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ポラントリュイだより:Porrentruyの語源

日本と同様、スイスの地名にもそれぞれ語源がある。ポラントリュイ‐Porrentruyは、字面だけでは分からないが、実は歴史家が現在でも喧々諤々 持論を繰り広げられるだけの深い意味を持つ。


▲善王ダゴベルトI世
歌のせいでパンツを正しくはいていたかどうか
疑われるはめになったフランク王国統一者。

7世紀、Porrentruyは、メロヴィング王朝アウストラシア王国に従属するアルザス公国の一部となっていた。623年、後にフランク王国を統一す るダゴベルトI世(善王Dagobert Iと呼ばれる)がアウストラシア国王に任命された。王の二番目?の妻の名はRagentrude(ラーゲントルード)という。その女性が町を流れるアレン (Allaine)川に橋を建設したとという言い伝えがあり、一見何の関わりも無さそうな「Porrentruy」の語源は、「ラーゲントルードの 橋」=Ponsragentrudisから来ると主張する学者がいる。確かに町の創成期頃の名前として文献に残されている。

話しは少しそれるが、フランス語圏の子供なら誰でも知っている「善王ダゴベルト」という歌がある。フランス大革命時に王政を揶揄する歌として誕生した。 ダゴベルトI世は専制君主ではなく、多くの貴族や僧侶を側近として登用し、彼らの教えに耳を傾けて政治を行っていた。その中に、後に言う「宰相」的な役割 を果たした聖エロワ(Saint Eloi)という聖職者がいた。歌詞の一番に、王と、その奔放な放蕩生活を諌める聖エロワとの会話が導入されている。

♪ダゴベルト善王はパンツを裏返しにはいた。
♪偉大な聖エロワは言った。
「国王陛下、正しくパンツをおはきになっておられませんぞ」
♪「本当だ」王様は言った。「ちゃんとはき直すぞ」

*ここでいう「パンツ」は昔の短跨(たんこ)、今で言うショートパンツである。


▲アレン(Allaine)川
近郊の村に水源を持つ。

▲クルジュナ(Creugenat)川
豪雨時のみ川の一部が牧草地にひょっこり湧き出て
現れるため、 古いフランス語で「魔女の穴」という
異名をもつ。 アレン川に合流する。

Ponsragentrudis、1140年にはPontereyntruと呼ばれた町は、1200年代に入ってBrunnendrut、そして 1283年にはBurnentrutと記されている。「Brunnen」はドイツ語でも水源や泉という意味であるが、「-drut」を古代ケルト人の宗教 を司った僧「ドルイド(druide)から来たと解釈すると、意味は「ドルイド僧の泉」となる。また、古代、ケルト語でBruntrutumと呼ばれた時 代もあるらしい。これを訳せば「水源の国」である。
確かにこの地には前述のAllaine川を初め、7つの川・水源がある。ローマ人が植民を開始する前、この地はケルト人の支配下にあった。水を宗教儀式に 使うケルト人にとってこの地は適していたのではないだろうか。

「Porrentruy」の町の名は、文献の中で時代ごとに微妙に綴りを変えていく。私個人はガイドとして日本人のお客様に説明する時には後者の説を 取っている。海や河川の恵にはぐくまれた日本人は、遠い昔の王妃の話よりも、豊富な水で潤い育まれた歴史の方に、より親近感を覚えるかも知れないと判断し た上である。


〈参考資料〉
「Images du vieux Porrentruy」Roger Ballmer 著
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/
ヨーロッパ史サイト : http://www.histoire-en-ligne.com/article.php3?id_article=162

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その3》

Delmas将軍を再び得たナポレオンは、多国籍同盟軍を相手にリュッツェン、バウツェンの戦いに勝利した。この同盟軍の中にはBernadotte元 帥、いや、王位継承者となったBernadotte王子率いるスウェーデン軍の姿があった。彼は「ナポレオン本隊との衝突を避ければ勝てる」という 「Bernadotteプラン」を考案し、その後の同盟軍勝利に大きく貢献した。


▲1813年10月、ナポレオン軍の大敗に終わった
「ライプツィヒの戦い」

ナポレオン軍は休戦後の「ドレスデンの戦い」で快勝したが、それが最後の栄光だった。 1813年10月16日から19日にかけた「ライプツィヒの戦い」は大激戦となった。ナポレオン軍15万8000のうち4万人以上、総司令官 Bernadotte率いる同盟軍33万のうち6万人以上の死者を出した。この戦いで大敗し、ナポレオンのドイツ支配が終わったため、「諸国民解放戦争」 とも呼ばれる。
戦い最後の日、前線で奮闘していたDelmas将軍を大砲の砲弾が襲った。下半身を砕かれた将軍は、二週間生存していたという。
ある日、死の床にあるDelmas将軍を、かつての戦友Bernadotteが見舞った。BernadotteはDelmasに、「体が治ったら私の軍 に加わって下さい」と提案した。
「いいえ、決して!」 Delmas将軍は力強く答えた。  「もし私がナポレオンと問題があったとしても、フランスへの不満はありません。私の祖国であるフランスに、常にご奉仕するつもりです。皇帝を裏切る気持 ちは少しもありません。祖国に銃を向けるのは私の軍ではありません」
Bernadotteへの痛烈な皮肉を残し、Delmas将軍は間もなく息絶えた。


▲Bernadotteとの婚姻後も
ナポレオンを愛し続けていたデジレ・クラリー

ナポレオンによりヨーロッパ各国で王位・大公位に就けられていた者は、すべてその地位を失ってしまった。ただ一人、スウェーデンに現存する王朝の初代国 王・Bernadotteを除いて…。
1818年にカール14世ヨハンとして正式に国王となったBernadotteは、以前のような国民の人気者ではなかった。彼はスウェーデン語を生涯解 さず、反動的な政治を行った。また、祖国フランスの王位をも狙ったが、フランス国内での支持をほとんど集めることができず、実現しなかった。
絶対的権力を手に入れた男は、権力者を嫌って体に刻んだ「王侯に死を」という刺青をどうにかして消し得たのだろうか。

セントヘレナ島での囚人時代のナポレオン語録がある。 「Bernadotteか・・・恩知らずな奴だ。余が出世させてやったというのに。だが、裏切りとは言うまい。奴はスウェーデン人らしくなっただけだ…… だから余は奴を恩知らずとして非難するが、裏切り者としてではない」

Bernadotteは1844年に他界した。その16年後に妻のデジレは83歳で亡くなったが、枕の下からかつてナポレオンに宛てて書いた恋文の下書 きが何通も発見されたという。死ぬまで愛した男ナポレオンの栄枯盛衰を、運命に翻弄されながら見守り続けていたスウェーデン王妃の悲しい逸話である。


▲故郷ArgentatにあるDelams将軍の胸像

パリの観光名所の一つ、凱旋門。この門の東側、シャンゼリゼ通りに面した支柱16番にDelmas将軍の名前は刻み付けられている。戦死した他の将軍や 連隊長と共に。

Delmas将軍研究家のVacher氏は語る。
「コレーズはDelmasを誇りに思うだろう。ヴェルサイユがHocheを、シャルトルがMarceauを、le Puy-de-D ômeがDesaixを誇りに思うように。Delmasは彼らと同じ類いの兵士だ。戦争と愛国への美徳を持ち、かつ無私無欲であるような」


〈参考資料〉
フリー百科事典Wikipedia「カール14世ヨハン」「ナポレオン・ボナパルト」「デジレ・クラリー」
Delmas将軍の故郷Argentatの公式HP : http://www.argentat.fr/
フランス・コレーズ県の公式HP : http://www.correze.org/
ナポレオン1世研究サイト : http://ameliefr.club.fr/index.html

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その2》


一兵士からフランス皇帝軍の元帥に昇進し、その上、一国の王にまで上りつめた男がいる。ただし、祖国フランスではなく、言葉も文化も違う異国にて。 「Jean Baptiste Jules Bernadotte」、ベルナドット元帥の名前はBernadotte(ベルナドッテ)王朝として今日に至るまでスウェーデンの王家に名前を残してい る。


▲スウェーデン・Bernadotte朝初代王・カール14世ヨハンとなったBernadotte元帥
かつて「美脚軍曹」と呼ばれたこともあるなかなかの美男子

▲Delmas館内に現存する、「帝政式」というスタイルの暖炉。
鏡に映っている方は、建物の所有者ニコル氏に掛け合って撮影許可を取ってくれたアダット・ガイ ド協会会長

▲暖炉中央の彫刻にローマ風のナポレオンの横顔が・・・。追放後も尚、Delmas将軍が皇帝ナポレオ ンを敬っていたことがうかがえる。

1763年、弁護士の子として生まれたBernadotteは、親の反対を押し切り、1780年、フランス陸軍に入隊した。フランス革命では熱心なジャ コバン(急進的な革命推進主義)支持者となる。体に「王侯に死を」という刺青をしていたとさえ言われている。
革命勃発後はドイツ・北イタリアに転戦して武勲をあげ、1794年に陸軍少将に昇進。平民出身の将軍は国民にも人気があり、ナポレオンのライバルとされ たこともある。1799年のクーデターでナポレオン政権が誕生した後も、Bernadotteはナポレオンとは距離を置いた関係だった。 Bernadotteは先のクーデター参加も拒否していた。やがて、権力志向の強いナポレオンへの軽蔑と嫌悪を露わにし始めた。それにもかかわらずナポレ オンがBernadotteを許していたのは、かつて自分が婚約を反故にした女性、デジレ・クラリーを妻としてめとってもらった負い目があるからだと言わ れている。

1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると、Bernadotteは元帥の一人に抜擢され、1806年にはイタリアのポンテコルヴォ大公の位も与えられ ている。その昇進に見合うだけの武勲を残していないBernadotteにこれだけの栄誉を授けるのは、デジレへの罪滅ぼしをしたい一心だったのかも知れ ない。

1809年、スウェーデンで軍事クーデターが起き、反ナポレオン派のグスタフ4世が廃され、その叔父カール13世が王位につけられた。この老いた王の皇 太子は間もなく急死し、後継者を急ぎ決めることになった。この時、ナポレオンへの使者となったメルネル男爵は、Bernadotte元帥を王位後継者候補 にしてはどうかと申し出た。
実は、かつてメルネル男爵はBernadotteの捕虜となっていた。その時、他の軍人と共に親切な対応を受け、寛大な処置を施されたため、恩返しの機 会を狙っていたと思われる。また、Bernadotteはその善行により、スウェーデン国民の間でも人気があった。スウェーデン国会とカール13世は Bernadotteが「プロテスタントに改宗する条件で」後継者就任を決め、Bernadotteも了承した。
北方に同盟国を欲していたナポレオンであるが、デジレへの贖罪の念もあったのだろう。デジレをフランス皇后にはしてやれなかったが、スウェーデン王妃に できるのである。 ナポレオンに反感を持つBernadotteに頼るという安易な政略に、冷徹な帝王になりきれなかった「情の人」ナポレオンの悲劇の発端を見られずにはい られない。

1810年にスウェーデン国王の摂政となったBernadotteはナポレオンの信頼を裏切って反フランス的行動を取るようになり、1812年にはロシ アと同盟を結んだ。 ナポレオンのロシア遠征の失敗に乗じ、また、ナポレオン軍の内情にも通じているBernadotteは、反ナポレオン同盟軍に積極的に貢献した。これが 1813年10月の「ライプツィヒの戦い」である。

この戦争の半年ほど前、返り咲いた男がいる。
1813年4月10日、勅令再興式の際、「刺繍も装飾も無い」フランス共和国の使い古された青い軍服に身を包んだ男が現れた。
「私はまだフランスのためにご奉仕できます。私を好きなように使って下さい」 豪華な軍服に身を包んだ皇帝の取り巻きは古臭い装いの見知らぬ男を見て冷笑した。しかし、ナポレオンは進み出て言った。
「皆さんに紹介しよう。共和国の第一前衛将軍、Delmas将軍だ。」

追放から11年。Porrentruyから駆けつけたDelmas将軍は再びナポレオンに身を捧げ、最前線で戦うことになるが、それは彼自身の悲劇をも 意味していた。


Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Jean-Claude Adatte (Président de l’Association des guides touristiques de Porrentruy et environs, ポラントリュイガイド協会会長)
Monsieur Francis Nicol (propréitaire de Maison Delmas, ニコル館所有主)

ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その1》


Porrentruy城を出た観光客が石畳の坂道を下りきると、間口が狭く古い建物が軒を連ねている通りに出る。13世紀に形成が始まった 「Faubourg de France」(フォーブー・ド・フランス)という市街地で、中世都市らしい情緒が漂う。その西の端にそびえ建ち、全くスタイルの違う白壁のどっしりとし た屋敷「Delmas館」を前にした時、私はガイドとしてというよりも、ヨーロッパ史を愛し探求する者として彼の半生を語らずにはいられない。
ここでは、Delmas将軍、そしてもう一人、対照的な道を歩んだ別の軍人についても語りたい。


▲フランス・Argentatに残るDelmas将軍の生家

Antoine-Guillaume Mauraihac d’Elmas de La Coste、通称Delmasは、1768年、フランス・リムザン地方コレーズ県にあるArgentatに、軍人の子として生まれた。12歳の時にアメリ カに渡り、そこでの生活を通して愛国心に目覚めたようだ。帰国後、パリの軍事学校で学ぶが、リベラルな思想の持ち主は中尉という階級を得てから辞め、 1788年に生まれ故郷のArgentatに引っ込んだ。
フランス革命勃発後、Delmasは地元の改革に努め、小郡(群と市町村の中間に当たる行政区)で国民軍を組織した。1792年、周囲に推されてコレーズ 県第一大隊長、翌年には師団長(将軍)に昇進した。革命は、国内暴動からフランス対ヨーロッパ諸国という大戦争に発展していく。

Delmasと配下の義勇軍は各地の戦いで勝利し続けた。1795年、ナポレオン軍のイタリア遠征に参戦し、連勝に次ぐ連勝を重ね、将来の皇帝の信頼を得 ていった。
Delmas像を語る資料は少ないが、私が調べた範囲では、この根っからの軍人は陰謀渦巻く革命後のフランスにおいて、どうも率直過ぎたようだ。

ブリュメールのクーデター後に樹立した総領政府で第一執政となったナポレオンは、政治にも手腕を発揮していった。1801年、フランス革命以来断絶してい たフランス政府とカトリック教会の関係を修復するため、ローマ教皇ピウス7世とLe Concordat(コンコルダート=政教条約)を締結した。

翌年の復活祭の日、パリのノートルダム大聖堂でコンコルダートを祝う式典が行われた直後のことだ。野望が着実に実現しつつあるナポレオンが上機嫌で Delmasに話しかけた。
「いい式典だったよなあ」
対するDelmas将軍の、あまりにも正直な答えはナポレオンの逆鱗に触れた。
「大した宗教儀式でしたよ! 貴方が復活させたもの(=政教条約)を(いずれ)廃止するために殺す百万の人間はいませんでしたがね」
処刑するには惜しい男だと判断したのだろう。ナポレオンは、当時フランスのHaut-Rhin(オー・ラン)県の一郡庁であったPorrentruyに Delmasを追放した。


▲所変わって現・スイスPorrentruy市に残る将軍の館。
将軍の子孫は(公式には)おらず、現 在は大手家具店Nicolが所有する。

▲将軍が安らぎを求めて通ったキャバレー「Soleil」(ソレイユ)。
ここで、後に妻となる Vetter嬢と知り合った。
現在は空家となっており、保存が懸念される。

追放の身、とはいえ、豪華な屋敷をあてがわれたDelmas将軍は、戦火とはほど遠い小さな町で悠々自適の生活を送り始めた。気さくな性格の彼は町の生活 に溶け込んでいった。肉屋の小僧達を「血まみれ王子」と呼んでからかったり、貴族屋敷を改装したキャバレーに足繁く通い、そこで出会ったVetter嬢と 結婚している。 しかし幸か不幸か人気者過ぎる彼には他にも数多くの愛人がいたらしい。困った夫人は夫を夜な夜な小部屋に幽閉した。さすが、百戦錬磨の軍 人でもあるDelmas将軍は夫人が寝静まるのを待って秘密の通路から抜け出し、密かに愛人の元に通っていたという説がある。(その通路は未だ見つかって いない)

働き盛りの年齢にあるDelmas将軍が気楽な隠居生活を享受している一方で、1804年に皇帝に即位したナポレオンは、ヨーロッパ侵略戦争に終始してい た。1809年、北方に同盟国を作る意図でナポレオンはある元帥をスウェーデン王位継承者に推薦するが、これが自身を破滅に導く一因となるとは知将・ナポ レオンも予想だにしなかったのだろうか……。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

その3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(3)


▲1854-’56年に再建されたコージョネ村の教会。
後期ロマネスクとゴシック様式の混在した広大な
建物である。当時、ジルベートも通っていたのだ
ろうか。

第一次世界大戦終結後も、懐かしさにかられた旧従軍兵達が家族と共に「巡礼のように」駅前ホテルを訪れた。しかし、当のジルベートは1923年、ティ ツィーノ州(スイス・イタリア語圏)旅行中に知り合ったザンクトガレン州出身の商人ルイ・シュナイダーと結婚して生家を去っていた。夫婦はチューリッヒに 新居を構え、間もなく長女ジャンヌが生まれた。

1930年にジルベートの父はホテルを売却し、経営は他人の手に渡ってしまうが、歌によって人の口から口へとスイス全土に語り継がれたジルベート人気は途 絶えることが無かったどころか、更に盛り上がっていく。

1939年、国境警備開始25周年を記念し、ルドルフ・ボロ・メーグリン(Rudolf Bolo Maeglin)が「コージョネのジルベート 」という小説を発表した。小説はメーグリン自身によってすぐ、演劇用に書き直された。
同年、この劇はチューリッヒにて発表された。満員御礼の計8回の公演の後、別の劇場では125回も上演され、続いてバーゼルで80回、ザンクトガレンで 50回……という超ロングランヒットとなった。 プレミア公演の度にジルベート本人が姿を現し、観客の熱烈な喝采を浴びた。熱心なファンは、時には自宅にまで押しかけてきたようだ。1939年8月26 日、ジルベートが実弟ポールに送った手紙の抜粋である。

「……アパートにとても入れません。花かごや紅白のリボンで飾られたブーケで一杯。そして私も自分宛の手紙に押しつぶされています・・・手紙を長く書くこ とは不可能です。電話はひっきりなしに鳴ります。花、本、贈り物が殺到し続けています。8日間私は寝ておらず、何も飲まず、何も食べていません!……」

栄光の代償はいつの時代もこうである。

1941年には美人女優アン‐マリー・ブラン(Anne-Marie Blanc)主演で「コージョネのジルベート」が映画化され、これも大成功を収めた(私は残念ながらこの映画をまだ見ていないが、かなりフィクションが かっているそうである)。

時は第二次世界大戦中。あくまでも中立を貫き通すスイス軍は国境警備に当たっていた。ご存知のようにスイスは多言語国家。現在でも度々起こる現象だが、ド イツ語圏とフランス語圏では政治的に意見を異にすることが多い。しかし、国民が一致団結して国を守らなければならない時勢にメンタリティの違いうんぬんで 仲間割れをしているどころではない。そこで、先の大戦中に「ドイツ語圏」の従軍兵の心のよりどころだった、「フランス語圏」の聡明な美しい女性コージョネ のジルベートが、スイス統一のシンボルとなったのである。

戦後、ジルベートは伝説的ヒロインとして人々の記憶の奥にとどめられるようになったが、戦争記念行事の度にドイツ語圏では劇や映画が繰り返し上演された。 それゆえ、ジルベート人気は特にドイツ語圏で世代を超えて語り継がれているのである。

ジルベートは1957年5月2日、他の多くの家族と同様、癌で亡くなった。享年61歳。彼女の亡骸はチューリッヒNordheim墓地の夫の傍らに埋葬さ れた。当時のコージョネ村長シモン・コレー氏が葬儀に赴き、以下の言葉を捧げた。

「彼女は父なる宿に灯る太陽の光でした」


▲参考文献として役立った
『Gilberte de Courgenay』
(Damien Bregnard著)

その後、駅前ホテルはどうなったのだろうか?

1997年、56年もの間経営していたドブラー・ジゴン一族が店を手放したため、ジュラ州立銀行が買収。この時、ジルベートの姪エリアンさん、甥エルヴィ ンさんを初め、政治家や実業家などジュラ州で名の知れた人々が中心となって立ち上がり、ホテルの買収・再建、そしてジルベート時代の文化伝承のために奔走 した。「コージョネのジルベート財団」と名づけられたこのグループは、一時、財政難から買収をあきらめかけたが、バーゼルの実業家クレーリー&モリッツ・ シュミッドリ夫妻(Klärly & Moritz Schmidli)が多額の寄付を施したため、無事にその任務を果たすことができた。2001年4月には改装工事が終わり、新装開店記念式典には連邦議会 とスイス23州すべての代表が参列した。

2005年8月の時点で、ホテル・レストランは順調に経営を続けている。軍人達がジルベートと共に飲み、歌い、踊った大ホールの壁には当時の写真がずらり と飾られているので、訪れた方は是非一つ一つに見入って欲しい。彼女の微笑は今も華やかに、そして太陽のようにまぶしい輝きを放ちながら私達に話しかけて くる。

Mes remerciement particuliers s’adressent à:
Madame Eliane Chytil-Montavon de Courgenay

【参考文献】
『Gilberte de Courgenay』(Damien Bregnard著)
ホテル・レストラン「駅前ホテル・コージョネのジルベート」のWebsite

【写真引用】
http://www.juranet.ch/localites/communes/Ajoie/autreAjoie/Courgenay/gilberte.html

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