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ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

その3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(2)

ポラントリュイ市及び郊外ガイド協会には個性豊かなガイドが揃っている。ジルベートの姪エリアンさんもその一人である。彼女の父親はジルベートの弟、 ギュスターヴ・ジュニアである。


▲1915年。ホテル裏で兵士と一般人に給仕
をするモンタヴォン姉妹とその従姉妹。
後列中央がジルベー ト。

ガイド協会の定例集会がコージョネ駅前レストランで催された時、私達はエリアンさんがホテルを訪れる観光客を前に語っていると思われるジルベート伝記物 語を聴く機会に恵まれた。エリアンさんは身振り手振りを交えながら表情豊かに語った。

「私がチューリッヒに住み始めた頃、許可をもらいにお役所に行かなくちゃいけなくて、緊張していたの。しかめっ面の無愛想なお役人が前に座っていた。と ころがね……『名前は?』『エリアンです』『姓は?』『モンタヴォンです』『ん……? じゃあ出身地は?』『コージョネです』『(突然叫ぶ)あああ~!  コージョネのジルベートちゃん!!!』更に私がそのジルベートの姪だと説明すると、もう彼は感激、興奮。もちろん、手続きもスムーズに行ったわ。それから もう私は女優のような気分。大得意だったわ。なぜって皆が私に寄ってくるんだもの……ジルベートの話を聞きたくてね」

その役人がジルベートに面識があったかどうかは聞き逃したが、戦後当時、スイス・ドイツ語圏でのジルベート人気を印象付けた話だった。この人気がただ軍 人の中で収まっただけではなく国民レベルに達したのは、今も昔も変わらない、マスメディアの力だった。そのきっかけを作った歌手の話をしたい。

ハンス・イン・デア・ガント(Hanns in der Gand,1882-1947)はポーランドからスイス・ウリ州に移民した医者の息子として生まれた(本名はLadislaus Krupski)。彼は大きなリュートを手に歌い、そのスタイルは吟唱詩人と言われていた。スイスの古い民謡を歌いながら駐屯中の部隊から部隊へと渡り歩 いていた1917年2月22日、彼はジルベートの働くホテルでスイス軍第二師団のある隊を前にコンサートを開いた。人気者ジルベートに興味を持ったイン・ デア・ガントは彼女に直接聞いた。


▲現在もコージョネ駅前ホテルのカフェ内で
見ることができる「コージョネのジルベート」の絵画。
ジョルジュ・ヴィッティーニ作(1949年)

「ジルベートさん、貴方は何人の兵士と将校をご存知ですか?」
「兵士は30万人、将校は全員です」
冗談か事実かはどの資料にも記されていないが、ジルベートの答えは確かに吟唱詩人を強く動かした。彼は早速曲を書き上げ、同年10月11日、コージョネ 村祭りの日に駅前レストランを訪れた。
「モンタヴォン夫人、イン・デア・ガントさんがお嬢さんのために作った曲を披露したいと言っています。私のテーブルにお嬢さんを同席させてもいいでしょ うか?」  アンドレア少佐が許可を求めた時、母親はまったくいい顔をしなかったらしいが、周囲の雰囲気にしぶしぶ認めたという。詩人はホールの中央に立ち、唇に笑 みを浮かべ歌い始めた。
スイス・ドイツ語で始まるこの歌はリフレインのみフランス語である。その部分になると21歳の女性ジルベートはあまりの恥ずかしさに席を立って去ってし まったそうだ。この歌は以下のサイトで歌詞を見ながら聴くことができる。

http://www.swisstenor.ch/musik/mediaplayer/probe9.html

※リフレインの部分(マルキ明子訳):

それはジルベートちゃん、コージョネのジルベート
彼女は30万人の兵士とすべての将校を知っている
それはジルベートちゃん、コージョネのジルベート
スイス全土とすべての軍が彼女を知っている

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の3 スイスで一番有名なジュラ人、Petite Gilberte(1)

ポラントリュイの一つ手前の小さな駅、コージョネ。この駅に降り立つとすぐに、可愛らしい建物が目に入る。スイスのどこの村にでもあるような個人経営の 小さな駅前ホテル。


▲コージョネ村駅前ホテル・レストラン「Petite Gilberte」
(2005年8月撮影)

ところが、ホテル前に観光バスが一台、二台と横付けされていることも珍しくない。観光客の会話に耳を澄ますとスイス・ドイツ語(注・スイス・ドイツ語は 標準ドイツ語と似て非なる言語である)が聴こえてくることが多いだろう。それもそのはず、ここはスイス、特にドイツ語圏で最も有名で最も人気のあるジュラ 女性がかつていた場所なのだから。
物語は1906年までさかのぼる。この年、ギュスターヴ・モンタヴォンという時計職人が駅前ホテルを購入し、家族と共に移り住み経営に乗り出した。三年 経つと、ホテルの拡張工事が始められ、村の楽隊や様々なグループが使用するホールが作られた。数年後、このホールは村人ではなく、スイスの他言語圏から集 結した軍人達で賑わうことになる。
1914年6月28日。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ=フェルディナント夫妻はサラエボを訪問中、セルビア人過激派の青年に暗殺され た。オーストリアは報復のため、ただちにセルビア併合を宣言。ドイツはそのオーストリアを支持。一方、セルビアの独立を支持するロシア、更にイギリス・フ ランス・イタリアも加わり、ヨーロッパは戦争に突入した。やがて中東、中国大陸にも飛び火し、植民地と世界の覇権を競い合う帝国主義戦争としての性格を帯 びた第一次世界大戦へと拡大していった。

戦争が始まるや否や、スイスは迅速に対処した。1914年7月31日、軍は前哨に配置された。8月3日、連邦議会は総動員令を発した。25万人の士官、 下士官、兵士、更に20万人の補充、そして4万5千頭の馬が軍役についた。

総動員令発布後、スイス軍はフランス・ドイツ戦線に近いジュラに配備され、塹壕が掘りめぐらされた。これによって、村々のホテル・レストランは、軍隊の 駐留場所ともなった。コージョネ村の位置するアジョワ地方には、軍の四分の三、主にスイス・ドイツ語圏出身の隊が駐屯した。


▲ジルベート・モンタヴォン
「真ん中分けで結い上げた黒髪が
えくぼを浮かべた丸顔を包み、 華やかな笑顔が
印象的な女性」と姪のエリアンさんは語る

ジルベート・モンタヴォンはギュスターヴとルシーン夫婦の三女としてホテルの一階で生を受けた。
第一次世界大戦勃発当時、ジルベートは18歳。レストランでの家族の役割はそれぞれ定められていた。でっぷりと貫禄のある母ルシーンは勘定台の後ろに常 に座り、家族を含む使用人が働く様子や客をじっと見て采配を振るっていた。ジルベートは姉二人と共に給仕。弟二人は音楽の才能が有り、ヴァイオリンやピア ノ、アコーディオンを演奏し、夕べを活気付けた。(注・この弟の一人、ポール・モンタヴォンは後にジュラを代表する作曲家、音楽家として活躍した。アジョ ワ地方の永遠の名曲として今でも宴会やコンサートの度に繰り返し演奏される楽しいマーチ曲「Salut à l’Ajoie」の作曲者である)

三姉妹の中でも特に笑顔が明るく美しい彼女は、休息と娯楽を求めてやってくる兵士達の人気者となった。彼女はただ小柄で可愛いだけでなく、機知と社交性 に富み、トランプの「ブリッジ」の名手でもあった。また、義務教育を終えてから裁縫の勉強のためにドイツ語圏に住んだことがあり、このホテル・レストラン で唯一スイス・ドイツ語を解する女性だった。
語学力もさることながら、彼女の突出した才能は、驚異の記憶力だった。彼女は接した将校・兵士すべての名前、容姿の特徴や彼らとの会話の詳細 (例えば出身地や家族構成など)を覚えていた。その上、故郷を遠く離れ家族を心配する兵士達の話を親身になって聞いてやり、決して内容を忘れなかった。一 旦兵役を終えて故郷に帰り、再び赴任してきた時にチャーミングなジルベートの記憶にとどめられていたことを非常に喜んだことは言うまでもない。

ジルベートの噂は士官から士官、兵士から兵士へ、そしてスイス全土へと伝わっていった。彼女のニュースは、中央スイス在住の、あるシンガーソングライ ターの興味を引いた。このことが、結果的にジルベートを国民的アイドルに導いていく・・・。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(2)
農民代表団はアンリエット夫人の文書を尊重するように大公司教側に働きかけたが、既に無効だとはねつけられた。結局、神聖ローマ帝国から代表者として使 わされていた駐スイス・ライヘンシュタイン伯の調停に頼ることになった。思わぬことに、ライヘンシュタインは農民の正当性を認めた。
予期せぬ勝利に狂喜した農民の一部は大公司教の顧問であるラムシュワグ男爵の所有地で暴徒化し、大損害を与えた。この無益な行為がすべての不幸の元凶で あったと言えるかも知れない。
その後も、興奮やまない1700名の農民達は武装し、指導者ピエール・ぺキニャを逮捕しに来た軍隊に立ち向かい、撃退した。  農民代表団はウィーンの帝国裁判所に、税の支払いを年一度のみにする判決を下すよう訴えた。この時、ぺキニャは再び大公側の手に落ちそうになったが、護 衛の騎馬兵が撃退した。


▲市庁舎前でのピエール・ぺキニャ(白髪の男性)の
処刑風景を描いた絵(ジョゼフ・ウッソン作)

5年後、アジョワの各役場前に判決文が掲げられた。
「民衆はあらゆる点において正当ではない。すべての訴えをここに却下し、各々の仕事に速やかに戻るよう、強く命じる」

判決に打ちのめされたものの、反乱軍は闘争を再開した。ジャック・コンラッドの後継者であるジャック・ジギスモンド・ド・ライナッハ大公司教(別名傲慢 大公とも呼ばれる)は、反乱を鎮圧するため、フランス国王ルイ15世に援軍を頼んだ。

ぺキニャは大公司教の支配を逃れスイスの一州として独立したいと策を練り、代表団と共にベルンを訪れた。しかし、却下され、意気消沈してアジョワに戻る 途中、大公司教の密使にBellelay(ベルレー)で捕らえられてしまった。
ぺキニャはSaignelegier(セニュレジェ)で投獄された後、1740年5月2日、ポラントリュイ城の牢獄に移送された。ここで彼は六ヶ月間取 調べを受け、905もの質問に答えなければならなかった。その結果、検事はぺキニャを反乱と大逆罪によって起訴するのに必要な証拠を手に入れた。ロセ弁護 士の果敢な弁護も虚しく、71歳の老指導者は同年10月26日、死刑判決を言い渡された。首謀者格であるリアとリオンも同判決だった。

10月31日、3人はポラントリュイ市庁舎前にて、首をはねられた。
刑はそれで終わらなかった。ぺキニャの首は故郷のコージョネ村に向けて放置され、体は四つ裂きにされた上にアジョワの各役場入口に吊るされたとも、ポラ ントリュイの四つの門に吊るされたとも言われている。首謀者達の財産は没収され、ぺキニャの息子は重労働の刑に処せられた。


▲現在の市庁舎前
(右手の黄色い建物が市庁舎。処刑21年後に改築)

蜂起は完全に鎮圧され、農民は益々重税に喘ぐようになった。フランス革命の波がアジョワにも押し寄せたことで、1792年に大公司教の支配は終わりを告 げ、フランス国家に属することになったが貧しい土地であることには変わりなかった。若者はナポレオン政府軍に従軍したが、帰郷できた者はほんの僅かであっ た。
ナポレオン没落後、1815年のウィーン会議にてアジョワを含むジュラ地域はベルン州に従属する形でスイス国土として認められたが、一つの州として独立 するには164年もの歳月を待たねばならなかった。

権威に屈すること無く獄中でも最後の抵抗を続け、誇り高く死んでいったぺキニャの歌が二つあるが、現代フランス語で歌われた方の最後の二節をご紹介しよ う。

暴君の気高い犠牲者、ぺティニャ(ぺキニャの俗称)、勇気ある農民
ここで君に敬意を表そう
君の名が時代を超えて受け継がれるように!

恐怖の時代は過ぎた、もう暴君なんか怖くない
常に勇気を持って歩こう
波乱をもたらすのは僕らなのだから!

〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイト  http://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページ

http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/Courgen.htm

http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の2 ジュラのウィリアム・テルになり損ねた男(1)

「アジョワ暴動」と呼ばれるこの事件を語る時、多くの人々は「独裁者バーゼル大公司教による圧政に耐えかねた勇気ある農民の反乱」と捉えがちだが、様々な 資料を見聞すると、ありきたりの「革命賛美」という単純な図式だけでは書き表せないような気がしてきた。
単なる歴史上の出来事として文章上だけでなぞるだけでは物足りず、できればこの暴動の首謀者である男の生涯を、いつかの日かもっと深く掘り下げ、追ってみ たいという思いに満たされながらこの原稿を書いている。


▲コージョネ村役場前に建つ
ピエール・ぺキニャの胸像

「アジョワ受任者のリーダー、自由のために死す」と書かれている。

ピエール・ぺキニャは1669年4月、コージョネ村に生まれ、1700年頃にマリー・マグダレンと婚姻し、子をもうけた。静かに余生を送っても何ら不自 然ではない年齢に達していた彼は、その強靭な肉体と精神力ゆえ、反乱の指導者として祭り上げられることになった。10年に及ぶ抵抗の末、壮絶な死を遂げた 彼は、地方の英雄として今日に至るまで名を残すことになる。

アジョワ地方は「バーゼル司教公国」の一部で、10世紀末よりバーゼル大公司教が政治的・宗教的に直接支配下においていた。
17世紀、アジョワ地方は30年戦争における皇帝軍・スウェーデン軍・フランス軍に踏みにじられ、傭兵の暴虐や略奪、更にはペストなどの伝染病の流行 で、貧窮していた。1726年、ジャン・コンラッド・ド・ライナッハ大公は「秩序と公正を推進し、法・財政をより良く管理する」目的で条例を発布した。複 数の委員会があらゆる商業の場に立ち入り、村々の権限を制限し、水・森林・塩・穀物・主要道路も司教の管轄下におかれた。一見、理不尽なこの条例は、寡婦 や孤児を保護し、貧者に恵みを施す組織をも整えている。

以前より、様々な条例、及び大公・農民間の協定において森林伐採・狩猟・漁獲・鉄や塩の売買については統制されていたが、役人達は法を必ずしも正しく適 用していなかった。そして更なる締め付けとも言える1726年条例によっても不正徴収は続けられ、農民達の怒りは募る一方だった。

農民達の不満を知った大公は彼らの意向を知ろうと1730年1月11日に国民議会(聖職者・貴族・平民からなる)を召集し、自ら演説を行ったが、反乱の 火種を消すまでには至らなかった。
1730年8月1日、アル(Alle)村の役場で集会が開かれ、若い男がある書類の写しを持ち込んだ。それはポラントリュイが75年間だけフランスのモ ンベリヤー伯の領地だった時代(1386-1461)、伯夫人・アンリエットによって授けられ、平民(有産階級)の色々な特権(税徴収の限度も記されてい る)を認める文書だった。この書状が大公司教の住まいであるポラントリュイ城の古文書管理室に「故意に」隠されていたと信じこんだ農民は怒りを爆発させ た。


▲処刑された通りは「ピエール・ぺキニャ」通り
と改められ、名誉回復した。

話はそれるが、このアンリエット夫人は慈悲深き賢貴婦人として庶民に慕われていた。伝説によると天は彼女の死を惜しみ、「Tante Arie(アリーおばさん)」として生まれ変わらせた。アリーおばさんはフランスのフランシュ・コンテ地方からスイスのアジョワ地方にかけて広く出没し、 様々な姿に変装して現れ、クリスマスに子供達におこずかいを配ったり、サンタクロースの如く煙突から登場したという伝承がある。
9月16日、8月の集会のメンバーのうち9つの共同体の代表が集まり、人民の権利を守るための12人の代議士を選出した。その中に、60歳を過ぎても尚 たくましいピエール・ぺキニャ、後にぺキニャと共に処刑されるChevenez(シュヴェネ)村のRiat(リア)、Coeuve(クーヴ)村の Lion(リオン)もいた。

アジョワの各村々は、反乱の旗の下に次第に一致団結し始めた。

ポラントリュイだより: スイスで一番有名なジュラの村~Courgenay

そ の1 村の歴史と伝承


▲村の紋章
金色の足を緑の山の頂に
かけている雁(がん)

ジュラ州・コージョネ村。行政中心地ポラントリュイの東南5kmに位置する。2005年現在、人口2173人。ポラントリュイ市の副都心として、また新 産業区域として発展し続けているが、ジュラ州のどこにでも見かけるような小さな村である。
この村が何故、スイスで一番有名なジュラの村になったのか? そのお話は少し先に延ばすとして、今回はコージョネ村の歴史を追ってみる。

コージョネ村が文献の中に出てくるのは1139年、法王イノセント2世の大勅書の中であるが、紀元前から集落は存在していた。その確固たる証拠が今日 「穴あき石」(La Pierre-Percee)とよばれている巨石である。
高さ2,4m、幅2,3m、厚さ40cmの石には、直径60cmほどの丸い穴が空いている。巨石遺跡はイギリスのストーンヘンジなどに見られるように一 般にはケルト文化と思われがちだが、元々は更に以前の時代より巨石は築かれており、ケルト人は自分達の信仰・神話・伝承を巨石遺跡と結びつけたに過ぎな い。「穴あき石」が建てられた時代は、ケルトの初期民族セクァ二ア文明が栄えていた紀元前3000年頃と推定される。


▲謎の巨石、「穴あき石」(La Pierre-Percee)

この巨石建造の目的は謎に満ちているものの、最近の研究では、この石は集合墓地において、墓碑を組み立てる石の一枚ではないかと見られている。穴は埋葬 品を外から入れるためである、または霊魂の不滅を信じるケルト信仰において魂が出入りするためだとも言われている。標石であるとも、ドルイド(神官)が天 体観測をした穴とも言われている。

何世紀もの間ヨーロッパで勢力を伸ばしていたケルト人も、紀元前3世紀に入ると、次々と敗北するようになった。紀元前58年、ジュリアス・シーザーが ローマ軍を率い、当時ガリアと呼ばれたケルト人の土地に侵攻した。そして、当時セクァニア人の土地を強奪し圧政を加えていたゲルマン人の一民族・スエヴの 長、アリオヴィストの軍勢を破った。
その戦いについて、「ガリア戦記」の中でシーザーは「戦場はライン川より5万歩、ブザンソンより19里」と 書いているが、それは正にコージョネの平原に位置している。内容を信じた人々は、その辺りを「シーザーの野営地」と名づけたが、実際は現在のフランス・ア ルザス地方の町、Ribeauville(リヴォヴィレ)付近と言われている。しかし、ローマ人・ローマ軍がコージョネ村近郊を通ったことは発掘物からも 明らかである。

最後に、ポラントリュイ行政区の旗にも描かれている、下半身が蛇、上半身が鳥という大蛇の伝説をご紹介しよう。
この大蛇は小さな丘の岩場に住み、夜になると水を飲みに下りてきた。その目は宝石でできていて、超自然の能力があり、健康と富をもたらした。大蛇は水の 中に落とさないように、飲む時は目玉を外す習慣があった。


▲「大蛇伝説」の主人公(悪役?)

ある夜、ある農家の召使がこの目を奪おうと、鋼鉄の針を張り巡らした樽の中に入り、大蛇を待ち伏せした。樽には小さな扉をつけていた。大蛇が目を外すと 召使はその扉を開け、手を伸ばして奪い取った。気づいた大蛇は怒り狂い、樽に巻き付いたが、針に刺さって皮膚を裂かれ、大怪我をして逃げていった。
召使は早速その目を持って帰り、足が不自由だった主人を治した。その効力と奇跡はたちまち村人達に知れ渡った。この農民と召使は豪奢な生活を始めた。

しかし、この物語の結末は、めでたしめでたしとはいかない。
ある日、村の代表団がこの豪農を訪れた。中に入ってみると、凄惨な光景が目に入った。大蛇に締め上げられたような形で体が潰された主人と召使が青い顔で 床に転がっていたのだ。村人達は家中を探したが、「目」は見つからなかった。大蛇は自分の財産を取り戻しに来たのである。以後、村人達は決してその目を手 に入れようと試みなかったそうである。
〈参考文献〉
Courgenay-Courtemautruy村公式サイトhttp://www.courgenay.ch/
ジュラ州情報サイト・ジュラネットよりCourgenay村のページhttp://www.juranet.ch/localites /communes/ajoie/Courgen.htm
http://www.juranet.ch/localites/communes/ajoie/autreAjoie/Courgenay/courgenay.html

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