Ⅰ.日時 | 2025年6月18日(水)11時30分~13時00分 |
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Ⅱ.場所 | バグースプレイス パーティルーム |
Ⅲ.出席者数 | 34名 |
Ⅳ.講師 |
柘植 尚則さん@95期(慶應義塾大学大学院文学研究科教授) 大阪府生まれ。北野高校卒業(95期)、神戸大学文学部卒業、大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学、博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、北海学園大学経済学部講師、慶應義塾大学文学部助教授などを経て、現在、慶應義塾大学大学院文学研究科教授。専門は倫理学・思想史、特に近代イギリスのモラリストたちの思想について研究している。著書に『イギリスのモラリストたち』『プレップ倫理学』『プレップ経済倫理学』『近代イギリス倫理思想史』など。 |
Ⅴ.演題 | 『利己と利他 ―イギリス・中国・日本―』 |
Ⅵ.事前宣伝 | このところ、他人の利益をめざす「利他」がブームになっています。利他がブームになるのはもちろんいいことですが、それは、自分の利益をめざす「利己」が当たり前になっているということでもあります。では、利己と利他はどのような関係にあるのでしょうか。そもそも、人間は生まれつき利己的なのでしょうか、それとも、利他的なのでしょうか。古今東西の思想家たちはこうした問いについて考えてきました。講演では、利己と利他の関係や人間の本性について、近代のイギリス、古代の中国、平安~江戸時代の日本の思想家たちがどのように考えてきたかを紹介したいと思います。 |
Ⅶ.講演概要 | 倫理学とは哲学の一分野で、人の生き方・社会のあり方を哲学的に探究する学問。人間の行動や道徳の規範、善悪の基準など、人がどのように生きるべきかを理論的に探究する。
私は近代イギリスの倫理思想史の研究を行なってきた。 私が近代イギリスを研究対象としたのは、資本主義をはじめとする日本の現代社会の基盤となる近代ヨーロッパの考え方をいち早く体現して世界中に広めたのがイギリスであったから。 17世紀、イギリスで起こった二つの革命、清教徒革命と名誉革命により、人権などの市民社会の原則が確立し、絶対君主制から立憲君主制(議会が立法し、君主が統治する)へと政治体制が変化した。政治が安定したことで、18世紀に急速な経済発展が起こり、19世紀にはイギリスの全盛期にあたるパクス・ブリタニカと呼ばれる世界帝国が築かれた。この時代のイギリスの思想を日本の明治政府が導入したことで、近代イギリスの思想が現代の我々の思想に大きな影響を及ぼしている。
はじめに・ここ数年の出版界では「利他」ブームになっている。 ・考え方のきっかけは、2011年に発生した東日本大震災の際のボランティア活動。 ・言葉のきっかけは、2021年書籍 伊藤亜沙(編)「利他」とは何か – 集英社新書、他に2021年中島岳志(著)思いがけず利他 | ミシマ社、2022年 若松英輔(著)NHK出版 学びのきほん はじめての利他学 | NHK出版、2024年 近松悠太(著)利他・ケア・傷の倫理学 | 晶文社 (若松英輔さんの「はじめての利他学」は入門書としてお勧め) ・利他とは、自分を犠牲にして他人に利益を与えること。他人の幸福を願うこと。(阿弥陀仏が)人々に功徳・利益を施して、済度すること。〔『広辞苑』第6版〕 ・利己とは、自分一人だけの利益を計ること。自利。主我。〔同上〕 ・本日は、利己と利他をめぐって、イギリス(近代)、中国(古代)、日本(平安~江戸時代)の思想家たちがどのように議論してきたかを紹介する。
1.イギリス・近代のイギリス 17世紀のイギリスでは、自由で平等な個人(市民)が、対等な関係で社会を形成する新しい社会「市民社会」が誕生し、市民が社会の主人公となってイギリス経済を発展させた。 自分の利益と幸福を追求する個人主義が興隆すると、個人の利益と社会(他人)の利益の対立が起こるようになる。新しい市民社会では個人の利益を優先するのが正しいのか、社会の利益を優先するのが正しいのか、モラリスト(道徳について思想する人)たちが論争するようになった。 中世までは、利己心や自己愛という思想は、キリスト教の教え(利他)に背く思想だった。 「自己愛」は、聖書に書かれている7つの大罪の一つである「貪欲」を生み出す、と考えられており、「利己」を正当化するのは、中世の封建制度社会の常識から外れた新しい価値観だった。イギリスの思想史に注目すると、17世紀から3世紀という長い時間をかけて少しずつ利己心・自己愛を正当化する議論が続けられた。
・モラリストたちの論争 人間は生まれつき利己的か、それとも、利他的で社会的か? 利己的な人間がいかにして利他的で社会的になるのか? 個人の利益と社会の利益は一致するのか?
・ホッブズ(1588-1679):近代政治哲学の父 人間は自己の保存を目的とする。 人間は必ず自分の善を意志する。(善:自分にとって利益になる物事) 人間は自分の善のために他人の善を欲する。(他人へ善を施すのは自分への見返りを目的とする。人間は最終的には偽善者である) 著作「リヴァイアサン」
・シャフツベリ(1671-1713):代表的なモラリスト 人間は自然に群れをなす。(人は利己的な動物ではない) 他者への愛は人間を幸福にする。 自己への過度の愛は人間を不幸にする。
・マンデヴィル(1670-1733):風刺家、経済思想家 人間は利己的であるから社会的になる。 利己心は社会に利益をもたらす。(利己心の経済的な正当化) 政治が人間を従順で有用にする。(「私悪すなわち公益」) 著作「蜂の寓話―私悪は公益なり-」
・バトラー(1670-1733):神学者、道徳哲学者 自己愛は合理的である。 自己愛と仁愛は一致する。 良心と自己愛は一致する。
・ヒューム(1711-1776):イギリスを代表する哲学者 人間は利己的でも社会的でもある。 利己心は自らを抑制する。 人間は他人や社会の利益に共感する。
・アダム・スミス(1723-1790):経済学の父 人間は共感を求めて自己愛を抑える。 人間は良心によって自己愛を抑える。(利己心の道徳的な正当化) 個人の利益と社会の利益は一致する。(「見えざる手」) 著作「国富論」1776年
国富論に書かれた“見えざる手”「個人が自分の利益を自由に求めれば、結局社会全体が豊かになる」という思想は、19世紀前半の社会の実情とかみ合わなくなる。経済が急速に発展する一方で、貧困や格差が社会問題になった。それをうけて、イギリスの思想家たちは、「どのようして個人の利益と社会の利益を一致させるか」を議論するようになった。
・ミル(1806-1873):哲学者、功利主義者 人間は生まれつき利己的なのではない。 人間は他者との一体感を通じて社会的になる。 法や教育が人間を社会的にする。
・ブラッドリー(1846-1924):哲学者、理想主義者 自己実現が人間の究極の目的である。 実現される自己は社会的な自己である。 自己犠牲は自己実現の一つである。
・論争の特徴 利己心の肯定 利己心の正当化 利己心に対する制約
2.中国・古代の中国 春秋戦国時代(紀元前8~3世紀)、群雄割拠、富国強兵
・諸子百家の活躍 儒家、道家、法家、墨家など 人間とはどのような存在か? 君子は国をどのように統治すべきか?
・孟子(紀元前372年頃-289年頃):戦国時代の儒学者 人間には生まれつき他人を憐れむ心がある。 君子は仁義(徳)によって統治すべきである。 君子は利よりも義を重んじるべきである。 良き統治のためには、人々の欲を少なくするのが望ましい。(節欲)
・荀子(紀元前298(313?) 年-238年以降):戦国時代の儒学者 人間は生まれつき自分の利益を求め、他人を妬むものである。 君子は礼(法律)によって統治すべきである。 良き統治のためには、人々の欲を抑えるしかない。(禁欲・抑圧)
・墨子(紀元前470年頃-390年頃):墨家の開祖(博愛思想) 国の乱れは、人々が自分だけを愛し、他人を愛さないことから生まれる。 人々が自分を愛するように他人を広く愛することで、国は良く治まる。(兼愛思想) 人々は互いの利益を尊重すべきである。
・議論の特徴 統治のあり方、君子の生き方 人間本性、仁義/礼、義/利、欲、利己/利他 …
3.日本・平安~江戸時代の日本 日本仏教の形成(平安時代)、日本仏教の展開(鎌倉時代)、商人道徳の誕生(江戸時代)
・仏教者・思想家の理想 大乗仏教の影響 一切の衆生を救済すること 自己と他者をともに利すること
・最澄(766/7-822):天台宗の開祖 「忘(もう)己(こ)利他(りた)」自分を忘れ、他人を利するのが、慈悲の極みである。〔若松、2022年、21-22頁〕
・空海(774-835):真言宗の開祖 「自利利他」自利と利他が一つになるとき、自利も利他も同時に成就する。〔同上、23-24頁〕
・道元(1200-1253):曹洞宗の開祖 「愛語」他人を見て慈しみの心を起こし、愛情あふれる言葉で接すること〔同上、33-34頁〕
・鈴木正三(1579-1655):江戸初期の禅僧 どのような職業でも、それに専心するときには、仏道修行になる。 商売を天職と考え、国や民のために商いに専心すれば、利益が与えられ、悟りに至る。
・石田梅岩(1685-1744):江戸中期の思想家 商人の道とは売買で利益を得ることであり、商人の利益は武士の俸禄と同じである。 先も立ち、我も立つことをめざすのが、まことの商人である。
・議論の特徴 利他への道 自己と他者は一体である。 利己と利他はつながっている。
おわりに・利己と利他の一致 自分の生命を維持することは、他人や社会が存続するために必要である。 人々が自分の利益を求めることで、経済が発展し、社会は豊かになる。 他人に親切にすることは、自分にも大きな喜びを与える。 他人を幸福にすることは、自分の人生にも大きな意味を与える。
・利己の危険 行き過ぎた利己心は… 自分と他人のつながりを失わせる。 人々を分断し孤立させ、社会を崩壊させる。 不平等や格差を生み出す。
・利他の危険 行き過ぎた利他心は… 単なる自己満足に陥る。 人々の間に支配と服従の関係を生み出す。 人々に自己犠牲を強いる。
・わたしたちの課題 利己心をどのように制約すべきか? 利他心をどのように育成すべきか? 利己と利他をどのように一致させるべきか?
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Ⅷ.質疑応答 |
質問者 木下健さん 79期Q:日本の明治維新以降の思想についてもお聞きしたかったです。 A:今日はイギリス19世紀の終わりまでの話でしたので、それに合わせて日本の江戸時代までしか扱いませんでしたが、江戸時代も明治以降も基本的な考え方は同じです。近代日本を代表する3人の経営者、渋沢栄一「資本主義の父」・松下幸之助「経営の神様」・稲盛和夫「利他の心」の思想につきましては、一般書も沢山出版されていますので、そちらをご覧になると良いと思います。
質問者 広本治さん 88期Q:先日、関西万博のパビリオン「いのち動的平衡館」で「利他の生命史」の展示を体験してきました。いのち動的平衡館を知る|福岡伸一がプロデュースする「いのち動的平衡館」 ―生き物の歴史は、生き残りをかけた争いの歴史ではなく、むしろいのちをつなぐ協力の歴史である。利他によって紡がれてきた38億年の「“利他”の生命史」― 今日は人の観点から利己と利他ついて講演されましたが、そもそも動物にも利他的な考え方はあてはまるのでしょうか? A:動物行動学的な利他的行動には道徳的な意味はありません。クジラとコバンザメのように互恵的な関係が成立しているのは進化の結果に過ぎません。
質問者 角田修一さん 74期Q:最近よく取り上げられている「多様性」問題を利己・利他の立場で整理すると、どのようになるのでしょうか? A:多様性(ダイバーシティ)とは、性別や年齢、国籍、人種、文化、価値観といった異なる特性を持つ人々が互いを認め合い、共存していくことです。これは相手(他)を尊重しないと成立し得ない関係です。利己と利他でこの問題を扱うとすると、すぐには答えが出せませんので、今後の研究テーマとしてこれから考えていきたいと思います。
質問者 三角智子さん 94期Q:今の時代は、孟子「節欲」の政治から荀子「禁欲・抑圧」の政治へと時代が移りつつある、と話されていました。米国では自国第一主義の大統領が就任したことで、抑圧の時代が始まりました。その影響でしょうか、世界的にも同じような現象が起こっているように思います。このように時代が変わる、何かきっかけとか周期のようなものがあるのでしょうか? A:過去の歴史を振り返ってみますと、米国の場合は10~20年単位で文化が変わると言われています。一国の大統領が自国の利益を最優先にした政策をとった場合、その国のためには良い政策ように見えますが、やがて国民は大統領の真似をして、自分のことだけを考えるようになり、終にはその反動がやってきます。組織ですと10~15年単位で文化が変わると言われています。周期は国(組織)の大きさによるようです。
質問者 蓑原律子さん 96期Q:私は小さい頃は長女として弟や妹を優先し、結婚してからは専業主婦として家族を優先する利他的な生き方、「情けは人のためならず、巡り巡って・・・」という言葉を実践してきました。 外国で暮らした時、「貧しい人を援助するのは当たり前」という文化(お国柄)と出会いました。身近な兄弟や家族の利益を優先するように、国も宗教も違う見ず知らずの人の利益を優先する「利他」の考え方について解説をお願いします。 A:現代の倫理学の分野として、グローバルエシックス(国際関係倫理)といわれるものがあり、そこでは、たとえば「(自国のお金の一部を使って)見ず知らずの遠い他国の貧しい人達に対して、何かする義務があるのか」が議論されています。議論の中では、「私たちが豊かな生活を送れているのは、発展途上国の、見ず知らずの貧しい人たちの犠牲の上に成り立っているのだから、支援するのは当然の義務」という考え方も唱えられています。
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Ⅸ.資料 |
記録:野田美佳(94期) |
Ⅹ.講演風景 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |