母性の日々、そして二度目の妊娠・出産

2010年2月28日

12月6日は聖ニコラの日。スイスの子供達には、聖ニコラが良い子にプレゼントを持ってきてくれるこの日の方がクリスマスよりも重要かも知れません。 ジェシカは7日に決まっていた帝王切開日ではなく、自分で6日を選んで生まれてきました。娘の誕生は、子供から親へと脱皮した私への、神様からのプレゼン トなのかも知れないと思えてなりません。

初めての子を授かった私は、絵に描いたような「親バカ」になりました。ジェシカの辞書に「むずかる」という文字は無く、朝も昼も夜もベッドに入れれば スースーとよく寝てくれました。 「早く起きてくれないかな~」または、「まさか窒息死なんてしていないよね?」と、何度も子供部屋をそっと覗いてみました。彼女が寝ている間は、家族や友 人にせっせと手紙を書き、赤ん坊のいる生活がいかに楽しいかを綴りました。 「世界で一番可愛い!」と有頂天の私が叫ぶと、夫は冷静に「そりゃジェシカは可愛いけど、世界で一番ってことはないと思うよ」・・・ですって。でも、親に とって子は世界に二つと無い宝なのです。せめて家の中ではそう言わせて下さい。


▲ジェシカ生後6ヶ月
この笑顔にメロメロだった私。
ハイハイと伝い歩きを同時に始めた頃。

子供と散歩したり、公園に行くことで、町のお母さん達とも交流が始まりました。外国人が土地に溶け込む助けとなる要素に、安定した仕事を持つことやクラ ブ・ボランティアなど地域レベルでの活動に参加することが挙げられます。 私の場合、根本的な支えは家族です。出産以来、新たな交流が生まれるに連れ、子供を介してしっかりとスイスに根を下ろしつつある自分を実感しました。

ジェシカが二歳の誕生日を迎えて間もなく、二度目の妊娠。ところが、今度の発覚は「出血」から始まりました。「流産の可能性があるからすぐに入院して下 さい」病院でそう言い渡された後、泣きながら運転して帰宅しました。 (今思えば事故を起こさなくて良かった)そう言えば、疲れやすく、自我が芽生え始めたジェシカの行動にイライラしがちな毎日でした。次の日、ジェシカを夫 の実家に預け、入院しました。第一子を授かってウキウキしていた前回と違い、 小さな命を奪われるかどうかという瀬戸際の入院は重苦しいものでした。私は「絶対安静」を強いられ、ベッドから一歩も降りてはいけないと言われました。


▲無事に次女リサを出産
二人の娘の出産時間は 共に午前6時半過ぎでびっくり。
写真は退院日の朝です。

入院中、同室の女性達が私の心を和ませてくれました。向かいのベッドには三十代の女性ミッシェル。妊娠と同時に子宮筋腫が見つかり、しかも筋腫は胎児の 成長と共にどんどん大きくなっているということ。 切除手術の際に胎児が助かるかどうか不安一杯のはずなのに、彼女はいつも陽気で、私を励ましてくれました。斜め前のベッドのおばあさんは腕を骨折。声高に 痛みを訴えることは皆無で、謙虚で穏やかな方でした。
数日後、超音波検査の為、別室に呼ばれました。そんなちょっとした移動も「車椅子」です。黒い画面に子宮の内部が映り・・・あるものが認められました。 「胎児は成長しています。大丈夫、ちゃんと生きていますよ」 それからはもう涙で何も見えませんでした。

おばあさんは退院し、ミッシェルの子宮筋腫除去手術は大成功に終わり、私達はそれぞれの生活に戻っていきました。おばあさんにはその後お会いしていませ んが、ミッシェルは現在、四女の母です。 たまにスーパーで会いますが、子供四人を引き連れたその姿は「たくましい!」の一言です。

退院後、私はすぐに元通りの体になったわけではなく、二週間ほど安静にしていなければなりませんでした。その間、老人・病人の自宅介護を専門とする女性 が家事を担当してくれました。費用は保険会社が負担。さすがプロの彼女は掃除、洗濯、アイロン等を限られた時間内に効率良く片付けました。彼女のアイロン 中によくお話しましたが、感じの良い方でした。また、自腹を切りましたが、食事配達専門業者にお願いし、病院で出す食事を毎日正午に持ってきてもらいまし た。ポラントリュイ市の病院には優秀な料理人がいると思われ、毎日メニューが変わり、味もちょっとしたレストラン並だと付け加えましょう。
こうして、周囲の人々に助けられながら、97年11月27日に次女リサを普通分娩で出産しました。