【277回】1月「アメリカでシンガーソングライターとして22年、そして日本へ ─『人生って不思議』+ちょっとヴォイトレ」

 

 

Ⅰ.日時 2026年1月21日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 49名
Ⅳ.講師

吉田 昌代さん@91期

ジャズ・ポップス シンガーソングライター

1977年に北野高校を卒業し、入学した神戸大学在学中に、シンガーソングライターデビュー。関西の有名ホテルで ジャズシンガーとして活動。1988年12月に渡米しバークリー音大(ボストン)推薦入学、パフォーマンス科を1991年に卒業。デュークエリントン追悼コンサートで ソロを披露、賞賛を浴びる。ボストン、サンフランシスコを中心に22年間の音楽活動を行う。2010年に帰国。現在、ホテルグランヴィア大阪レギュラー出演の他、各種イベント、ライブ、ホテルで幅広く活動中。ラジオ、TVメディアにも多数出演。ますます元気になるヴォイストレーニングも好評。

 

Ⅴ.演題 「アメリカでシンガーソングライターとして22年、そして日本へ ─『人生って不思議』+ちょっとヴォイトレ」
Ⅵ.事前宣伝 北野高校時代の劣等感から、R&B/Funk/Jazzとの出会いを経て自己を確立。農芸化学科在学中に日航ホテルジャズシンガーとしてプロ活動を開始しました。その後、運命的にバークリー音楽大学から全額奨学金を得て渡米。当初は卒業が目的だったアメリカで骨を埋める覚悟を決め、英語もままならぬ中、ボストンやサンフランシスコでピアノや歌の指導をしながら、レーベル契約、シンガーソングライターとして生活基盤を築き、22年間音楽活動を続けました。2010年の帰国から15年。現在は、島国・日本での人との繋がりや、日本人の国民性の素晴らしさを日々学びながら活動しています。本講演では、劣等感からの解放、日米での挑戦と自己確立の道のりを語り、感謝の気持ちを込めて、皆様とご一緒に「ちょいヴォイトレ」もご体験いただきます。
Ⅶ.講演概要 *紹介者は造力全史さん(91期)吉田昌代さんは、北野高校卒業生としては、あまりいないジャズ・ポップスのシンガーソングライター。食べることや食品に興味があり、神戸大学農芸化学科に進学され、在学中にプロジャズシンガー活動を開始。英語もままならないまま(ご本人曰く)、全額奨学金で名門バークリー音楽大学へ。ご苦労が多かったと思うが、ボストン、サンフランシスコで22年間音楽活動を続けられ、そのままアメリカに滞在されると思いきや、故あって、2012年にご帰国。現在、大阪にお住まいで、本日は大寒波襲来の中、朝早くから新幹線で東京に来て頂いた。事前に、高校の同期女性陣に当時の吉田さんの印象を聞いたところ、ある方は、アニメに出てきそうな可愛い女性、また、別の方は、同い年なのにお姉さんのようで、男子生徒の憧れの的だった、とのコメントを頂いた。本日は、どういうご縁でシンガーソングライターになられ、どうしてアメリカに渡られたのか、アメリカでの生活ぶりやどのようなご苦労をされたのか、分かっているようで、実は分からないジャズとはどういうものかを分かりやすく教えて頂けると伺っている。また、時間があればヴォイストレーニングを行って頂けるとのことで、吉田さんのご講演を最後まで楽しんで頂ければ幸いです。 

1.ジャズシンガーへの道

3歳から高3までクラシックピアノをやっていた。親は宝塚に入って欲しかったようで、小学校の時に宝塚に連れて行ってくれたが、興味が湧かなかった。長女でもあり、優等生症候群の典型で、親には良い子でありたいという娘だった。北野高校に入学したが、北野の生徒はみな優秀。運動は不得意で、断郊や縄跳びなど全然。勉強も全然やらず、北野では、屈辱感に耐える力をつけさせて頂いた。ついに、高校3年時にはじけて、映画「サタデーナイト・フィーバー」を観てこれだと思い、十三駅のコインロッカーにハイヒールとタイトスカートをしのばせ、放課後に梅田のディスコに繰り出し、その当時流行っていた「ステイン・アライブ」等の音楽にあわせて踊りに熱中した。親とは断絶状態で会話が無くなるも、これも北野のお陰。家では、自分の部屋で勉強をするふりをしながら、詩を作ったり曲をためたりしてストレスを発散していた。同時に、これまでクラシック音楽をやっていて、何故、ディスコの音楽のように楽しくないのか、どうしたら楽しい音楽になるのかとの思いで、神戸大学入学後に、アルバイトをしながらジャズスクールに通った。譜面をよむクラシックと異なり、ジャズは、コード進行を勉強する音楽。黒人の歌のR&Bやポップに魅かれた。アメリカには、クラシックの音楽学校とジャズの音楽学校があるが、現在、日本の大阪音大や国立音大にもジャズ学科がある。大学在学中の85年に、ストックとしてためていた曲をジュピターレコードから出す(当時のLPが手元に一枚だけ残っているが、先日、YAHOOオークションに9,800円で出ていた)。全国の学園祭回りをしていた。大学の研究室には全く行かなかったが、ゼミの教授を日航ホテルに食事に誘い、5年半で大学を無事卒業(卒業証書は確かにある)。その後、日航ホテルのオーデイションに一発で合格。週3回、3ステージで年100曲近く歌った。私は、元々、歌が上手い父のピアノの伴奏者であったので、人前で歌を歌うこと、ましてや、外人の前で英語の歌を歌うこと、お金を貰い歌うことの責任感に大いにストレスを感じ、食べていても食べていることを感じられなかったが、北野時代に培われた「屈辱感に耐えて」一生懸命頑張った。

 

2.アメリカバークリー音楽大学への留学

私の頑張りを見てくれていたジャズスクールの先生が、バークリーの推薦状を書いてくれることのことで、応募結果、全額奨学金で見事合格。私自身は、「やった!」では無く、「ええ?どうするの?」との思いだったが、日本の仕事では先が見えず、アメリカで1年だけ頑張ろうと、88年12月24日のクリスマスにアメリカに向かった。
大学のテストは簡単。日本の音楽教室はかなり高度で、レヴェルの高さを改めて認識した。大学は1年で卒業出来たが、日本人とは絶対話をしないことにした。バークリーのあるボストンは、アメリカでも英語が速く、ニュージャージーやバージニア等から来ている人にとっても英語が難しい。唯一、東大卒の日本人留学生が一人いたが、英語を含む環境に耐えかねられなかったのか、2か月後に姿が見えなくなった。

 

3.22年間のアメリカ生活(Boston11年間とSan Francisco11年間)

幸い、高校時代に屈辱感への対応を鍛えられたこと、英語が出来なくともアメリカは私の気持ちを開放してくれたこと等により、「石の上にも11年」の思いで頑張ることが出来た。
声を出すことが一番の目的・生きがいで、これにはお金をかけた。日本では良い先生に巡り合えなかったが、アメリカでは、ニューイングランド・コンサーバトリーで出会ったすばらしいヴォイスの考えを持つユージン・ルビンというドイツ人ヴォイストレーナーに師事すべく、ドイツに3か月留学した。ボストンでは、「The Boston Globe news paper」や「SF.日米タイムズ」で、日本人ジャズシンガーとして紹介され、CDを何枚か出した(参照:Ⅸ.資料 吉田昌代さんHP)。
ボストンでは、雪の道で交通事故にあい、骨折とともに肺きゅうが萎んだが1年で復帰。しかし、それで雪が怖くなった。8年経過し、自身のユニークな存在のお陰で人間関係も出来たが、日本人がこのままアメリカで頑張るためには、学生ビザ乃至は業務ビザを取得する必要がある。グリーンカードを申請するが抽選会で落ちた。その内、卓越した技術者に与えられるO1ビザを獲得できた。これは、自分にとって一番の人生の誇り。これで、「一生、アメリカでやっていける。アメリカが私を呼んでいる」と思い、ボストンから同じサイズの都市のサンフランシスコに行った。サンフランシスコでミュージックスクールの先生になったが、バークリー音大の存在感を改めて認識した。私のプライベートレッスンを受ける黒人の生徒や私に英語の歌を教えて欲しいという人がいっぱい来てくれた。自分で色々追及しベストを尽くしたことが、たいへん勉強になった。
声は出るようになったが、こんなに人前で歌っていながら、練習場では歌えるのに人前になるとまだまだ上手く歌えなかった。元々声が低く、ごまかしながら歌っていた。小学校時代、音楽のテストで歌えず、その経験がトラウマとなっていた(今になっては、先生がピアノで女の子のキーと男の子のキーしか弾けず、他のキーに合わせて弾けなかったことの理解はできるが、当時は分からなかった)。サンフランシスコは、ネーチャーやスピリチュアルなものを重視する地域で、(トラウマ解消に効果があるといわれる)ヒプノセラピーの世界を勉強した。自分が自分自身にセラピーを行ったり、如何に呼吸を深く出来るかを勉強した。

 

4.帰国の決意

サンフランシスコで生活にゆとりが出てきて、正月には日本の親元に帰り、アメリカと日本、大阪を行き来するうちに、日本のサービスが完璧でユートピアに思え、日本語の曲がどんどん出てきた。書いていた日本の曲を日本の人にも聞いて欲しいと思うようになり、2009年に全曲日本語の「しあわせサプリ」、2010年に「It’s time」(2025万博で歌った「Osaka」を含む)のCDを出した。大統領選で黒人のオバマが大統領になり、彼の演説や周囲の熱狂にたいへん刺激を受け、これで国が変わる、と思ったが、アメリカの選挙権が無いことを認識するとともに、自分の存在を改めて感じた。また、親が老いてきたことも心配で、親に相談したところ、「好きなようにすれば良い」と言ってくれた(高校3年時のディスコ通いの親不孝を通して親はトレーニング済み?)。親には感謝している。以上の経緯で大阪に帰国した。浦島太郎扱いを覚悟していたが、大阪で色々な方に出会い仕事を頂くことが出来た。東京に来てくれとのお誘いもあったが、大阪で親の元で一緒に過ごせたこともあり、後悔は無い。
ホテルグランビア大阪で、4月と10月の年2回、ジャズコンサートを14年続けている。今年は4月29日(祝)と10月12日(祝)で、フルバンドの演奏、飲み放題・フルコースのデイナーつきで13千円/人、スポンサーのアース製薬様のお土産付きで、たいへんお得。よろしければ、是非大阪に来て頂ければと思う。

 

5.ご一緒にヴォーカルトレーニング

講演会参加者とともに以下を実践。毎日やれば、声帯がリラックスして音域が広まり、声がはっきり出るようになる。医療的にも認められている。カラオケで歌う前、MC等で話をされる方にはお勧め。
・歌うには肩甲骨が一番大切→肩甲骨を360°回すトレーニング(ストレッチ)
・発声練習→両手を肋骨脇にあて、腹式呼吸で息を吐きながら、舌全体を上顎にあてて口と鼻から声を出す

 

6.ジャズ、ジャズヴォーカルとは

同じ原曲で拍子や歌い方を変えた曲を聴き、異なる雰囲気の曲になることを実感。これがジャズの典型であり醍醐味。
・デユーク・エリントンの「Take The “A” Train」4拍子の同じ曲を3人の歌手が歌うのを聴く→スキャットを入れたり、ヴォーカルを変えて演奏することにより、異なる雰囲気、曲になる
・「Fly Me」を3拍子、4拍子(ボサノヴァ、スウィング、ラテンで)で聴く→上記と同様

 

7.最後に

今をみつめて生きたいとの思いで「今を生きる」をテーマに、山本能楽堂(ジャズと花道の競演「On the sunny side of the street」)やお寺(高槻本行寺/お経との共演「Imagine」)で演奏している(参照:Ⅸ.資料 吉田昌代さんHP)。
日本に帰って15年。英語の曲を歌う時も、日本語の曲を歌う時も、言葉の力を大きく感じている。特に、英語の歌詞は意味が伝わっていなく感じられ、歌詞の存在をすごく意識している。コンサートでは、一方的に歌を聴いて頂くのでは無く、お客様と同じ時間を一緒に共有し紡がせて頂けることに喜びを感じる。今回の講演会にお呼び頂いたのをきっかけに、今後、大阪だけにとどまらずに活動が出来れば嬉しいと思う。

 

Ⅷ.質疑応答 野口 晶子さん(94期)
Q:最初にボストンに行ったときに、一番驚いたことは?A:アメリカは自然だったので、驚くことは無かった。ただ、ガソリンスタンドでトイレを借りるために「Can I use bathroom?」と黒人に尋ねた時に、断固として「No」と言われたのは、後にも先にも一番辛かった。後で分かったが、彼らがアメリカでされていることと同じことを私にしたかったのだろう。後で考えてみれば、「May I」と言えば良かった。

 

橋口 喜郎さん(78期)

Q:レヴェルが高く層も厚いアメリカのジャズ界で、日本人が成功するのは稀有では?才能があり上手であることもあろうが、有力なスポンサー等がいたのか?

A:すごく苦労した。最初に、インタビューで「日本人なのに、何故、あなたはジャズを選んだのか?」とアタックされた経験で学んだが、「私のルーツは日本で、日本でジャズをやってきた」と開き直り、「オリジナリティー」を出したことで、仕事がついてきた。ボストン、サンフランシスコはそれぞれが国のようなもので、「異色」を尊重してくれた。開き直りは、北野高校のお陰。小学校や中学校時代に作った曲をジャズにアレンジして英語に訳してもらい売り込んだ。

 

石垣 具子さん(69期)

Q:一曲聴かせて頂ければ、ありがたい。

A「Blue skies」と「Osaka」(2025万博で歌った)を披露。

 

坂本 睦枝さん(69期)

Q:万博で歌われたのは、何かご縁があったのか?

A:北野高校のご縁で、パビリオンのオープニング式典で歌わせて頂いたもの。

永田ひろみさん(91期):大阪ヘルスケア・パビリオンのシステムのボスである同期の三浦泰夫さんのご紹介で歌ったもの(参照:Ⅸ.資料 吉田昌代さんHP)。

参考:TR231-250301.png (1241×1754)

TR231Live

 

Ⅸ.資料

第277回配付資料

吉田昌代さんホームページ:Mya 吉田昌代

吉田昌代HPQR

記録:葛野 正彦(88期)

Ⅹ.講演風景 260121 - 5260121 - 9260121 - 10260121 - 12260121 - 13260121 - 14260121 - 16260121 - 17260121 - 18