【275回】11月「ほとんど『隣の国』フィンランドあれこれ」

 

 

Ⅰ.日時 2025年11月19日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 55名
Ⅳ.講師

篠田 研次さん@84期

日本シンガポール協会 顧問、イースタン・カーライナー株式会社 顧問、日本郵便株式会社 監査役、一般社団法人 霞関会 顧問

 

1976年 3月 京都大学法学部卒業

1976年4月  外務省入省

1979年 6月 ハーバード大学大学院卒業

1990年7月  在米国大使館一等書記官

1993年7月  在ロシア大使館参事官

1995年7月  中近東アフリカ局中近東第二課長

1996年 7月  欧亜局ロシア課長

1999年10月 在ロシア大使館公使

2002年9月  条約局審議官

2003年8月  欧州局審議官

2005年8月  総括審議官

2006年8月  在シカゴ総領事

2008年4月  駐米国特命全権公使

2010年8月  国際情報統括官

2012年9月  駐フィンランド特命全権大使

2016年2月  駐シンガポール特命全権大使

2018年10月 外務省退官

2018年11月 一般社団法人 日本シンガポール協会 顧問(現任)

2018年12月 イースタン・カーライナー株式会社 顧問(現任)

2019年4月  東日本旅客鉄道株式会社 顧問

2021年6月  一般社団法人 霞関会 理事長

2023年6月  日本郵便株式会社 監査役(現任)

2025年6月  一般社団法人 霞関会 顧問 (現任)

 

Ⅴ.演題 「ほとんど『隣の国』フィンランドあれこれ」
Ⅵ.事前宣伝 1980年代初頭にモスクワで駆け出しの外交官として過ごしていた頃に初めて触れたフィンランド、そして、2012年から2016年にかけて3年半にわたり大使として過ごしたフィンランド・・・・その間に見聞きしたことを中心に、日本との間の国民レベルの相互親近感はどのように醸成されてきたのか、北極を巡る協力は有望ではないか、独立100年余りの若い国であるフィンランドは如何に厳しい国際環境の中で生き抜いてきたのか、そしてロシアによるウクライナ侵略はフィンランドの人々にとっては自分事として受け止めざるを得ない衝撃的な出来事であったのではないか、等々にわたり「あれこれ」語らせていただければ幸いです。
Ⅶ.講演概要

はじめに

2018年末に最後の任地となりました駐シンガポール大使としての勤めを終えて帰国しまして、足掛け43年に亘る外務省生活を終え退官致しましてから既に7年となりました。現役でおりました43年の間は、東京と海外の任地との間を行ったり来たり致しまして、約半分は東京、他の半分は海外で過ごしました。海外はフィンランドとシンガポールにおける大使としての6年間が最後の勤務となりましたが、その他には、アメリカが3回、計9年、ロシアが3回で、計8年でした。

 

 

フィンランドとシンガポール:「小粒でもピリリ」

そういうことで、最後の転勤は、フィンランドからシンガポールということになった訳ですが、北の北極圏から南の赤道直下へということで緯度にして60度余りの「移動」になりました。常夏のシンガポールでは、一年を通じて気温は概ね30度前後で、真夏の日本に比べるとむしろ涼しく感ぜられるくらいです。赤道直下ですから、毎日朝7時に日が昇り、夕方7時に沈みます。一年中こうですから、「日が長くなりましたね」とか「あの頃は寒かったですね」といった会話は全くない訳で、言わば「単調な快適さ」を味わっておりました。これに対してフィンランドは、言ってみれば「メリハリの利いた快適さ」ということになるのでしょう。国土は、日本よりやや小さいのですが、北緯60度から70度にかけて南北に長く、北半分は北極圏になります。ご案内の通り、冬は、寒いことは兎も角、「暗い」訳で、北の方ではずっと夜ということになります。夏はこれと逆のことが起こる訳で、ずっと明るく、北の方では太陽が殆ど沈まないということになります。気温の方は、ヘルシンキでは、夏は概ね20度から25度で、「快適」極まりないのです。私共も、ヘルシンキにおりました時には、エアコンは全く不要で、「暑い」ということを全く感じないまま一夏過ごしておりました。もっとも最近は温暖化で少し暑くなっているのかもしれません。

なにせ日が長いものですから、例えば、ゴルフもやろうと思えば一日何ラウンドもできる訳です。日本と関係の深いフィンランド企業からなるフィンランド日本商工会議所という団体があります。この団体、毎年夏に親善ゴルフ・イベントを開催しておりました。2015年の夏ですが、今年は「ミッドナイト・ゴルフ」にしようということになりました。夜11時スタートで、午前3時か4時に終わる訳です。と言っても、ヘルシンキ辺りのフィンランドの南の方では流石に午前1時前後は少し暗くなります。そこでそのコンペで用意されましたのが、「フラッシュ・ボール」という、引っ叩くと光る特殊なボールでした。林やラフに落ちてもパッパッと点滅しています。むしろ昼間よりもボールの位置がよく分かるのです。フィンランドならでは、の思い出です。

 

ところで、このように遠く離れたフィンランドとシンガポールですが、両国に続けて駐在致しまして、両者の間には意外と共通点があることに気付かされました。人口は、それぞれ500数十万。一人当たりの国民所得は、それぞれ5万ドル、8万ドル余りということで、日本より相当高く、豊かです。教育レベルの高さは双方ともトップレベルです。両国とも技術力、特にニッチな分野での先端的技術力、には定評があります。清潔で衛生的で、安全で安定した社会といった点も似ています。フィンエアーとシンガポール航空と言えば、双方ともサービスやビジネス戦略のレベルは高く、日本との関係も密接です。また、安全保障の面でも共通点があります。両国とも徴兵制を維持しています。この国民皆兵の基本については、双方とも国民的コンセンサスに裏打ちされておりまして、これを疑問視する声は殆ど聞かれません。総じて言えば、「小粒でもピリリ」の国柄というのがフィンランドとシンガポールの共通点である、と申して良いのではないかと思います。

 

親日国フィンランド:「ほとんど隣の国」

さて、フィンランドという若い国が、2017年に独立100周年という節目を迎えたことは誠に感慨深いことです。フィンランドは、数世紀に亘りスウェーデンの一部であり、その後の一世紀は帝政ロシアの一部であった訳ですが、1917年のロシア革命のさなかに独立を果たしました。よく指摘されることではありますが、フィンランドの独立の機運を醸成することとなった一つの要素として、日露戦争における日本の勝利がありました。極東の新興国である小さな日本がロシア帝国という大国を打ち破ったことが、自分たちもできるのではないかという気持ちをフィンランド人に抱かせることになった、という訳です。フィンランドの人たちのレーダースクリーンにこれまで意識しなかった極東の小国「日本」という点が、ポンと乗ってきた瞬間であったのかもしれません。それ以来現在に至るまで、フィンランド人は大いに親日的です。その「親日」のレベルは、欧州の国の中でも際立っているような気がします。

日本人にもフィンランド好きが多く、そのことは作曲家のシベリウスや、アラビア、イーッタラ、マリメッコといったフィンランド・デザインやトーベ・ヤンソンのムーミンの人気にも現れています。この数年間にも、日本にはこれらフィンランド・ブランドの店が更に増えてきているという印象を受けています。因みに、ムーミン人気の高さは、フィンランド国外では世界で日本が圧倒的だそうです。要するに、日本好き、フィンランド好きというのは相互的なのだと思います。

フィンランドに駐在しております時にも彼らの親日的姿勢は日々感じるところでした。私自身、フィンランドの人達からよく言われたセット・フレーズがあります。「フィンランドと日本は『ほとんど隣国』です。間に『小さな国』が一つあるだけです」と。本当によく言われました。先程申し上げた日露戦争のエピソード、そして、スターリンのソ連との関係に苦しんだフィンランドと日本が、それぞれの体験を通して相互にシンパシーを持ち合ったということがあるのかもしれません。日本とフィンランドの相互関係を規定する枠組みの中に「ロシア」という地政学的要素が介在していることはほぼ間違いないところと思われます。第二次大戦後もソ連軍の侵入を受け今も北方領土問題を抱える日本、そしてソ連軍との激戦の末多くの国土を失い、その後も長く1300kmの陸上国境でソ連、そしてロシアと対峙し、その圧力を受けてきたフィンランド。ですから、日本人とフィンランド人の間には、自覚的であるかどうかは別として、この「ロシアを東と西から挟み込んでいる関係」にあるという共通の意識が底流としてあるのではないかと思います。

 

ソ連・ロシア:「1300kmの陸上国境」

「国境」というものが齎す様々な状況、影響、事象を調査し研究する「国境学」というのが日本でも一つの学問の領域として近年定着してきているようです。フィンランドの場合、この1300kmに亘るロシアとの陸上国境の存在が、フィンランド人の心理のみならず、その安全保障観、ひいては国家観そのものに甚大な影響を与えてきていることは間違いないと思います。

私は、在任中、フィンランド国内及び周辺地域をできる限りくまなく飛び回り、その実情を感じ取ることに努めました。国境地域の視察も重視していたことの一つで、北はノルウェー・ロシアの国境から南のフィンランド湾における海上国境に至る主要な国境通過地点をほぼ全て視察に訪れました。そして、それぞれの地点におけるフィンランド国境警備隊の幹部との意見交換を行いました。ソ連時代、ソ連軍と直接対峙していた時のピリピリした緊張感は多少和らいでいるとはいえ、警戒感は決して緩めていないことが伺えました。ただ、10年以上前の当時は、出入国管理の窓口にはロシア側から買い物客や観光客が殺到して長い列ができていたのが非常に印象的でした。2014年にロシアがウクライナからクリミアを奪った前のことですので、情勢は全く異なっていたのですが、私がヘルシンキに着任した直後の2013年の1月初めの一週間は丁度ロシア正教のクリスマスの時期に当たり、50万人のロシア人がフィンランドを訪れたと言われておりました。人口500数十万のフィンランドに1週間に50万人のロシア人が来たわけです。フィンランドの人達はよく言っていました。「ロシア人は、昔は戦車でやって来たものだが、今はメルセデスに乗ってやって来る」と。ひょっとすると、最近では、「近いうちにまた戦車に乗ってやって来るかもしれない」と言っているのかもしれません。

国境と言えば、今から40年数年前のことになりますが、私、ソ連時代のモスクワで駆け出しの外交官として勤務していた頃、モスクワから陸路、寝台列車でヘルシンキに向かったことがあります。フィンランド側の国境駅に着くと、プラットホームの花壇には多くの綺麗な花が咲いており、カフェに行くと新鮮なコーヒーがポッポッと湧いており、美味しそうなパンが並んでいました。心底幸せな気持ちになりました。身が軽くなったようにも感じました。今は昔のことです。大使としての在任中に、昔、駆け出しの外交官が「共産圏から出て自由世界に入った」と感激したその国境駅を訪れてみました。様子は多少変わっているようには見えましたが、当時の光景が蘇ってきました。暫し思い出に浸った次第です。

 

日本との友好関係:「2019年修好100周年」

1917年にフィンランドが独立したことを受けて、1919年に我が国は同国と外交関係を樹立したので、2019年に丁度修交100周年を迎えた訳です。私がフィンランドに駐在しておりましたのが2012年から2016年でありましたので、その時期は、独立100周年、そして修交100周年に向けての言わば助走の時期に当たりました。その間の忘れられない思い出は数多くありますが、印象深い結果となりました一つ二つのハイライトに触れさせて頂きたいと思います。

先ずは、2013年の我が国海上自衛隊の練習艦隊のヘルシンキ親善寄港です。海上自衛隊史上初のヘルシンキ寄港ということもありフィンランド海軍挙げての歓迎ムードとなりました。当日、旗艦「かしま」が、多くの美しい島に囲まれているヘルシンキ湾の奥深くに、島と島の間を縫うように、威風堂々航行し、フィンランド海軍と礼砲を交わしながら入港してくる様は正に圧巻でした。私を含めて出迎えの在留日本人にとりましては、何かしら誇らしく、涙を誘うようなシーンでした。正に日本フィンランド友好関係を肌で感じた出来事でした。そして、このことは双方の間の軍レベルでの友好・親善交流の機運を高め、翌年、ロシア国境に近いハミナで行われた世界でも有数の国際軍楽隊フェスティバルであるハミナ・タトゥーに陸上自衛隊中央音楽隊の50名余りの大部隊が参加することに繋がりました。また、その後、フィンランド国防省と日本の防衛省との間の安全保障分野の協議・交流が進んだことも、このことが齎した効果の一つであったと思います。

翌年の2014年には、ヘルシンキで、小笠原流の流鏑馬公演を中心とした大型日本文化発信イベントが行われました。ハイライトは何と言っても流鏑馬でした。準備にはなかなか苦労が伴いました。馬が全速力で疾走する流鏑馬には300メートル位のほぼ直線の走路が必要ということで、ヘルシンキ市内を色々探しましたが、最終的には、隣接の駐車場に土を入れて延長走路を作り300mの直線の走路を確保するというアイデアが決め手となりオリンピックの馬術競技場を使うということになりました。次に馬ですが、現地のどのような荒くれ馬をも短期間で調教して乗りこなす、というのが小笠原流の技である、ということで、全て現地フィンランドの馬が使われました。幸い、是非自分の馬を使って欲しいという申し出も相当ありましたので、馬の確保に困ることはなかったのですが、何せフィンランドの馬は飛んだり跳ねたりという所謂馬術競技に慣れているものが多く、流鏑馬は直線的に疾走するということで、馬の方も相当面食らうことがあったようです。日本から大挙来られた小笠原流の代表団の方々が、それを極短期間のうちに調教された様は、正に見事の一言でした。当日は幸いにまずまずの空模様に恵まれ、人口60万のヘルシンキで1万人の観客が集まり、大盛況でした。正に、ヘルシンキっ子の度肝を抜く日本の侍の技で、大きなインパクトを与えたものと思います。

 

滞在よもやま話:「鳥とサ道」

今一つ二つ、在任中の個人的に楽しかった思い出に触れさせて頂きたいと思います。

 

一つは、バードウォッチングです。フィンランドは動植物の多様性に恵まれているところですが、鳥についても、シーズンになると所謂「北極渡り」を見ることができる他、年間を通じて多種、多様な生態を観察することができます。毎年5月初旬の土曜日に、フィンランド全土に亘り「タワーの戦い」と呼ばれる全フィンランド・バードウォッチング選手権大会が行われていました。フィンランドでは至る所に鳥見用の展望櫓が点在していますが、これらをベースに10人位ずつのバードウォッチャーのチームが全国に幾つも出来、朝5時から午後1時までの8時間にそれぞれ何種類の鳥を識別できるか数を競うイベントです。姿は見えなくとも鳴き声だけでも複数のメンバーが認識できれば一種類を識別したとカウントされます。私共夫婦はヘルシンキ市チームに毎年招かれ、言わば特別オブザーバーということで参加しておりました。8時間も櫓の上で過ごすわけですし、5月とは言えまだまだ寒いので、結構大変でした。彼ら専門家の識別スピードは大変なもので、我々は彼らが見つけたものを望遠鏡や双眼鏡で一生懸命後追いするのがやっとでした。私の手帳には、例えば、2015年の大会ではヘルシンキ市チームは8時間で89種類識別したとの記述が残っていました。結構良い成績でした。

 

個人的に楽しかったことに今一つだけ触れさせて頂きたいと思います。それは「サ道」です。ある人から「フィンランドへ来たら『サ道』をやらねば」と熱心に勧められました。フィンランドでは、裏千家茶道のプレゼンスが相当しっかりしたものでありますので、てっきりそのことかと思って聞いていたのですが、「サ道」とは「サウナ道」のことでした。私にとっては、フィンランドのサウナは飽くまで水との組み合わせです。海であれ、湖であれ、川であれ、サウナでガンガンに熱くなって出てきたら、ドボンと飛び込む自然の中の水が無ければ、サウナにならないのです。やってみると本当に気持ちが良くて、「中毒性」があるとすら思いました。やったのは夏場です。ちょっと意気地がなくて、私は冬に氷に穴を空けてのドボンはやりませんでした。実際、「体のためには無理は禁物だし、自分もやらない」と言ってくれるフィンランドの人も何人もいました。

何れにしても、サウナ無しでは夜も日も明けない、というのがフィンランドです。フィンランド人は、家を建てる時には、先ずサウナから作り始めると言われています。フィンランド軍も、精強で知られていますが、陣地を作るときには先ずサウナから作り始めるようです。実際に、それで常に体を清潔に保ち、前線でも病気の蔓延を防ぐ上で効果があるようで、フィンランド軍がかつてソ連軍と互角の戦いができたのもこのことが要因の一つであったという指摘もありました。フィンランド海軍の艦艇にも、砕氷船にも、サウナとドボン用のプールが完備されています。何度も視察して、目の当たりにする機会がありました。フィンランドの「サ道」—- 懐かしく思い出されます。

 

北極を巡る協力:「バレンツ地域」

さて、日本・フィンランド両国は修好100周年を経て友好協力関係を深めていますが、地政学的、地経済学的見地からフィンランドの特徴と強みを踏まえた場合に、今後とも両国間の提携・協力の柱として大きな可能性と潜在力を秘めていると思われる分野について、少し申し述べさせて頂きたいと思います。キーワードは「北極」です。

私としては、これこそが今後の協力強化の対象となる潜在性の高い分野ではないか、と注目しています。2016年に、当時のニーニスト大統領の日本公式訪問が行われました。その時の日本・フィンランド首脳会談の際に発出された共同声明があります。この声明は、「北極」を両国間協力の大きな柱として位置付け、日本とフィンランドがそれぞれ北極海航路の東と西の端に位置し、北極に関する先端技術を有している点を踏まえつつ、連携・協力を推進していくという決意を表明しています。フィンランドは、世界の砕氷船の6割を建造し、8割を設計していると言われています。そもそも我が国にとっては格好のパートナーであると申し上げて良いと思います。

「バレンツ地域」と呼ばれる地域があります。北極圏のフィンランド北部からバレンツ海に面するノルウェー北岸に至る地域です。その西と東のスウェーデンとロシアに亘る地域を含みます。この地域は、現在北極ビジネスの拠点として活況を呈しつつあります。その分野は多岐に亘ります。バレンツ海に眠る石油・ガスに水産資源、豊富な森林資源、埋蔵量の大きな鉱山、そして運輸・物流、更には観光と、枚挙に遑がありません。当時聞いた話では、私達の口にするノルウェー産サーモンの多くが、ノルウェー北岸からトラックでヘルシンキまで輸送され、そこからフィンエア・カーゴで日本まで空輸されているそうです。何かしら身近な地域という感じがします。ノルウエー北岸のハンメルフェストという町では、バレンツ海のガス田に隣接して巨大な液化天然ガス(LNG)プラントが操業しています。ここからLNGが日本の九州電力、更には東京電力向けに北極海航路を経て直接輸送された実績を誇っています。ここから少し東に進みますとロシアとの国境近くに天然の良港キルケネスがあり、北極海航路の西のターミナルを目指して開発・整備が行われています。

実は、2014年から2015年にかけて3回に亘り、在フィンランド日本大使館の主催で、日本の企業及び学界関係者向けの「北極圏実地踏査ミッション」なるツアーが実施されました。北極ビジネスへの参画や学術研究協力の促進を念頭に置きつつ、この地域の実情をより正確に把握することを目的としたものでした。ヘルシンキを起点に、大型バスでフィンランド北部からノルウェー北岸に広がる地域を縦横に走りまくり、現地の企業や各種施設の視察、関係者との面談を行うというもので、日本のビジネス、学界関係者が延べ数十人参加されました。私も全て同行しましたが、この地域の活力と潜在力に目を見張る思いであったのを思い出します。

「バレンツ地域」は、今後とも日本企業にとって新たなビジネス機会を齎し得るのではないかと思われます。また、この地域における様々なプロジェクトへの参画、そしてバレンツ地域への日本ビジネスのプレゼンスの強化は、北極海航路の東西のターミナル同士となり得る、我が国とフィンランドやノルウェーといった北欧との間のパートナーシップとして誠に相応しいものではないかと思います。勿論、北極への関与にあたっては沿岸国ロシアとの協力が重要であることは多言を要しませんし、北極海航路についても、現在ロシアによるウクライナ侵略のために、その利活用は現実的ではなくなっていますが、何事も永遠ということはありません。将来、改めて主要な航路として日の目をみることもあるのではないかと考えます。このような文脈において、将来に向けて北極を巡るフィンランドとの提携・協力を進めておくことは大きな意味を持つものと考えます。

 

ロシアによるウクライナ侵略:「NATO加盟」

最後に、「ロシアによるウクライナ侵略とフィンランド」という視点から一言述べさせて頂きたいと思います。2022年2月24日、ロシアが隣国ウクライナに軍事侵攻しました。このロシアの行動は、如何なる国際法規をもってしても正当化されない、何らの大義も正統性もない、あからさまな侵略行為という以外の何物でもありませんでした。この日、1300km余りの陸上国境を挟んでロシアと接しているフィンランドの多くの人々は文字通り身震いし、そして、ウクライナの惨状を、80数年前の1939年末に、突如ソ連軍が国境線を越えて侵攻してきた、その後「冬戦争」と呼ばれることになる事態と重ね合わせて見たのではないか、と思うのです。ロシアがまた、隣国に対し自らの意思を通すために武力に訴えるという挙に出ることもあるかもしれないと薄々予想しつつも決して見たくないと思っていた事態が現実のものとなってしまった訳です。フィンランドの人々にとってはそれほど衝撃的な出来事であったのではないかと思われるのです。

フィンランドは、独立後の100年余りの間に自国の安全と生存に多大の影響を及ぼしかねない国際環境の大変動に何度か見舞われてきましたが、衝撃度という意味において2022年の出来事は最大の部類に入るのではないかと思います。これまでフィンランドは、巧みな外交と精強な国防体制、そして迅速な対応で、その都度、独立と国家体制を守り抜いてきました。今回、新たな危機的状況に直面して、フィンランドの動きはこれまでと同様に、或いはそれ以上に素早いものでした。これまで維持してきた軍事的非同盟政策を長い歴史の中では瞬時に変更し、遂にNATO加盟へと舵を切ったのです。しかし、同時に、それは言わば「熟柿が落ちる」ようになされた政策決定であり、ロシアのウクライナ軍事侵攻は、そのことを促す「最後のひと突き」であったとも思われるのです。

実は、ロシアのウクライナ「侵攻」は2014年に開始されています。ロシアはその年ウクライナのクリミアを「併合」しました。フィンランドは、これを国際法に真正面から違反する行為として強く非難し、EUの対露制裁措置に全面的に加わってきました。冷戦期にはソ連を過度に刺激しかねないと考えられる言動を慎重に避け抑制的に対応していたフィンランドは、そこにはもうありませんでした。クリミア「併合」後は、既に緊密であったNATOとの協力関係を一層強化することに努めてきていたのです。フィンランドは長年に亘り、ロシアとの間で、時に「NATOに入るような」、時に「入らないような」姿勢を見せつつ、この「NATO加盟カード」を巧みに使っていました。NATOとの緊密な協力関係は、既に「加盟」寸前の「紙一重」のところまで深まってきていた感がありましたが、それでもフィンランドは、「クリミア後」においても「加盟の選択肢」を温存し、フィンランドなりにロシアとの対話を継続し、平和的な軟着陸を目指した感があります。

そのようなフィンランドにとって、2022年2月24日の出来事は全てを根本的に変えるものであったと考えられます。これ以上はない程のあからさまな国際法違反の武力行使を伴う隣国への侵略。フィンランドは最も強い言葉でロシアの行動を非難し、ウクライナへの確固たる支持と支援を表明しました。EU加盟国としてのものを含め即座に強い対露制裁を実施しました。2010年以来ヘルシンキとサンクトペテルブルグを3時間半で結び両国間の人の往来に大きな役割を果たしてきた高速鉄道アレグロ号の運行も停止させました。長きに亘り政治的・軍事的紛争の枠外に置かれるべしとの精神で進められてきた北極地域の環境保護と持続的発展のための協力である「北極評議会」や「バレンツ・ユーロ北極評議会」といった国際機関があります。これら国際機関の活動についても、フィンランドは他の北極圏関係国とともに、ロシアと関係するものについて停止させる措置を講じることになりました。そして、昨年秋には、現状に鑑み、本年末をもって、この「バレンツ・ユーロ北極評議会」から離脱し、当面スウェーデンとノルウェーとの協力を進めるとの意向を表明しました。

いずれにせよ、3年前のウクライナ侵略が起きて直ぐに、フィンランドは再び電光石火の素早さで動きました。遂に、「紙一重」で残していた「加盟カード」を切り、NATO加盟申請に踏み切ったのです。正に「フィンランドならでは」と思わせる動きでした。この間、フィンランド世論は圧倒的に加盟支持に傾いていました。2022年5月12日、フィンランドはスェーデンと共にNATO加盟の方針を表明したのです。そして、翌2023年4月4日、加盟が実現しました。異例の速さでした。ロシアのウクライナ軍事侵攻は、正に「熟柿が落ちるための強烈なひと突き」であったのです。

 

今振り返ってみますと、戦後、日本は日米同盟を基軸として平和と繁栄を確保してきました。フィンランドは、冷戦中は中立政策を基本として長く厳しい時代を生き抜き、今日の豊かで進取の気風に満ちた国となりました。日本とフィンランドは、スタイルと手法、そして辿るべき道筋を異にしてきたとはいえ、ソ連・ロシアの東と西の隣国として、自由と民主主義、人権、国際法の遵守といった基本的価値を共有し、相互に一目置く間柄であった、と改めて思われる次第です。

Ⅷ.質疑応答
Ⅸ.資料

ほとんど『隣の国」フィンランドあれこれ(東京六稜会用資料) 2025.11.19

記録:阿瀨始(80期)

Ⅹ.講演風景 251119-01251119-02251119-03251119-04251119-05251119-06251119-09251119-10251119-11251119-12251119-16251119-07