【第171回】3月「人生一度きりだからこそ ~ミャンマーの無医村でクリニックと菜園を運営して~」

Ⅰ.日時 2017年3月15日(水)11時30分~14時
Ⅱ.場所 銀座ライオン7丁目店6階
Ⅲ.出席者数 53名
Ⅳ.講師 名知仁子さん

NPO法人ミャンマー・ファミリー・クリニックと菜園の会 代表理事
独協大学卒業後、日本医大にて循環器担当の内科医として勤務。
先輩医師から「女医は男の3倍働いて一人前」と言われ、女医として数々の苦労を経験した。しかし大学病院という大きな組織では自分を見失いかねず、医師の原点に立ち戻るため11年間の大学病院勤務を経て39歳の時に「国境なき医師団」に参加。難民キャンプで聴診器一つで診察を繰り返した。約7年の現地活動を経て帰国。その後ミャンマー人の医師との出会いもあり医師団時代に訪れたミャンマーに根ざして医療支援をすることを決意した。
Ⅴ.演題 「人生一度きりだからこそ~ミャンマーの無医村でクリニックと菜園を運営して」
Ⅵ.事前告知 ≪ご本人からのメッセージ≫
病は気からともいうように、病気を治す力も大切だと、日本では気功教室も開いています。医師として、病気の人だけを治療するのではなく、より多くの人が健康な体を維持して暮らせるようにと心から願っているからです。国の内外を問わず、さらには病院のない場所でも、積極的に伝えていければと思います。医療機器がない途上国の現場でも、聴診器一本で患者(人)を診ながら、あたたかい「手当て」ができるようにと心がけています。経済的には貧しくとも、笑顔で彩られた、心豊かな幸せが日々の暮らしのなかに生きるよう、ミャンマーでは自立循環型の医療援助をめざしています。

≪講演概要≫
45歳のとき、乳がんを名知医師自身が患う。
それは、「生きがい」「人生」について考えなおす機会ともなった。すべての人に平等に与えられている【生きる】ということに対して、ミャンマーデルタ地帯でのサイクロン被害にあわれた方々との触れ合いや様々な葛藤、そして自身が出来る役割とは何か。マザーテレサの言葉、そして自身の経験をもとに得られた価値観を皆様にお伝えします。

Ⅶ.講演概要 今回もパソコンにより映像をスクリーンに映写しながら講演が進められた。

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自分が医者になったきっかけは、父が白内障になったこと。眼科医になって父の病気を治したいと考えた。

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独協医大を卒業して日本医大という病院に勤務するようになったが、出身校が独協であるということで馬鹿にされたり入院患者に女医は嫌だと言われたり最初はかなり苦労をした。誠心誠意努めた努力が最終的には報われ、男性患者からも「先生に診てもらってよかった」と感謝されるようになった。

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28歳になった時「自分の人生をどうやっていこうか」と考え、まず、いろいろな業界の人と話をした。弁護士から掃除のおばさんに至るまで多くの人々から話を聞いた。

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そこで考えたのは、社会にはいろいろな人達が働いているが医者は社会と無関係に生きている、ということである。更に、本も沢山読んだ。その中で、マザー・テレサの次の言葉が強く印象に残った。「貴方の愛を誰かに与えれば、それは貴方を豊かにするのです」

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これを読んだのが31歳の時。大学病院という大きな組織の中で埋もれてよいのかと疑問を感じ、「国境なき医師団」で働くことを考えた。国境なき医師団は、ヨーロッパが本拠であり、まずその選考に合格しなければならない。そのためには英語をしっかり学ばねばならず、NHKの英語講座を聞き始めた。当初中学三年程度のレベルであったが、その段階から始めた。

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それから4年後、35歳の時、父に「国境なき医師団」で働きたいと話をした。父は、安定している大学病院を辞めて苦労の多いそのような組織で働くことに対し強く反対した。自分の決心は固かったので思い切って37歳で病院を退職した。しかし、父には言えなかった。ストレスが高まり「副交感神経萎縮症」という病気になってしまった。症状は辛く、寝ているか、立っているかしかできなかった。

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そういう状態で家に籠っていた時、偶然友人から電話がありそこで現在の状況を話したので彼女がびっくりして父に話してくれた。退職した日本医大の病院へは行きたくなかったが、ある先輩医師が「診てやる」と言ってくれたのでお世話になることにした。当時、頭と手しか動かなかったが、いろいろな本を読み少しずつ動けるようになった。

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退院後は、国際医療をやりたい気持ちが依然として強く、そのためには体力が必要となるのでカナダでキャンプ生活をして身体を強くした。既に39歳になっており、国境なき医師団は40歳までという制限があるため、ぎりぎりの年齢になっていた。試験はイギリス、フランスで行われようやく合格した。

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最初は3万5千人の難民キャンプに派遣された。そこの人達は自分の年齢も判らず、数も数えられない。先ず、数を教えたり、更に脈の取り方、聴診器の使い方まで教えた。このような場所でどうやって患者を診るのか、これは自分の医師としての原点であると考えた。

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45歳になった時自分は「癌」になった。その治療を受けながら、「生きたい」、「活きたい」、「行きたい」という思いが益々強くなった。

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幸い回復したので「NPO法人、ミャンマー・ファミリー・クリニックと菜園の会」を設立しミャンマーと日本の間を往復する生活を続けるようになった。

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ミャンマーには135の民族がいるので、言葉の問題がありコミュニケーションがとれない。土地は国の所有。無医村には電気も水道もなく、トイレは穴を掘っただけ。電気が無いので夜はトイレにも行けない。彼等は池の水を飲んでいる。自分は雨水を溜めて飲んでいた。学校へ行ったことがない人が多く、米はとれるが野菜の作り方を知らない。栄養不良で早死にする例が多く、千人生まれても生きるのは3人だけという状況。また、出産時の死亡も多い。

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現在行っていることは医療と菜園という二つの柱、保健、衛生、指導という三つの活動である。

  • 具体的には、米しか食べていないため脚気が多い。その予防として米のとぎ汁を使っている。
  • また8700人の住民の内、歯ブラシを持っている人は50%程度であり歯周病の弊害が出ている。歯ブラシを買う金がないのが大きな理由。
  • 病気を防ぐためには手洗いが重要。手を洗うだけで病気は防げることを教えている。
  • 住民の日当は200円程度なので40円の石鹸は買えない。天狗熱が多く、その予防には40円の石鹸も買わねばならない。そのことが次第に理解され、石鹸を買い手洗いをするようになった。また、トイレも改善されて少しずつながら良い方向に向かってきた。

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ミャンマー・ファミリー・クリニックと菜園の会(MFCG)の現実は想像以上に大変である。「MFCGは未来を創る」という目標を持ってやってきたが、将来は、「MFCGはもういらない」と言われることを目指したいと思っている。人生とは:「種を撒いている」ことと考え、未来をつくるため一緒に活動してくれる人を少しでも増やしたい。現在スタッフとして増やしたいのは、マーケティングやイベントの経験者である。最後に、MFCGの活動を支援して頂くために、1日50円(月1500円)の寄付をお願い致します。

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(註)問い合わせ先:電話:03-6807-7499 email:myanmarfcg@gmail.com

Ⅷ.資料 なし

 

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