ポラントリュイだより: ナポレオンが持て余した二人の軍人《その1》

2010年2月28日


Porrentruy城を出た観光客が石畳の坂道を下りきると、間口が狭く古い建物が軒を連ねている通りに出る。13世紀に形成が始まった 「Faubourg de France」(フォーブー・ド・フランス)という市街地で、中世都市らしい情緒が漂う。その西の端にそびえ建ち、全くスタイルの違う白壁のどっしりとし た屋敷「Delmas館」を前にした時、私はガイドとしてというよりも、ヨーロッパ史を愛し探求する者として彼の半生を語らずにはいられない。
ここでは、Delmas将軍、そしてもう一人、対照的な道を歩んだ別の軍人についても語りたい。


▲フランス・Argentatに残るDelmas将軍の生家

Antoine-Guillaume Mauraihac d’Elmas de La Coste、通称Delmasは、1768年、フランス・リムザン地方コレーズ県にあるArgentatに、軍人の子として生まれた。12歳の時にアメリ カに渡り、そこでの生活を通して愛国心に目覚めたようだ。帰国後、パリの軍事学校で学ぶが、リベラルな思想の持ち主は中尉という階級を得てから辞め、 1788年に生まれ故郷のArgentatに引っ込んだ。
フランス革命勃発後、Delmasは地元の改革に努め、小郡(群と市町村の中間に当たる行政区)で国民軍を組織した。1792年、周囲に推されてコレーズ 県第一大隊長、翌年には師団長(将軍)に昇進した。革命は、国内暴動からフランス対ヨーロッパ諸国という大戦争に発展していく。

Delmasと配下の義勇軍は各地の戦いで勝利し続けた。1795年、ナポレオン軍のイタリア遠征に参戦し、連勝に次ぐ連勝を重ね、将来の皇帝の信頼を得 ていった。
Delmas像を語る資料は少ないが、私が調べた範囲では、この根っからの軍人は陰謀渦巻く革命後のフランスにおいて、どうも率直過ぎたようだ。

ブリュメールのクーデター後に樹立した総領政府で第一執政となったナポレオンは、政治にも手腕を発揮していった。1801年、フランス革命以来断絶してい たフランス政府とカトリック教会の関係を修復するため、ローマ教皇ピウス7世とLe Concordat(コンコルダート=政教条約)を締結した。

翌年の復活祭の日、パリのノートルダム大聖堂でコンコルダートを祝う式典が行われた直後のことだ。野望が着実に実現しつつあるナポレオンが上機嫌で Delmasに話しかけた。
「いい式典だったよなあ」
対するDelmas将軍の、あまりにも正直な答えはナポレオンの逆鱗に触れた。
「大した宗教儀式でしたよ! 貴方が復活させたもの(=政教条約)を(いずれ)廃止するために殺す百万の人間はいませんでしたがね」
処刑するには惜しい男だと判断したのだろう。ナポレオンは、当時フランスのHaut-Rhin(オー・ラン)県の一郡庁であったPorrentruyに Delmasを追放した。


▲所変わって現・スイスPorrentruy市に残る将軍の館。
将軍の子孫は(公式には)おらず、現 在は大手家具店Nicolが所有する。

▲将軍が安らぎを求めて通ったキャバレー「Soleil」(ソレイユ)。
ここで、後に妻となる Vetter嬢と知り合った。
現在は空家となっており、保存が懸念される。

追放の身、とはいえ、豪華な屋敷をあてがわれたDelmas将軍は、戦火とはほど遠い小さな町で悠々自適の生活を送り始めた。気さくな性格の彼は町の生活 に溶け込んでいった。肉屋の小僧達を「血まみれ王子」と呼んでからかったり、貴族屋敷を改装したキャバレーに足繁く通い、そこで出会ったVetter嬢と 結婚している。 しかし幸か不幸か人気者過ぎる彼には他にも数多くの愛人がいたらしい。困った夫人は夫を夜な夜な小部屋に幽閉した。さすが、百戦錬磨の軍 人でもあるDelmas将軍は夫人が寝静まるのを待って秘密の通路から抜け出し、密かに愛人の元に通っていたという説がある。(その通路は未だ見つかって いない)

働き盛りの年齢にあるDelmas将軍が気楽な隠居生活を享受している一方で、1804年に皇帝に即位したナポレオンは、ヨーロッパ侵略戦争に終始してい た。1809年、北方に同盟国を作る意図でナポレオンはある元帥をスウェーデン王位継承者に推薦するが、これが自身を破滅に導く一因となるとは知将・ナポ レオンも予想だにしなかったのだろうか……。