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ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その4》

「l’Hôtel des Halles」(旧中央市場)


▲「l’Hôtel des Halles」
正面壁はポラントリュイ南東部のVoyeboeufという場所で取れる石灰岩の切り石で構成されている

▲ネオ・ゴシック風・半円アーチ天井が組み合わされた美しい内部
ここに続く中庭を経て反対側の通りに出ることができる

▲旧中央市場と隣の建物を分ける細い路地
火災の際、延焼を防ぐ役割も果たした

▲財力に物を言わせた有産階級者の館
窓飾りの数は御向かいさん、大公司教自慢の中央市場より多い!(1768年完成)

1283年早春、時のバーゼル司教アンリ・ディズニー(Henri d’Isny)は気が気でなくなった。ポラントリュイを含むアジョワ地方に、ブルゴーニュ王ルノーが押し入ってきたからだ。ルノーは、46年間バーゼル司 教と平和にポラントリュイ市を共同で統治していた亡き大領主ティエリー三世(Thierri III de Monbéliard)の孫娘の婿。だからといってこんな横暴は許されるはずがない。困った司教は、親しい仲である神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のルド ルフ一世に助けを求めた。友人の危機に、皇帝はすぐに援軍を差し向け、3月2日に町を包囲。6週間後の4月16日、ルノーは退却し、支配地域をすべてバー ゼル司教に返還した。
その僅か4日後である4月20日、ルドルフ一世はコルマールと同じ権利を所有した「自由都市特許憲章」をポラントリュイに授与した。つまりポラントリュ イは神聖ローマ帝国の保護下にあり、バーゼル司教を領主とするが、独立し自治を行う一つの町としての権利を獲得したのである。

都市として認められるには、城壁の存在、刻印の保持、そして市場の設置という3つの条件が必要だった。防衛能力、政治的そして経済的基盤を求められたの である。この憲章により、ポラントリュイは毎週水曜日に市を開くことと、年4回の定期市を許された。市場では穀物、食料品やその他の物資が売られ、市は秤 を貸し出した。スイス各州、ヨーロッパ近隣諸国やバーゼル司教区など、60数種の通貨が使用された。

時は流れ、バーゼル大公司教としては初めてのフランス語圏出身者、モンジョワのシモン‐ニコラ(Simon-Nicolas de Montjoie)が就任した。旧体制下のポラントリュイが最後の輝きを見せる時代、そしてフランス語圏出身とあって、この大公司教はなかなか人気があっ たらしい。
「私はモンジョワ(=喜びの山)のシモン‐ニコラ。皆に喜びを持ってきた!」 と宣言したとか。

彼は前大公司教リンクの仕事を引き継いで病院と市庁舎を完成させた後、1551年建造の古びた中央市場を壊して最新様式に建て替え、自分のものとした。 建築家は同じ、ピエール‐フランソワ・パリ。1766年から作業は始められ、1769年に完成。新古典様式の建物正面は、パリ(=フランスの都)視察旅行 で大いに影響されたパリ氏の最高傑作である。合計4つの建物には商人が売買を行うホールや市の計量管理所、政府の穀物貯蔵所が入った。ビリヤード場や劇場 もあったらしい。また、アパート(使用人の小部屋が隣接)が12部屋ほど用意された。大公司教が城に客人を泊め切れなくなった場合の予備の部屋である。
この豪華な市場を見て羨ましくなったか、向かいの家の所有者であった有産階級者は、パリ氏に依頼し、ほぼ同時進行で自分の家屋を改築してもらった。(そ のために司教の怒りを買ったという話はないが)

完成からわずか13年後、フランス革命の余波がポラントリュイにも押し寄せ、モンジョワ亡き後の大公司教ロッゲンバッハは町から逃亡。翌年、コンスタン スで他界した。バーゼル大公司教所有の建物はすべて革命軍に押収された。モンジョワ絶頂の証、旧中央市場は革命政府や共和国の国民議会場、ナポレオン政府 下ではフランス国オーラン県の郡庁として転用され、スイス国ベルン州に併合された後は裁判所と警察が設けられた。1979年のジュラ州独立まで支配の象徴 として機能したのである。
1990年代の修復後、美しい壁の白さを取り戻した建物には、ジュラ州立図書館、古生物学事務所、美術ギャラリー、多目的ホールなどが入り、自由市民の 知的空間を提供している。

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その3》

「l’Hôtel de Ville」(市庁舎)


▲1940年10月31日アジョワ暴動の首謀者
ピエール・ぺキニャ処刑の絵(第20、21話参照)

右端の建物が旧・市庁舎。玄関部分に屋根付きの階段が見える。

▲現在、バロックスタイルの市庁舎
正面壁に使われた黄色い石はBourrignon村(Porrentruyから車で20分ほどの距離)の石切り 場から。

▲市庁舎の玄関を入ったところ

▲玄関扉の上から覗くミネルヴァ=アテネ女神
ここに出入りする市長と議員に英知を授けて下さいますようにという意図か?

時のバーゼル大公司教、バルデンシュタインのジョゼフ=ギョーム・リンクは、自分の居住地であるポラントリュイを、「小さなパリ」にしたかったのかも知 れない。室内が暗くカビがはびこり衛生的とは言えないゴシック式の古い市庁舎は、司教の命により、バロック式の優美な豪邸へと変貌を遂げた。

当時の絵画上で見られるように、旧市庁舎の階段部分は通りにはみ出している。改築後、市街の建物は一列に並んだ。建築家はピエール=フランソワ・パリ 氏。建築期間は1761~1764年。先述の病院と、同時進行で作業を行っているのだから建築家の才能は元より、大公司教の財力は相当なものと想像するに 容易い。リンクはこの二つの建物の完成を見ずに亡くなっており、後任のモンジョワが小パリを謳歌することになる。しかし、第32話の主役は大公司教ではな い。

改築前の市庁舎は、14世紀建造で、元々は有産階級者の館として建ち、城壁の一部だった。1413年にヌーシャテルに注文した銅製の鐘(現在の市庁舎の 小鐘楼内にある)は、この地方で最も古いものである。鐘は町に危険が迫った時、すなわち戦争や犯罪を市民に知らせ、犯人が処刑される時の告知にも使われ た。

一階は武器庫として使われていた。自由都市の実質運営を一手に引き受けていた有産階級者は、有事の際には騎士となり、敵と戦うのである。二階は会議室で あったが、台所と隣接し、しばしば大宴会場となった。宴会は議員やその伴侶のためだけでなく、町の有産階級者の婚姻時にもここで開かれた。誓約書宣誓の度 にはすべての有産階級者とその伴侶が招かれ、その数は150~200人にも及んだ。

宴会について面白い逸話がある。酒蔵がなかったため、ワインは買い置きせず、そのつど酒屋に必要なだけ買いに行っていたという記録がある。
現在ではまったく当たり前にように出される食器類は、中世では貴重なものだった。この市庁舎では錫製の皿が100あまり、大皿が50ほど用意されていた が、それは身分の高い者用で、下層民には木製のコップや皿が出された。会食者全員に皿が行き渡らないこともあり、その場合、男性は隣の貴婦人と皿を共有し た。女性が意中の人であった場合、男性は緊張と遠慮のあまり、食欲を忘れたのではないだろうか。
料理用の野菜は菜園に豊富にあった。肉は雌鹿や野ウサギで、その他の肉は肉屋に注文した。大公司教の来訪の折は雌鹿料理でもてなした。

ポラントリュイはバーゼル司教公国に属していたため、絶対君主は大公司教であったが、町は実質、有産階級者が牛耳っていた。市場が開く一時間前に市庁舎 のバルコニー上に小さな旗が上がったが、それは有産階級者が優先的に買い物をしてもよいという知らせであった。

こう書いていると、有産階級者や市会議員は贅沢ばかりしていた感はあるが、組織が秩序化され結束していたことで、後世に伝えられた資料は非常に貴重で、 中世の生活を細かく知る大きな手がかりとなる。この市庁舎に設けられた有産階級古文書室にはヨーロッパ最古の洗礼記録がある。

1481年12月26日。出生日は分からないが、中世では洗礼を受けずに死ぬと天国に行けないと固く信じられていたので、赤ん坊はクリスマスからそう遠 くない日に出生していたのであろう。ちなみに1482~1500年の記録では、男の子に一番多い名前はジャン(Jean)(キリストの十二使徒の一人、ヨ ハネ)で男子全体の30%、女の子はジャンヌやジャネット(Jeanne, Jeannette)(ジャンの女性形)で女子全体の21,8パーセント、現代のようなバラエティに富んだ名前は見当たらない。排他・嫌悪の対象となった ユダヤ教徒を除き、国がカトリック一色に塗られていた時代でもあった。

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その2》

「Hôtel-Dieu」後編


▲「CHRISTO IN PAUPERIBUS」
「貧しき者の中のキリスト」という意味。実際、「老いた貧しき者」は入院を拒否されることが多かったが・・・。鉄柵は1765-66年製、当時の売れっ子錬鉄職人Fromknechtによるもの

▲聖マルト会の修道女によって病人は介護された。

▲長い修道服の裾をたくし上げなくても上がれる階段
現在高校がある元・イエズス会の修道学校も同様の上がり幅の低い階段である。

▲1847年製の薬局

病院経営は、有産階級者の寄付によって潤った。しかし、フランス革命以前の旧体制下(ancienne régime)では、お世辞にも民主的とは言えない病院であった。なぜなら、入院は有産階級者優先で、次にポラントリュイ市の人間、そして外部者という順 位付けがあったからだ。また、有産階級者でない老人は、「寄付の見込みがない」ことから門前払いを食らうことが多かったようだ。ちなみに当時のベッド数は 30ほどだった。

看護の人間は聖マルト会の修道女が担当した。この修道会は15世紀にフランスのボーヌ(Beaune)にて設立され、修道女は市の病院にて献身的な看護 を数百年に渡って続けてきた。彼女達のうち三人がポラントリュイに呼び寄せられたことが始まりである。看護者数はその後、順調に増えた。有産階級者の娘を 対象に公募も行われた。選ばれた女性は二年間の修練期間を経た後、修道会入りした。

旧体制下の病院は、宗教施設として見なされていた。薬草がせいぜいで、現在で言う「薬」による治療はまだ行われていなかった。病院は「魂を救い、身体を 養う」場所であるから、体を休めつつ祈りと信仰に忠実な生活を送ることが回復に向かう一番の療法とされた。

二階の中央に礼拝堂があり、窓を開け放ってミサを行った。動けない病人も自室の窓を開ければミサを聴くことができた。フランス革命まで、実に、年に 572回ものミサが上げられた。礼拝堂付司祭は、1870年まで、会計係と医師よりも高給取りだったという。

1792年、ポラントリュイ市はフランス革命軍により占拠され、以来、1814年までフランス国の一部となったが、この期間、初めて近代医学が導入され た。薬局は1847年、ポラントリュイの高級家具職人Jean-Baptiste Carrazによって作られた。カエデ、コナラ、プラムやマツの木などが使われている。修道女はラテン語を読めなかったため、241ある薬の瓶(ガラス製 と陶製)と引き出しの表示はフランス語である。

この建物は拡張工事を続けてベッド数を徐々に増やし、1956年まで病院として使われていた。現在は上記の薬局や市の貴重な文化財が収められている博物 館、図書館、観光局、文化局などが入っている。時代を経て役目は変わったと言えど、依然として町で一番の美しさを誇る文化施設として大いに機能し、市民生 活に役立っている。

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Pierre-Yves Donzé de Porrentruy, l’auteur de
《L’hôpital bourgeois de Porrentruy 1760-1870》

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その2》

「Hôtel-Dieu」前編

2006年4月8日から、旧バーゼル司教区内にある、バーゼル、ビエンヌ、ドレモン、そして我がポラントリュイの博物館で始まった一大イベントがある。
タイトルは「Pro Deo」。
旧バーゼル司教区古文書財団主催で、中世キリスト教世界における様々な文化や風習を見直し、現代生活へと繋がる鍵を見出そうという企画である。
ポラントリュイの博物館は、二回に渡ってお話しする「Hôtel-Dieu」-ポラントリュイ旧病院内にある。展示のテーマは「祝い、生活し、祈る」。 正に中世の人々の生き様を集約した表現である。


▲サン・ジェルマン門
別名「死者の門」。
中世において、町に出入りする人間を取り調べる
検問所としての役割もあった。

▲サン・ジェルマン門を出たところ
左手のガラス張りの建物には、
警察・戸籍役場などが入っている。この場所に
最初の市民病院があったらし い。


1765年に完成した病院「l’Hôtel-Dieu」

ポラントリュイで最も美しい
バロック式建築物の一つである。

「Hôtel-Dieu」は、直訳すれば「神の館」。そして、現在の言葉では病院である。古来よりキリスト教社会では病気は神様から送られた罰という観 念が定着していた。そこで、816年のアーヘン公会議で、司教区は教会の傍に「Hôtel-Dieu」を建設し、病人の治癒回復に寄与しなければならない と決定した。

「病院」=英語のhospital、フランス語のhôpitalは、ラテン語のhostis「よそ者」に起源を発する。一見、この排他的な言葉は、ギリ シャ語のposis「他者を受け入れる」という言葉と合体し、病院や宿泊施設など、人をもてなすことを意味する用語を生み出して行く。その語源が色濃く 残ったhostile(敵意ある)も存在するが・・・。

ポラントリュイ市議会と43名の有産階級者は、初の病院を1406年、サン・ジェルマン門の近くに建設した。有産階級者の多大なる寄付により経営は潤 い、資本は膨れ上がり続けた。1598年、大公司教ブラレーによって条例が施行されると、病院は司教の管理下に入った。

ところで、サン・ジェルマン門は、別名「死者の門」と呼ばれていた。この気味の悪い名称は、町から追放されるハンセン氏病患者が黒い服と手袋を身に着 け、近寄らないようにと自ら警告するよう持たされた鈴を持って通る場所だったことに由来する。

ハンセン氏病患者専門救済院は12世紀頃から存在していた。ハンセン氏病患者は社会より疎外されていた。伝染病であることはもちろんだが、旧約聖書の記 述より受け継がれた「タブー」、神によって与えられる病と考えられていたからである。(注・現代の研究では伝染率は極めて低いと判明し、治療薬もあるが、 当時は汚れた不治の病と恐れられていた)
ポラントリュイ市内でハンセン氏病患者が発生すると、教会は速やかにブザンソン大司教に使者を送った。大司教の承認を得た上で患者を町から追放し、専門 施設に入れた。すべての費用は司教区が受け持った。ポラントリュイでは城壁外に比較的快適な施設があったという資料があり、地名も 「Maltière」(病人の住む家)として残っているが、建物があった正確な場所は不明である。

一方、市民病院は1618年‐1648年、三十年戦争によって廃墟となった。軍による占拠、ペストの流行、飢餓などの理由である。17世紀になってから 善意ある寄付者のお蔭で再建された。しかし、18世紀半ばに大火災に遭い、「病人には非衛生的で一般市民には危険な場所」という理由で廃院となった。

いつの時代にも寛容な人間はいるものである。1758年9月16日、Jeanne Baptiste Chavé夫人が、すべての財産を病院建築のためにと、遺贈した。有産階級市議会は「ラ・コーティン」と呼ばれていた有産階級者所有の土地を購入し、そこ に、ブザンソン生まれの建築家Pierre-François Parisが1761年から4年間かけて病院を建築した。
パリ氏は、現代風に言えば超多忙な「カリスマ」建築家だろうか。数々の歴史的大建築物を設計・建築するだけでなく、宮廷付の測量技師長でもあり、土木局 長を勤めて大道路を開拓し、さらには宮廷議会委員も勤めていた。(給料は貢献度に決して比例しておらず、不満の種だったらしいが)1792年、フランス革 命軍が近づくと、「権威者・大公司教」に近い存在であった彼は迫害を恐れて町を脱出し、以後、行方知れずとなった。
病院の内部については後編にてご紹介する。
「Pro Deo」についての情報はこちら : http://www.prodeo.ch/
〈参考資料〉
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/
Hôtel-Dieu公式サイト : http://www.museehoteldieu.ch/index.html

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その1》

グレレスの館

フランス語で「ホテル」(l’hôtel)と言うと、観光客が泊まるホテルの他に、「公共の建物」という意味と、「(貴族などの)私邸、館」という意味 がある。


▲グレレスの館
現在はバーゼル大公司教統治時代の貴重な資料が眠る古文書図書館。カメラに収まらないほど巨大。

▲当時の売れっ子鍛冶屋Jollat(ジョラ)製作の錬鉄の階段手すり。
グレレス夫妻婚姻記念の紋章付き。

▲大公司教の妹、グレレス卿夫人
ヴィクトワールの墓

▲妹思いの大公司教、バルデンシュタイン出身の
ジョゼフ=ギョーム・リンク

18世紀、「アジョワ暴動」(1730~40年)(第20、21話‐ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男をご参照に)後、Porrentruyを含 むアジョワ地方は、表面上は静けさを取り戻した。バーゼル大公司教支配下でPorrentruyの町が最後の輝きを見せる時代である。 町は建設ラッシュとなった。ブルジョワ階級は流行のバロック・レジェンス様式で邸宅の一部を改装したが、大公司教の財力は部分装飾だけではとどまらず、彼 らの邸宅の何軒分かに相当する「ホテル」建設を実行させた。

1750年頃、最初の「ホテル」が完成した。「グレレスの館」(Hôtel de Gléresse)と呼ばれる建物は、当時の大公司教、バルデンシュタイン出身のジョゼフ=ギョーム・リンクが、妹・ヴィクトワールと、その婿であるグレ レスのジャン・フレデリック・コンラッドに結婚祝いとして贈ったものである。(グレレスはドイツ語読みでは「Ligerz」。
Bienne/Biel湖を見下ろす小さな村で、ワインの産地である)その頃、グレレス卿は大公政府の実力者でもあり、多忙を極めていたが、彼と妹がせ めてPorrentruyで束の間の休日を楽しめるようにという心遣いだったという。

写真でご覧の通り、威圧感のあるドイツバロック式の館は、建築家ヨハン・カスパー・バグナート設計によるものである。バグナートは1696年ライン地方 Landauに石工の息子として生まれた。建築家として多忙を極めたため病弱になったが、1757年に亡くなるまでバーゼル司教区のために貢献した。スイ スとドイツの国境、ボーデン湖に浮かぶマイナウ島の教会は彼が建造した。ジュラ州都・ドレモンの市庁舎の設計者でもある。
館は豪華なだけではなく実用的でもあった。馬車に乗ったまま出入り内部に出入りできるように車道と歩道の段差を少なくし、入口を高く広く設計している。 馬車は大きな玄関ホールでグレレス夫妻や客人を下ろすと、中庭を一周して180度方向転換をし、再びホールに戻ってきて待機する。

グレレス卿夫人ヴィクトワールの墓をPorrentruyで最古の教会、サンジェルマン教会で偶然見つけたので写真をご覧いただきたい。司教の庇護で恵 まれた結婚生活を送っていた彼女が、フランス革命軍による破壊活動や司教区の解体後、どのような運命をたどったのかは知られていない。せめて墓に刻まれた 言葉を読み、彼女の人柄や功績を想像してみよう。
「グレレスのヴィクトワール夫人。旧姓バルデンシュタイン出身のリンク。1810年9月(?)20日死去、享年92歳。彼女は美徳の手本であり、貧しき 者の母であった。裕福なものよ、彼女を真似よ。貧しきものよ、彼女を祝福せよ。すべてのものよ、彼女のために祈れ。安らかに眠りたまえ」


〈参考資料〉
「Images du vieux Porrentruy」Roger Ballmer 著
Porrentruy市公式サイト : http://www.porrentruy.ch/

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