け合わせは、御飯(日本の白御飯と違って、玉ねぎで炒めた上に、塩・ガーリック粉などで味付けして鍋で煮込む)や、サラ ダ。準備に時間はかかるが、全員が揃って食べられるという利点がある。牛肉は生でもとろけるように柔らかい高価な部分を選ぶので、誕生日などのお祝いの日 や来客時に食べるだけで、気軽なチーズ・フォンデュと違い、年に一、二度ぐらいしか食べない。
この他、スイス版しゃぶしゃぶの「フォンデュ・シノワーズ」(中国式フォンデュ)や、あまりスイスでは見かけないが、マルキ家の隠し技「フォンデュ・ペ イザン」(農民式フォンデュ)がある。ペイザンは、角切りにした七面鳥の肉に衣をつけ、揚げて食べる。七面鳥肉は鶏肉より軽めなので、調子に乗ってしこた ま食べてしまうと、胃がもたれるという結果に終わる。

次回は、ジュラ(特にポラントリュイを中心としたアジョワ地方)の名物料理をご紹介する。


⑥さあ、ラクレットをいただきま~す!


⑦ぐらぐら煮立った油に注意!
小さな子供の手の届かないところに鍋を置きましょう。食べ始めたらなかなか止まらないフォンデュ・ブルギニヨン

ポラントリュイだより: 旧市街に活気を


やや固めの歴史探訪シリーズから脱け出し、さて、お次は何を書こうかと考えてみたが、頭をひねればひねるほど、良いアイディアは浮かばない。まあひと つ、ここは気楽に、町の内外で起こった「四方山話」でも書こうかというところに落ち着いた。今後しばらくは、「シリーズ無きシリーズ」にお付き合い願いま す。

▲Blarerが1590年に再建した城の「雄鶏塔」
左が司教杖、右がBlarer家家紋の雄鶏である

▲「雄鶏塔」の雄鶏部分を拡大
黄色い十字は勿論、絆創膏ではなく十字架を意味する

今年2008年を、ポラントリュイガイド協会は、「特別な年」とし、一年をかけて祝いがてら、様々なイベントを企画している。2008年がどうしてポラ ントリュイのガイドにとって意味を持つか、説明しよう。
またもや歴史の話になる。1527年よりポラントリュイ城を拠点に司教公国を治めていた、バーゼル大公司教。大公はフランス語で「Prince」と言う が、「そして王子様とお姫様は結婚し、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました」という「王子様」のプリンスではない。神聖ローマ皇帝より「公国」を治め るために賜った称号なのである。現在でも、モナコ公国の頂点に立つ御方はプリンスであるが、「王子様」ではなく、大公である。

1792年にフランス大革命軍によって国が滅ぼされるまで、司教公国の歴代為政者達のうち、「大公中の大公」または「再興者」という輝かしい異名を授け られた大公司教が、ただ一人だけいた。フランス語で言うと、Jacques-Christophe Blarer de Wartensee(ジャック・クリストフ・ブラレー・ド・ヴァルテンゼー)。ブラレー大公司教の偉業については、ポラントリュイ便り第42話 「バロック建築様式」《その2》をご参考に。彼の就任期間は1575年から1608年まで。この没年から400年に当たるのが今年。そんなわけで 「死後400年記念」として大衆レベルで大いに楽しんでしまおうという考えからスタートした。2007年からほぼ一年かけて準備。開催記念式典(3月15 日に済)、展覧会(今年3月15日から8月17日まで)、数回に亘るコンサート、ラジオ放送もされる記念ミサ、ブラレーを主役にした演劇など、ガイド20 人余りがグループを形成し、それぞれの企画遂行に励んでいる。

私の担当は他の2人のガイド共に「町をブラレー家の家紋でもある雄鶏で飾ろう!」という企画。ポラントリュイ市の保育所とすべての小学校にお願いし、生 徒と先生が作った雄鶏をモチーフにした作品(工作や絵)を旧市街のショーウィンドウに配置するという企画である。店々へお願い状を送付した上で、一軒一軒 回り、店主と直接話して親交を深めた上で、企画への理解と協力をお願いした。どの店がどこにあり、何を置いてあってどんな大きさと形のショーウィンドウで あるか、事細かに書き留めた。

学校の先生サイドにも通知と短い説明会を催した。人口7000人足らずの町であるが、学校数は多く、下は託児所から上は小学6年生まで、30余りのクラ スが協力してくれた。
先生と商売人ではあまりにもメンタリティが違う。悪気は無くてもダイレクトな商売人(土地柄もあるが)に対し、先生方は非常に誇り高く、馴染みの店以外 にはなかなか怖がって?入ってくれない。そんなわけで「先生の選択からこぼれた」店にはガイド自身が完成した雄鶏作品を持って行ったこともある。

半年ほどかけて学校と商店の間を駆けずり回り、コーディネートをしてみて、苦労も多かったがやはり楽しい思い出が一杯である。普段は入らない店にも入っ て店員さんとの会話を楽しんだ。自分の娘がお世話になっていない、知らない先生方とも膝を突き合わせて話すことができた。物事は何でもポジティヴに取る方 が良い。閉ざされた世界の中でぬるま湯に浸かるよりも、別世界に飛び込み、見地を深める方が良い。限られた人間と付き合うよりも、意見や考えを多少異とし たとしても、様々な職種・年齢の人間と交流することが、自分の成長への糧となる。自らの足で旧市街の端から端まで、そして学校という学校を歩き回って得た 教訓である。

ポラントリュイだより:ベル・エポックとアール・ヌーヴォー


▲Pfister館と呼ばれる豪邸
1899年、靴会社社長の邸宅として建築された。現在は、年金事務所が入っている。改築の完璧さから、事務所の潤い加減 が分かる!?

▲Pfister館の暖炉
煉瓦に見える部分は別の素材?

▲我が家の向かいにある豪邸
1909年、薬剤師ジゴン氏のために建設された。

▲豪邸内にあるステンドグラス
1910年製、玄関ホールにある。
スイスのステンドグラスを紹介した文献によると、
「明るい光をもたら し、客に、家の主人の芸術的センスを見せる」
役割をしているそうである。

もうかれこれ3年も前になるが、ポラントリュイ便り歴史シリーズの初め、4回に渡って近代ポラントリュイ全盛期・シナゴーグと駅の栄枯盛衰について語っ た。文献を調べ、町や近辺の村々の逸話をほじり出しては皆様にお届けしてきたが、ここらでテーマを一新したい。3年余り続けた歴史シリーズを、奇しくも同 時代のテーマ、市民文化が満開した「ベル・エポック」で文字通り華やかに締めくくりたい。

「駅」シリーズと重なる部分も多々あるかと思うが、時代背景について述べる。
スイスでの「ベル・エポック」(フランス語で美しい時代)は1895年から1914年の20年ほどと見なす歴史家もいるが、ポラントリュイのそれは、お そらく鉄道・駅建設を発端として考えて間違いはないから、1870年代半ばには始まっていたと考えても良いだろう。
この時代、「普仏戦争」(1870-71)終了後、ヨーロッパは、第一次世界大戦までの束の間の平和と第二次産業革命によってもたらされた経済的飛躍を 堪能していた。産業革命の進行によって工場経営者に富が集中すると、その富は新興の中産階級の住む都市に流れ込み、都市文化が宮廷文化に取って代わった。

鉄道の発達により長距離旅行が可能になり、中流有産階級者は各国の美を持ち帰り、自国文化に溶け込ませた。この時代に流行した装飾美術、そして広い意味 では建築を含め、「アール・ヌーヴォー」(新しい芸術)と呼ぶ。この名は、パリの美術商、サミュエル・ビングの店の名に由来する。装飾に於ける特徴は、有 機的な自由曲線の組み合わせ、鉄やガラスを素材として使っていることである。

ポラントリュイの発展は、「漁夫の利」であったかも知れない。「駅物語その2」で述べたように、普仏戦争に負けたフランスは、ドイツ帝国にアルザス全て とロレーヌの一部を譲渡しなければならなかった。この支配により、フランス東部鉄道会社は、重税をかけられるようになったアルザスを通らずにスイス入国を 可能とする鉄道網を急速に発達させる必要に迫られた。フランス国境の町デルとポラントリュイを繋ぎ、険しい崖が阻むサンチュルサンヌの高架橋の経済的支援 もした。こうして、イギリスから海を渡ってフランス、スイスからイタリアへと繋がる鉄道網が完成した。

鉄道の発達と共に、ポラントリュイへの人・貨物の出入りが激増した。当然、フランスやイタリアなど「流行に敏感な国々」のアートも入って来やすいこと明 白である。この時代、駅とポラントリュイ旧市街の周囲を中心に、斬新かつ壮大で美しい建築物が次々と建てられた。バロック時代を第一次建築ラッシュとすれ ば、これは正に第二次建設ラッシュである。ポラントリュイでもひときわ人目を引く、黄色い壁と赤い屋根瓦、赤煉瓦(偽も含む)、コロンバージと呼ばれる木 骨組積造り。三軒あるこの豪邸のうち二軒は建築家モーリス・ヴァラによって建てられ、尖がった屋根が特徴である。赤と黄を主体とした色使いは、何となく中 国風であるが、アール・ヌーヴォー自体が日本美術の影響を受けていることから(サミュエル・ビングの店も日本美術を扱っていた)、東洋への憧れを取り入れ たと見ても良いかも知れない。

筆者自宅の向かいに位置するこのタイプの家(写真参照・ヴァラ建築ではない)は、その隣家と同様、階段踊り場にあるステンドグラスが美しい。ポラント リュイで一番シックなホテル「Auberge d’Ajoie」自体の建設はベル・エポック以前の1830-1840年代だが、一階ティールームのステンドグラスや回転扉、床のモザイク模様(1902 年製)など、見事なアール・ヌーヴォー装飾を惜しげもなく訪問客に見せてくれる。

人口僅か7000人足らず。ルツェルンのような世界的観光地でもないし、かつて時計産業華やかりし頃の面影は無く、中小の工場が生き残っているだけ。ど こといって目立たない小都市ポラントリュイは、掘ればいくらでも歴史遺産という名の宝が出てくる宝の山のようなものだ。スイスに来た日本人観光客が、山と 観光地だけを駆け足で見て帰ってしまうのがいかにも残念である。そんな思いもあって、この歴史シリーズを綴ってみたが、少しでも興味を抱いて下さった読者 はいたであろうか。「百聞は一見にしかず」という諺にあるように、是非訪れていただきたいスイスの小都市として、これからもワールドアイのページを借りて 皆様にお伝えしていきたい。

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Marc Thévoz de Bure


▲Auberge d’Ajoie。
小さいながら、ポラントリュイで一番洗練されたホテル。


▲ホテル一階、ティールーム
各窓にステンドグラスがはめられている。
壁画にはサンチュルサンヌをはじめ、古き良き時代のジュラの市町村が描 かれている。ホテルの宿泊客は、レトロな雰囲気に浸りながら朝食が食べられる。
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