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ポラントリュイだより: ロココ・新古典主義建築様式など ~歴史のうねりの狭間で~


▲ポラントリュイ城の大公司教邸宅部分
窓は18世紀に改築。大きな長方形の窓は切り石ですべて輪郭をつけられ、レゲンス様式であるアーチ型の切妻壁がっている。中には化粧漆喰で帆立貝、動物、バッカスなどが形作られている。

「歴史のうねりの狭間で」と、いうサブタイトル通り、曰くつきの時代。何度も書いているが、ヨーロッパ大国文化の中心から地理的にも経済的にもかけ離れ ているバーゼル司教公国は、流行には遅れがちであった。ようやくゴシックが定着したと思ったら、大国はルネッサンスだバロックだと次々と新しい建築様式に 則った建物を生み出し、ポラントリュイは何年も何十年も後を謙虚に追いかける、という有様であった。それでも、権力者や有産階級者が慌てて流行を追えるう ちは、公国の器に合った小さな幸福を享受できていたと言えよう。
1792年、フランス大革命軍は、ポラントリュイを含む旧バーゼル大公司教区を占領した。封建制度からの解放は、住民が自由と民主主義を謳歌できる体制 へとは、すぐに結びつかなかった。恐怖政治、そしてナポレオンの統治。ナポレオン没落後、スイス国ベルン州への従属。歴史の大波小波は、独立に向けて、住 民の精神を鍛え上げていく。

ごく忠実に建築史に沿っていくと、バロック後はロココ(語源はロカイユ=貝殻模様の装飾)様式となっている。時期的にはフランス王ルイ14世の在位期間 の終わりあたりからフランス革命勃発前まで。そしてさらにロココを二つの様式に大別すれば、オルレアン公フィリップの摂政時代(1715-1723)をレ ゲンス様式、その後をルイ15世様式(1723-74)という。(ちなみにその後はその人生同様、短期間のルイ16世様式。ポラントリュイでは有産階級者 の家の扉や窓などで見られる)


▲旧・中央市場詳細は、第33話・四大「ホテル」その4をご参照に。ちょっと貧弱な体の巨人二人に注目。

権力者の癒しの場として発展した、繊細・華麗にして耽美的なロココ様式は、司教公国に本格的に取り入れられる前に終焉を告げる。
フランス大革命勃発。革命軍到着直前、バーゼル大公司教は国を捨て去った。逃亡生活が老体に応えたのか、2年後、亡命地コンスタンスで無念の死を迎え た。
ロココにはほとんど縁が無く、それに続く新古典主義建築が根付かないまま歴史主義建築の中に埋没していくと、ポラントリュイは身を翻したようにアール・ ヌーヴォーに飛びついた。ポラントリュイで華麗な花を咲かせたアール・ヌーヴォーについては次章でたっぷり述べるとして、ここでは影薄い新古典主義建築物 をご紹介する。


▲JUVENTUTI小学校
ピンク色に壁が塗られ、可愛らしいことは可愛らしいが、「もしかして、これは芝居に見られるようなセットか?」裏 に回と何も無いような錯覚に囚われているのは私だけか?(失礼!)

新古典主義建築とは、18世紀後期に啓蒙思想や革命精神を背景として、フランスで興った建築様式である。革命以前も、農民紛争鎮圧の梃入れを頼んだこと をきっかけとして、フランス王家とより繋がりを深めていた司教公国だが、いかんせん、時期的にはあまりに短期で、しかも続く革命の動乱と恐怖政治の最中、 流行に沿った新しい建物を建てる余裕はなかったようである。革命前・大公司教の権力の絶頂期、写真(上、2枚目)のようなバロック建築の中央市場の東壁に 取り入れられたぐらいである。
三角形の切り妻壁の中には、棍棒を持った二人の巨人が腰掛けている。この豪奢な建物は、革命軍に占拠され、その後、1年足らずの革命政府ローラシアン共 和国国民議会場→フランス共和国モン・テリブル県庁→ナポレオン政府下のオー・ラン県郡庁が置かれ、皮肉にもフランス支配体制の象徴的建物となった。ま た、ベルン政府下では裁判所と警察があり、常に権力と結びついてやまない数奇な運命をたどった。現在、州立図書館・古文書図書館・古生物学&考古学研究所 が置かれ、名実共にジュラの知的象徴たる建築物となったことは、誠にめでたい。
革命・ナポレオン時代を経て90年。JUVENTUTIという学校が新古典主義様式で建設された。この建物は現在でも幼稚園・小学校として利用され、次 女が二年間お世話になっている。改築はされているが、複雑に入り組んだ造りで、広いとはいえない中庭もあり、小学校というよりは当時のお屋敷という趣であ る。

さて、新古典主義とアールヌーヴォーの間に位置する、便宜的とも言える様式に歴史主義建築(折衷主義様式ともいわれる)がある。新古典主義建築では古代 ギリシア・ローマの建築が理想とされたが、19世紀になると中世のゴシックや近世のルネッサンスが再評価され、過去の建築様式のリヴァィヴァル運動が起 こった。写真の、改革派教会(プロテスタント教会)はネオ・ゴシック、現在はアパートとして複数家族が住む建物(1905年建設)は、ネオ・ルネッサンス と位置づけられる。

これは私的な感想であるが、「新、ネオ」様式はいずれにしても過去の踏襲なので、嘘っぽいといか、本家に比べればどことなく重厚味に欠けるような気がす る。日本の娯楽施設で、突然、ローマ神殿風の内装に出くわした時の気持ちと似ているかも知れない。


▲プロテスタント教会は、すっきり爽やかなネオ・ゴシック様式
おどろおどろしい中世暗黒時代の教会のような貫禄は無い。

▲私の家から目と鼻の先、元々は歯医者のために建てられた大邸宅だが現在はマンションとして数家族が暮 らしている。
Last Update: Nov.23,2007

ポラントリュイだより: バロック建築様式《その2》

理屈無しに心和む瞬間がある。遠出をしていて、夕刻、または夜遅くなってポラントリュイに帰る時。電車、あるいは車の中にいる私に向かって、ポラント リュイの街影よりも先に微笑みかけてくれるもの。それはオレンジの光に照らされて闇の中に浮かび上がる城であり、サン・ピエール教会である。この光景を見 る度に、「故郷に帰ってきた」という思いに瞼を熱くする私である。
その時刻、サン・ピエール教会の少し南側に、少し控えめに光を放つ塔がある。それが、今回ご紹介する旧イエズス教会である。この教会に隣接する、 1591年に創設されたイエズス修道会カレッジについてはまた別の機会にご紹介するとして、1597年に礎石が築かれた教会の内部バロック様式部分につい て述べたいと思う。


▲大公司教
Jacques-Christophe Blarer de Wartensee
異例の、33歳という若さでバーゼル司教に任命され、
司教公国の改革に尽した

▲旧イエズス教会内のパイプオルガン。オルガニストなら、誰でも一度は弾いてみたいと思う「名器」

天井には、聖母マリア亡き後の世界が化粧漆喰によって見事に描かれている。「聖母の棺が空になっている のを発見して大騒ぎする十二使徒」、手前が「昇天する聖母」

▲壁や柱の見事な化粧漆喰細工
枠内の白い部分には元々何も入っていなかったそうだ。フレスコ画を入れたかったのか?司教達の意図は謎 だが、フランス革命軍の到着によって、すべての装飾は途絶えた。

▲壁の下半分、フレスコ画が削り取られている
中二階があり、19世紀には本棚が置かれていたそうだ。現在は旧教会は多目的ホールとして生まれ変わり、ポ ラントリュイの文化普及に貢献している

カトリック勢力の復興に情熱を傾けた大公司教Jacques-Christophe Blarer de Wartensee(在位期間1575-1608)は、今日においても「大公の中の大公」と呼ばれ、秀逸な大公司教と評価を受けている。彼はただプロテス タントへの嫌悪を剥き出しにして町のカトリック色を強めたのではなく、火災で破壊された城の修復(公国統治の足場固め)、スイス国で20番目の印刷所(政 教関係の書類や書物の印刷)、そして優秀な修道士・司祭の育成を目的としたイエズス会カレッジといった重要な施設の建築、公国内数箇所の製鉄所の創設を成 し遂げ、ポラントリュイ、そしてバーゼル司教公国の復興に努めた。
Blarer de Wartensee司教は、「貧困は勉学の妨げになってはならない」と奨学金制度を設け、貧しい家庭の学生をも積極的に援助した。その精神性が反映して か、イエズス教会の内部は、司教専用の教会にもかかわらず、建築当初は非常に簡素なものであったと伝えられる。
彼の死後、ペストの流行(1610-1634)で、20年余りもカレッジは閉ざされていた。その後、30年戦争により、カレッジごとフランス軍による占 領を受けた。授業は1639年に再開されたが、ほぼ30年のブランクにもかかわらず、イエズス会カレッジは黄金時代を迎え、国内外で高く評価された。

1678年、公国が比較的安定している時期、Jean-Conrad de Roggenbach(そのため、「幸福な大公」というあだ名がある。在位期間1656-1693) 大公司教は、30年戦争による砲撃や占領で被害を受けた教会の改築に着手した。シンプルだった内部は、豪華なバロック様式へと、大幅な変貌を遂げた。
前回でも少し述べた、バイエルン地方の化粧漆喰専修学校Wessobrunnの教師にして名工、Michael Schmutzerを招き、1年かけて天井一面に化粧漆喰を施した。1701-1703年の間、天井部分は化粧漆喰細工で描かれた聖母の生涯で飾られた。
豪華さを増したイエズス教会は、1892年に押し寄せてきたフランス大革命軍により再び占領された。革命中は「理性の聖堂」と呼ばれたが、内部は荒らさ れ、やがて軍用商店となった。1796年にはフランス共和暦旬日の礼拝所、19世紀にはプロテスタントの礼拝に利用された。革命の火が収まると、建物は体 育館として利用され、中二階部分は図書室となった。

1962年から1965年にかけてバロック様式に修復され、中二階をなくし、ギャラリーを復元した。そのギャラリーには、1985年、18世紀のオルガ ン(複製)が置かれた。このオルガンのオリジナル、Glauchauは、1730年にGottfried Silbermannによって製造され、お披露目式典には、かのJ.S. バッハも来たという。高度な音色を含めて、このオルガンの復元に成功した人物はJürgen Ahrend(1930年生)である。日本のオルガン奏者の間でも名高いこの樫製のオルガン、ヨーロッパ各地からわざわざCDの録音に来る音楽家もいる。 たっぷりとした厳かな音色は、聴く者を、バッハが生きたバロック全盛時代に連れ戻してくれると言っても過言ではない。

現在、この旧イエズス教会はジュラ州立高校付属ホールとして、音楽会や講演会など、様々な用途に利用されている。コンサートや観劇などで何度か足を踏み 入れている私も、入場の度ごとに天井や壁の装飾に目を奪われずにいられない。近代的なコンサート会場に無い重厚な雰囲気に飲まれ、音と共に、古の司教公国 への想像の旅が始まる……それが、私流の楽しみ方の一つでもある。

ポラントリュイだより: バロック建築様式


▲1978年のサン・ピエール教会
修復前の内陣。こてこてのバロック様式だった

▲修復後(現在)の内陣
簡素だが、むしろ心安らかな気持ちになる

▲1768年、宮廷おかかえ建築家Paris氏
により設計された有産階級者の館
各窓やドアにはこのような装飾用要石がついている。どうやら、所有者は向かいに建つ大公司教が建設した中央市場の窓飾りを羨ましく思って、注文したらしい。

▲1761年建造・旧病院の窓・扉の飾り
この時代、為政者・権力者・スポンサーの顔に似せた天使の顔のモチーフが絵画や彫刻に盛んに用いられ た。(だから天使の顔が可愛くないのだ・・・陰の声)

▲ポラントリュイ城内・Roggenbach大公司教のチャペル
司教の紋章入りアーチ型天井の、凝った化粧漆喰

▲中世都市サンチュルサンヌのコレジアル内
後陣のだまし絵は1622年製

バーゼル司教公国において、ゴシックとバロック建築の間に入るはずのルネッサンス建築がほとんど見当たらない、あるとすれば扉の装飾や泉のような部分装 飾・小型建築物だということは前回の章で述べた。今回述べるバロック建築は、ルネッサンス期の遅れを取り戻すかのように、この山がちな小国で大きく花開い た。
第29~33話まで、ポラントリュイの四大「ホテル」=公共建築物について述べたが、それらの建物は正にこの時代を象徴している。10年に渡った大規模 な農民騒動を、フランス王の力を借りて鎮圧した司教は、権力を見せつけるかのように、巨大な館を次々とポラントリュイ市の中心地に建てた。これらの建物に ついてはこの5話を読んでいただくとして、ここではその他の荘厳・華麗な部分装飾について述べる。

16世紀の初頭から中期、宗教改革が猛威を振るい、聖像・聖画、時にはカトリック教会も破壊された。中期以降、イタリアに集結したカトリック勢力による 反宗教改革が起こり、教会の勢力が盛り返した。芸術もしかり、教会や王にとって代わっていたルネッサンス期の大パトロン、市民(力のある有産階級)が再び 教会や王という権威者にリーダーの座を譲ることとなった。そのようなヨーロッパの世情から考えると、バーゼル司教が敢えてルネッサンス建築を追いかけな かったのは、流行から遅れた田舎というだけでなく、「ルネッサンスなど俗なこと」という絶対権力者としての誇りがあったからではないだろうか、という邪推 もできるのである。
バロック、という言葉自体、何やら重厚で荘厳な響きがあるが、実は皆様も知っての通り、語源はポルトガル語の「歪んだ真珠」と言われている。ルネッサン ス時代の端正ですっきりした形よりも、楕円の平面や捻れ柱のような歪んだ形、動きのある形が好まれて使われ、爛熟期には過剰とも言えるほど装飾過多になっ たところを、悪趣味で下品な様式と揶揄または批判して使用した言葉だ。実際、ポラントリュイにあるサン・ピエール教会を改修前(バロック様式)と改修後 (なるたけ建設当時に近い様式、つまりゴシック)を比べてみると、明確である。飾り立てられた祭壇・内陣付近は、「誇張」とも言える派手さ・重々しさが白 黒写真でも伝わってくる。

また、この時代は、感受性を重んじ、驚嘆させる意図から、目の錯覚を多用した芸術を内部装飾に用いた。実はそれほど広くない教会の後陣部分も、写真の通 り、手すりやギャラリーを描くことで少しばかりの奥行きを感じさせるのである。

18世紀の半ば頃からフランス大革命まで、ポラントリュイは全盛期を迎えた。バーゼル司教の地位は揺るぎないものであったが、有産階級市民も自らの邸宅 から古臭いゴシック様式を排除し、流行のバロックに染まった。このため、旧市街の窓々は、上板が真っ直ぐに直され、更に金のある者は、凝った彫刻の要石で 窓を飾った。
内装に関しては、この時代、化粧漆喰による天井・壁の装飾が流行りに流行った。化粧漆喰はイタリア語のスタッコから来た言葉で、フランス語では ” stuc “。石灰に水を混ぜると熱を発して粉末状の「消石灰」を生じる。そこに粘土粉、大理石粉、砂、顔料を混ぜて練る。この材料を使って複雑に絡んだ草花や貝な ど、様々な形をもって飾り立てたのである。写真にある、「Roggenbach司教のチャペル」の天井は、1678~79年頃、バイエルン地方の Wessobrunn学校で化粧漆喰細工を教えるMichael Schmutzerの弟子達によって作られた。この学校出身の化粧漆喰工は引っ張りだこで、スイス各地の教会などの化粧漆喰を担当した。

建築史の順番から言えば、次はロココ(初期=レゲンス様式、盛期=ルイ15世様式)、そして新古典主義と続くが、これらの様式は同時代内に入り乱れてお り、境界が定かでない。また、バーゼル司教公国に限って言えば、芸術様式を楽しむどころでない、大きな歴史のうねりに巻き込まれてしまった。
1792年にフランス大革命軍がポラントリュイに到着した。バーゼル司教公国最後の司教・Joseph-Sigismond de Roggenbachは軍の到着直前に逃亡、Bienneを経てConstanceにたどり着いた。彼はその地で失意のうちに亡くなり、999年から続い たバーゼル司教公国は消滅した。

「フランス王朝と結託して農民を苦しめ惨殺した」かどで「革命の敵」と見なされた公国権力者の館は革命軍に没収された上、町の各地で建物が破壊された。 民主主義が、蛮行により歴史上に汚点を残したことを、非常に遺憾に思う。
ポラントリュイを含む現在のジュラ州は、革命軍が勢いで作った束の間のローラシアン共和国、恐怖政治がはびこった新生フランス国への従属、ナポレオン統 治時代を経て、1815年ウィーン会議が下した併合法令で、ベルン州に属する形でスイス国に組み入れられた。

華やかなバロックは遠い昔の話になったが、落ち着きを取り戻したポラントリュイは、不死鳥の如く蘇り、19世紀半ば過ぎから文化的・経済的に飛躍を遂げ るのである

〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)

ポラントリュイだより: ルネッサンス建築様式


▲スイスの泉(別名バナレット騎士の泉)
一見、傲慢に見える騎士像であるが、脚の間にイノシシ像を置いたことで、おとぎ話のようなほのぼの感を 醸し出していると思うのは私だけであろうか?

▲サマリア人の泉
肥満気味の洗礼者ヨハネ像と対照的にキリストとサマリア女性の姿・全体の塗装が美しい。

▲やっぱりちょっと傾いている?「Béchauxの館」この家一軒にポラントリュイ旧市街の生死が関わっている?

▲ポラントリュイ城に数ある門の一つ切り妻壁の中のレリーフは海の生物?かと思ったら資料によれば「バラの花」らしい・・・。

「建築様式で追うポラントリュイ」シリーズを再開するため、ゴシック後、ヨーロッパ建築史で当然の流れとなるルネッサンスに取り掛かろうとした。ところ が、タイトルをつけてはたと困った。実は、町のあちこちにしぶとく残るゴシック建築、バーゼル司教公国全盛期・ポラントリュイ華やかりし時代のバロック建 築の間に入るはずのルネッサンス式建築物が、見当たらないのである。
バーゼル司教公国に於いては司教が絶対君主であり、富も権力も握っていたが、有産階級市民(ブルジョワ)もまた、中世より町の運営を牛耳っていた。しか し、一部の人間がいくら小金をちゃらつかせたところで所詮田舎の小国。流行からは優に何十年も遅れがち。やっとこさ取り入れ、身のほど(=予算)に合った 建物をこしらえても、様式は時代と共にどんどん移り変わっている。ポラントリュイには「後期ゴシック」と呼ばれる様式の建築物や窓枠などが多いが、それは お隣の国々がとっくにルネッサンスまたはバロックに走っている頃に、細々と過去のゴシックを踏襲していたからである。

ルネッサンスとは「再生」。15世紀、商工業が栄え豊かな富を蓄えるようになったイタリアのフィレンツェで始まった動きである。合理性と教養を身につけ た商人は、ローマなど古典文化を再発見しつつ、新しい時代の建築物に取り入れた。古代の模倣というより、「再生」という名の新しい創造物だった。1400 年代から1500年代に渡るルネッサンスは、大きく3つの時期に分けられる。フィレンツェを中心とする勃興期である15世紀の初期ルネッサンス、ローマに 各地から人が集まった16世紀初頭1530年頃までの盛期ルネッサンス、そしてそれ以降16世紀末期までのマニエリスムの時代である。このマニエリスムの 「マニエラ」とはイタリア語のマニエラ(maniera)= 手法・様式に由来する。ルネッサンス盛期の明快で調和が取れた表現ともバロックの躍動感溢れる表現とも異なっている。
私は建築の専門家ではないので美術史はこのぐらいにして、ポラントリュイに僅かに残るルネッサンス様式を紹介する。

1564年完成の「サマリア人の泉」には、イタリアルネッサンスとドイツバロック様式が混在する。聖書の中にある物語の有名な一場面、キリストと良きサ マリア人の対話である。ユリの花で装飾された柱の上には何故か子供の姿の洗礼者ヨハネが十字架と町の紋章のある盾を持ち、地球の上に足を置いている。実 は、この柱は複製。オリジナルは市庁舎の一階ホールにあるが、複製と違って塗装されていないため、地味で人目にはつきにくい。
この二つの泉と「黄金玉の泉」を合わせてルネッサンス期・三大泉と称し、作者はすべてロラン・ペルー・ド・クレスィエ(Laurent Perroud de Cressier)である。Cressierとはスイス・ヌーシャテル州の町の名前であるが、実際、彼はその近郊の町Le Landeron出身。時代の寵児とも言え、スイス各地の数多くの泉を建造した。ヌーシャテル旧市街にある「騎士」と「正義」の泉も彼の作品である。

ピエール・ぺキニャ通り32番地(通りに名を残すこの男については第20,21話の「ウィリアム・テルになり損ねた男」をご参照に)、「Béchaux の館」自体はゴシック式、1570年建造と伝えられている。正面扉には後期ルネッサンス式の彫刻が施されている。長方形の板の部分には、最初の所有者 Verger家かフランス革命前の所有者Grandvillers家の紋章があったはずだが、革命軍が町を荒らした際、金槌などで叩かれて破壊されたらし い。このように、町の端々に、革命軍の暴虐は歴史的遺産の破壊という形で今も残っている。現在、家はなめし革業者Béchaux家所有だが、実際に所有主 は住んでおらず、時々休暇にやって来るだけらしい。この家が崩れれば、この通りに連なる家すべてが将棋倒しに崩れるという恐ろしい噂がある。何とか持ちこ たえてくれればいいと願うばかりである。

最後に、現在は州司法施設(裁判所や留置場など)が入っているポラントリュイ城にあるルネッサンス式の門をお見せする。建物自体はゴシック、一部はバ ロックである。この門を入ると、ゴシック式のらせん階段が延びているが、細部装飾はルネッサンス式である。

ポラントリュイにおいてルネッサンスが導入された部分は建物ではなく、主に彫刻などのディーテールばかりである。これは私の想像に過ぎないが、町自体 が、ルネッサンスを受け入れる精神的・経済的余裕がないまま、次の大きなうねり、バロックという流行に飛びついたと取れないだろうか。次回の連載では豪奢 なバロック式建築物をご紹介する。

〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)

ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《最終回》


▲ボンフォル村内にある聖フロモンの像

▲聖フロモン像の下から湧き出る泉
昔は飲料水として村人の生活に欠かせなかったが、バーゼルの製薬会社がこの村の郊外に産業廃棄物を投棄し たことから、化学物質が検出されるようになった。” EAU NON POTABLE “(飲料水ではありません)というパネルが。

▲「ジュラ鉄道」
現在もポラントリュイ⇔ボンフォル間を往復する

▲1919年に焼失してしまった瓦製造工場

▲フェリシタス・ホルツガングさん
ボンフォル村の陶器博物館内での実演。隣の美貌の農夫は勿論、マネキン人形です

▲現在のMPS A.G.の建物
小さなボンフォル村で製造された極小パーツがアポロ号と共に月に到着!快挙と言わずして何だろう

▲Louis Chevrolet
20世紀初頭、カーレースで大活躍し、日本語では「シボレー」と呼ばれる車を開発した。意外や意外、戸 籍はBonfolにある!この苗字の方は現在もジュラに数多くいる。

霊験あらたかという言葉がある。
ボンフォル村では聖フロモンという聖人の伝承が今も尚、人々の生活に息づいている。国境近くにあるがためにし ばしば他国の蹂躙に怯えた挙句、経済危機の影響をモロに食らった小村の民は、知らず知らずのうちに、霊験に縋らずにはいられなかったのかも知れない。
聖フロモン(Saint Fromond)は、バチカンによって列聖はされておらず、文献も残っていないが、数々の伝説や奇跡が言い伝えられている。 別名「放浪の聖人」とも呼ばれている、アイルランド出身のフロモンは、仲間二人と旅をしていた。ドレモンとポラントリュイの間にあるLes Rangiers峠近くでそれぞれが杖を投げ、落ちて指した方角に向かった。そして行き着いた先を終の棲家と決め、放浪から定住の生活を選んだ。ちなみ に、他の二人こそ、その名を地名に残す聖ウルザンヌ(St-Ursanne、アイルランド人)と聖イミエ(St-Imier、現在のジュラ州Lugnez 村出身、二人の案内役だったのか?)である。

フロモンは泉が湧き出ているところに庵を結んだ。土に杖を刺すと根が張り、樫の木が生えたと伝えられている。間もなく彼の庵の周りには人が移り住み、集 落を形成していった。
伝説によるとフロモンは105歳まで生き、人々の信頼と崇拝を集めていたが、ある日泊めた二人の放浪者に殺されてしまった。(恩を仇で返すとはこのこと か)しかし、聖フロモンへの信仰は千数百年を経ても途絶えることはない。人々は動物の守護聖人と崇め、家畜が病気になると聖フロモンの泉の水を飲ませた り、その辺りの草を与え、治癒に漕ぎつけたと言われている。1793年には悪魔に取りつかれた女性の前に現れ、お払いをしてくれたという伝説がある。

聖フロモンが見守るボンフォル村は、第38話にも書いたように、決して平坦な道程を歩んでいない。しかし、この村にも繁栄を極めた時期はあった。20世 紀初頭(ポラントリュイを含むジュラの産業が栄えた期間、いわゆるベル・エポックとも一致する。第15、16話駅物語をご参照下さい)には人口は現在の約 2倍もいた。大きな理由の一つに、鉄道の発達が挙げられる。1901年、ボンフォルはポラントリュイと鉄道で繋がった。1910年までにはドイツ帝国支配 下のアルザスの村、Pfetterhouseまで線が延びた。(1970年に国境を越える部分は廃線)

前章にも述べた陶芸業は、家内産業としては19世紀が頂点だった。陶芸職人の妻が藁を積んだ手押し車に陶器を詰め、スイス各地に行商に出かけていた。 1830年の統計では村民の約半数が陶芸業に関わっていた。1920年以降、陶器産業はマニュファクチャー化された。つまり大きな製作所にて粘土の採掘・ 運搬・陶器の製造・窯専門の職人、という風に分業化されたのだ。
粘土を使った瓦は非常に重宝されたが、1919年に工場が焼失したことにより、途絶えた。現在でもボンフォル村や周辺の市町村の古い家屋のほとんどにこ の瓦が使用されている。
CISAという会社は、粘土を使用した装飾用タイルを全世界に輸出していた。東京の地下鉄通路には一部、この会社のタイルが使用されている。しかし、古 来より採掘し続けられてきたため量が激減した粘土採掘にはコストがかかるようになり、外来の粘土が使われるようになった。会社自体は残念ながら1999年 に倒産した。

粘土減少により、陶器製造工場は次々と閉鎖され、現在では第37話にも登場したフェリシタス・ホルツガングさんお一人が村の陶芸職人として活躍中であ る。
何もかも下火になってしまったようであるが、村は試行錯誤しながらしぶとく生きている。R.M.B.というボールベアリング製造の会社は買収されて MPS A.G.と変名したが、その後も高技術を誇る会社として存続している。ここの製品は、月に着陸した、あの宇宙船アポロ号に搭載されていた。その他にも、時 計ケース製造工場や漂白工場、製材所などの産業がある。第38話に述べた池は、四季を問わず、観光客の憩いの場である。

ジュラ在住15年という歳月は、私を完全なジュラびいき、いや、筋金入りのジュラ女性=ジュラシエンヌに変えてしまったようだ。ボンフォル村に親しみが 湧くに連れ、私なりのやり方(陶器の紹介、観光客誘致など)で応援したい気持ちが高まりつつある。

〈参考資料〉
Bonfol村公式サイト : http://www.bonfol.ch/
MPS A.G.公式サイト : http://www.faulhaber-group.com/

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