【265回】1月『手塚治虫と私の縁』

 

Ⅰ.日時 2025年1月15日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 46名
Ⅳ.講師

tanaka akira

田中 昭さん@75期

(元・住友重機械工業社員)

兵庫県出身。北野高校から慶應義塾大学に進学。

卒業後は住友重機械工業に42年間勤務し、主に鉄鋼プラントの輸出業務に従事。

30数か国に及ぶ取引先のうち改革開放直後の中国事情にもっとも精通。

退職後、青山学院大学および関西学院大学で非常勤講師。

趣味はフルトヴェングラーの音盤や手塚治虫作品の収集。

 

2024年2月10日第219回六稜トークリレーに登壇

「手塚治虫と私」アーカイブ:TR219Live

Ⅴ.演題 『手塚治虫と私の縁』
Ⅵ.事前宣伝 私の一方的思い込みを含めて、大先輩の手塚治虫氏と私との間には「縁」があると感じている。私は北野に入るまで同氏が北野のОBである事を知らなかった。小・中学校の頃から同氏のマンガが大好きだった。月刊誌に連載されていた「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」は他の漫画家の作品とは比較にならない位面白かった。散髪屋や貸本屋で夢中になって読んでいた。北野に入って嬉しかったが、同氏が先輩である事を知った時には合格以上に嬉しかった。そして生物研究部に入部して更に喜びが増した。何と手塚治虫は生物研究部の前身である「六稜昆虫同好会」の創設者の一人であったのだ。以来60余年間私の手塚熱は続いている。今回はその長いファン歴の中で感じている「手塚治虫と私の縁」について述べたい。併せて秘蔵の原画を持参して皆様に御覧頂くつもりである。
Ⅶ.講演概要 当日は田中さんを応援する75期の皆さんが多数来場された。田中さんは2006年7月19日第43回東京六稜俱楽部「中国を知る」及び2010年7月28日第91回東京六稜倶楽部 「名指揮者フルトヴェングラー」で登壇されて以来、15年ぶり、3回目の登壇となる。紹介者は同期の簑島紘一さん「田中昭(たなかあきら)君は昭和19年に静岡県で生を受け、昨年80歳になられました。北野高校卒業後は慶應義塾大学経済学部へ進学され、卒業と同時に住友重機械工業に入社なさいまして、初任地である四国の新居浜(住友発祥の地)で4年間勤務され、その後は鉄鋼プラントの輸出関係の仕事をされてきました。当時は発展途上にありました中国へは延べ150回以上出張されたそうです。その後、中部支社長・本社営業統括室長を経て円満退職され、現在に至ります。田中君と言えば手塚治虫のコレクター、フルトヴェングラー(ドイツの指揮者・作曲家)のコレクター、帝国海軍の歴史の知識が大変豊富な人物として知られていますが、本日は、手塚治虫と田中君との深い縁について話していただきます」

1.旧制北野中学と北野高校

・私の家は甲子園口にあった。私が兵庫県の某有名私立中高一貫校の入試に失敗したとき、英語の葛西先生のご縁(先生の奥様と私の母が従姉妹同士)で、新北野中学・北野高校に越境通学した。北野には塚本の知人宅に寄留して中学高校と6年間通った。北野へ入学して初めて手塚治虫が高校の先輩と知った。合格したことよりも彼の後輩となれたことがとても嬉しかった。

・小学校後半から中学校にかけて漫画の大ファンだった。中でも手塚治虫は抜きん出て面白かった。当時、少年向け週刊誌はまだ出版されておらず、月に一度の月刊誌が待ち遠しかった。兄弟友人で分担して手塚治虫の漫画が掲載されている少年月刊誌を入手し、仲間内で回し読みしていた。近所の貸本屋で借りた本も回し読みし合った。手塚作品は子供心にも、ストーリーの面白さと絵のうまさが際立っていると感じていた。特に、SF漫画や長編連載漫画は他の人気漫画家とは全く違うと思っていた。

・漫画家は大変な職業で、原作者・台本作家・脚本家・演出家・作画家の役割をたった一人でこなさなければならない。よほど多彩(多才)な才能に恵まれなければ一流にはなれないと思う。多くの漫画家が数年で消えていく中で、手塚治虫は18歳でデビューし、60歳(若い!)で亡くなるまで42年間、一流漫画家の地位を保ち続けた。

・手塚は、睡眠時間3~4時間という生活を続け、大量の出版物を遺した。作品は700作以上、原稿が15万枚、アニメーション作品は60作以上といわれている。

 

・手塚治虫の在学(旧制北野中学)は1941~45年、私の在学(北野高校)は1960~63年、私が在学中には手塚治虫に教えたという先生方が結構おられた。特に体育の平石ピンタ先生や美術の岡島先生からは手塚の話をしょっちゅう聞かされていた。

・岡島先生は、校外実習がないときには、座学をそっちのけで、高校時代の手塚の話を嬉しそうに熱弁されていた。

・北野のプールは日本水泳連盟の公式プールだという話を何度も聞かされた。手塚自身の自伝でも触れられているが、このプールは戦時中に全校生徒の勤労奉仕で作られた。後年、プールの更新工事が行われたが、解体中にプールが「竹筋コンクリート」であることが判明した。戦時中に鉄筋が手に入らなかったので、鉄の代用品としてよく乾燥させた竹が使われたのである。私はこのことを、更新工事を行った大手ゼネコンに勤める同級生から聞かされたが、手塚の自伝にはそこまで書かれていない。

・私は生きている手塚治虫をナマで見たのは一度しかない。それは1973年にフェスティバルホールで開催された創立100周年記念講演会だった。祝祭の主役はOBの森繁久弥と手塚治虫だった。舞台の上で手塚は即興で絵を描いた。見事だった。あの原画はどこへいったのだろうか?

 

2.昆虫&クラシック音楽好き

・私が所属していた「生物研究部」の前身は、手塚治虫が友人と一緒に創設した「六稜昆虫同好会」だった。生物研究部は現在も母校で活動を続けている。

・昆虫好きの手塚治虫は黒い肉食の昆虫「おさむし」が気に入って、本名の「手塚治」に「虫」を足してペンネームを「手塚治虫(おさむ)」としたらしい。

・手塚が北野在学中に自主制作・発行していた昆虫図鑑は、宝塚市の手塚治虫記念館で展示されている。私が最初にこの図鑑を見たときには写真かと思ったほど、精巧な水彩画で描かれている。

・手塚治虫は自分でピアノが弾けるほど音楽が好きだった。特にクラシック音楽を好んだ。仕事人間だったので、仕事中に音楽を聴くことしか楽しみがなかったのだろう。手塚はクラシック音楽をステレオ大音響で流しながら執筆していた。「ブラームス交響曲第1番」や「チャイコフスキー交響曲第6番:悲愴」はフルトヴェングラー指揮のLPしか聴かなかった、という点でも私との縁を感じる。

 

3.父親の会社が同じ

・手塚の父親と私の父親は共に住友金属工業に務めていた。手塚の父は経理部、私の父は総務部だったので、おそらく同じフロアーで働く顔見知り同士であったと思う。生前、私の父はこのことについて何も私に話さなかったので、今となっては確かめようがない。

・手塚治虫は、大阪弁の一言でいうと「ええしのぼんぼん」で、名門の出身といっても良い。

・曾祖父は蘭学の医者(この曾祖父をモデルに「陽だまりの樹」が執筆された)、祖父は裁判官、父の手塚粲(ゆたか)が住金の会社員。粲は新し物好きで、戦前の家庭ではまだ珍しかったポータブルの映画撮影機を所有していて、治の子供時代のフィルム映像を遺している。また、粲は当時、まだ数が少なかった漫画のコレクターでもあった。治少年は父の蔵書の漫画を読みふけっていたのだと思う。

・母方の父は陸軍少将(陸軍の補給の最高責任者)で、そのお嬢様だった母は手塚少年にピアノを教えた。また、家の近所に宝塚少女歌劇団の大スター(天津乙女・春日野八千代)が住んでいたせいもあって、母は幼い治少年の手を引いて宝塚歌劇場に日参していたらしい。この経験が、後年、手塚が少女漫画「リボンの騎士」を描いた基盤となる。

 

4.近くにトキワ荘

・私の自宅から徒歩10分位の所に漫画の聖地「トキワ荘」がある。

・トキワ荘は1953年に手塚治虫が入居して以来、後年有名になる漫画家が続々と入居した。

・その後、トキワ荘は取り壊されたが、現在はトキワ荘の跡地に、豊島区立 トキワ荘マンガミュージアムが建てられている。

 

5.大学の親友が手塚番になった

・大学の親友・鹿子木(かのこぎ)昭一君が、小学館に入社し少年サンデーに配属され、なんと手塚治虫の担当になった。(小学館は1,000人が入社試験を受け、合格者は5人のみだった)

・鹿子木君が担当した頃の手塚は、連載を週に7本抱えていた。いわゆる「手塚番」とは各出版社の担当者が、他のライバル誌の原稿を描かせないよう、泊まり込んで徹夜で手塚を監視するのが仕事だった。鹿子木君のツテで手塚に近づこう、という私の目論見はとんでもない話で、鹿子木君に頼んで、私が所有していた「ピノキオ」にサインをもらうのが精一杯だった。

・手塚は「サンダーマスク」という作品で、編集者・鹿子木君を登場させている。

・虫プロ(手塚プロ)とディズニーの間には訴訟問題があった。「ピノキオ」と「バンビ」はパクリ作品としてディズニーにより手塚プロが訴えられて敗訴し、直ちに廃刊となった。後に虫プロは、「ライオンキング」が「ジャングル大帝」のパクリ作品としてディズニーを訴えて勝訴した。その時、映画「ライオンキング」を日本で公開する交換条件として、「ピノキオ」と「バンビ」の出版をディズニー側に認めさせ、後年、講談社の全集400冊の中に組み込まれた。

・本日持参した「ピノキオ」は、廃刊となる以前の初版本で、めったに見られない稀覯本である。この本にサインを頼んだとき、手塚自身が驚いていた、という話を鹿子木君から聞いている。(「ピノキオ」と「サンダーマスク」は講演会場で回覧された。)

 

6.その他(手塚治虫のブラックな面について)

・手塚治虫は見栄っ張りなところがあり、学歴詐称と年齢詐称を行なっていた。

・手塚治虫は嫉妬心が強かった。舌禍事件や筆禍事件を起こしている。

・手塚治虫は天才的な記憶力を持っていた。それが弱点にもなり、最初に間違えて覚えたことを改めるのが苦手だった。(思い込みが激しかった)

 

7.コレクションについて

・私はコレクションが趣味だが、手塚治虫は出版物が多すぎて、とても全てを収集するのは無理だった。そこで、原画を収集することを思いついた。原画は世界で一枚しか存在しないからだ。

・昔は著作権の考え方がゆるかった。手塚自身も熱心なファンに原画をプレゼントしていた。

・ネットオークションが普及してからこちら、手塚の原画が高値で売買されるようになり、簡単には入手できなくなってしまった。偽物も多く出回っているので注意していただきたい。

・本日は三枚の原画を公開する。昆虫採集をする少年、阪大付属医学専門部の学生、今年は巳年なので蛇を描いた原画を持参した。

・私の生涯をかけて集めた手塚コレクションは、まとめてどこかに寄贈したいが、全部を引き受けてくれる施設がないのが悩みである。

 

8.北野高校について

・修学旅行の思い出

私の学年では、修学旅行に行けたのは女子だけだった。女子が旅行をしている間、男子は学校に残って受験勉強をしていた。私のずるい友人が、女子にこっそりお金を渡して修学旅行のお土産を買ってきてもらい、それを他の男子に見せびらかして、自分のモテ自慢をしていた。

(修学旅行に男子が参加するようになったのは80期以降)

・北野高校が十三高校に改名?

北野中学(現北野高校)の校舎が北野柴田町から十三に移転するとき、校舎の建っている地名を学校名とする習慣に従い、校名を北野中学から十三中学に改名する話が大阪府の教育委員会でほぼ決まっていた。ところが、同時期に進められていた府立第十三番中学(現豊中高校)の創立時期とかさなり、同じ十三の名前を使用すると紛らわしいと言うことで、例外として北野の名前を残すことになった。

Ⅷ.質疑応答

三谷秀史さん(82期)

C:お話にありました昆虫図鑑「昆蟲の世界」ですが、創立150周年事業の一つとして、富士フィルム(富士フィルム会長は85期の助野健児さん)の協力で復刻版が作成され、母校に寄贈されました。そして一昨年の創立150周年特別展で初公開されました。現在、六稜会館の地下に所蔵されています。門外不出。

大阪府立北野高等学校創立150周年祝賀記念事業に協力 – 京都発 文化財アーカイブス

 

蓑原律子さん(96期)

C:同じく、手塚治虫の直筆画が数枚、六稜会館の地下に所蔵されています。

参考:のりみ通信 六稜会館での手塚治虫作品展のりみ通信 六稜トークリレー併設展

 

 

清徳則雄さん(79期)

Q:ディズニーと虫プロ(手塚プロ)の訴訟問題は報道されていなかったと思うのですが、どこで知られましたか?
A:私は手塚治虫ファンクラブの会報で知りました。

 

Ⅸ.資料

20250115田中昭さん配付資料pp1-5

記録:野田美佳(94期)

Ⅹ.講演風景 265 - 2265 - 3265 - 6265 - 7265 - 4265 - 5265 - 8265 - 9265 - 10265 - 11265 - 12265 - 13