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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: ルネッサンス建築様式


▲スイスの泉(別名バナレット騎士の泉)
一見、傲慢に見える騎士像であるが、脚の間にイノシシ像を置いたことで、おとぎ話のようなほのぼの感を 醸し出していると思うのは私だけであろうか?

▲サマリア人の泉
肥満気味の洗礼者ヨハネ像と対照的にキリストとサマリア女性の姿・全体の塗装が美しい。

▲やっぱりちょっと傾いている?「Béchauxの館」この家一軒にポラントリュイ旧市街の生死が関わっている?

▲ポラントリュイ城に数ある門の一つ切り妻壁の中のレリーフは海の生物?かと思ったら資料によれば「バラの花」らしい・・・。

「建築様式で追うポラントリュイ」シリーズを再開するため、ゴシック後、ヨーロッパ建築史で当然の流れとなるルネッサンスに取り掛かろうとした。ところ が、タイトルをつけてはたと困った。実は、町のあちこちにしぶとく残るゴシック建築、バーゼル司教公国全盛期・ポラントリュイ華やかりし時代のバロック建 築の間に入るはずのルネッサンス式建築物が、見当たらないのである。
バーゼル司教公国に於いては司教が絶対君主であり、富も権力も握っていたが、有産階級市民(ブルジョワ)もまた、中世より町の運営を牛耳っていた。しか し、一部の人間がいくら小金をちゃらつかせたところで所詮田舎の小国。流行からは優に何十年も遅れがち。やっとこさ取り入れ、身のほど(=予算)に合った 建物をこしらえても、様式は時代と共にどんどん移り変わっている。ポラントリュイには「後期ゴシック」と呼ばれる様式の建築物や窓枠などが多いが、それは お隣の国々がとっくにルネッサンスまたはバロックに走っている頃に、細々と過去のゴシックを踏襲していたからである。

ルネッサンスとは「再生」。15世紀、商工業が栄え豊かな富を蓄えるようになったイタリアのフィレンツェで始まった動きである。合理性と教養を身につけ た商人は、ローマなど古典文化を再発見しつつ、新しい時代の建築物に取り入れた。古代の模倣というより、「再生」という名の新しい創造物だった。1400 年代から1500年代に渡るルネッサンスは、大きく3つの時期に分けられる。フィレンツェを中心とする勃興期である15世紀の初期ルネッサンス、ローマに 各地から人が集まった16世紀初頭1530年頃までの盛期ルネッサンス、そしてそれ以降16世紀末期までのマニエリスムの時代である。このマニエリスムの 「マニエラ」とはイタリア語のマニエラ(maniera)= 手法・様式に由来する。ルネッサンス盛期の明快で調和が取れた表現ともバロックの躍動感溢れる表現とも異なっている。
私は建築の専門家ではないので美術史はこのぐらいにして、ポラントリュイに僅かに残るルネッサンス様式を紹介する。

1564年完成の「サマリア人の泉」には、イタリアルネッサンスとドイツバロック様式が混在する。聖書の中にある物語の有名な一場面、キリストと良きサ マリア人の対話である。ユリの花で装飾された柱の上には何故か子供の姿の洗礼者ヨハネが十字架と町の紋章のある盾を持ち、地球の上に足を置いている。実 は、この柱は複製。オリジナルは市庁舎の一階ホールにあるが、複製と違って塗装されていないため、地味で人目にはつきにくい。
この二つの泉と「黄金玉の泉」を合わせてルネッサンス期・三大泉と称し、作者はすべてロラン・ペルー・ド・クレスィエ(Laurent Perroud de Cressier)である。Cressierとはスイス・ヌーシャテル州の町の名前であるが、実際、彼はその近郊の町Le Landeron出身。時代の寵児とも言え、スイス各地の数多くの泉を建造した。ヌーシャテル旧市街にある「騎士」と「正義」の泉も彼の作品である。

ピエール・ぺキニャ通り32番地(通りに名を残すこの男については第20,21話の「ウィリアム・テルになり損ねた男」をご参照に)、「Béchaux の館」自体はゴシック式、1570年建造と伝えられている。正面扉には後期ルネッサンス式の彫刻が施されている。長方形の板の部分には、最初の所有者 Verger家かフランス革命前の所有者Grandvillers家の紋章があったはずだが、革命軍が町を荒らした際、金槌などで叩かれて破壊されたらし い。このように、町の端々に、革命軍の暴虐は歴史的遺産の破壊という形で今も残っている。現在、家はなめし革業者Béchaux家所有だが、実際に所有主 は住んでおらず、時々休暇にやって来るだけらしい。この家が崩れれば、この通りに連なる家すべてが将棋倒しに崩れるという恐ろしい噂がある。何とか持ちこ たえてくれればいいと願うばかりである。

最後に、現在は州司法施設(裁判所や留置場など)が入っているポラントリュイ城にあるルネッサンス式の門をお見せする。建物自体はゴシック、一部はバ ロックである。この門を入ると、ゴシック式のらせん階段が延びているが、細部装飾はルネッサンス式である。

ポラントリュイにおいてルネッサンスが導入された部分は建物ではなく、主に彫刻などのディーテールばかりである。これは私の想像に過ぎないが、町自体 が、ルネッサンスを受け入れる精神的・経済的余裕がないまま、次の大きなうねり、バロックという流行に飛びついたと取れないだろうか。次回の連載では豪奢 なバロック式建築物をご紹介する。

〈参考資料〉
西洋建築様式史(美術出版社)

ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《最終回》


▲ボンフォル村内にある聖フロモンの像

▲聖フロモン像の下から湧き出る泉
昔は飲料水として村人の生活に欠かせなかったが、バーゼルの製薬会社がこの村の郊外に産業廃棄物を投棄し たことから、化学物質が検出されるようになった。” EAU NON POTABLE “(飲料水ではありません)というパネルが。

▲「ジュラ鉄道」
現在もポラントリュイ⇔ボンフォル間を往復する

▲1919年に焼失してしまった瓦製造工場

▲フェリシタス・ホルツガングさん
ボンフォル村の陶器博物館内での実演。隣の美貌の農夫は勿論、マネキン人形です

▲現在のMPS A.G.の建物
小さなボンフォル村で製造された極小パーツがアポロ号と共に月に到着!快挙と言わずして何だろう

▲Louis Chevrolet
20世紀初頭、カーレースで大活躍し、日本語では「シボレー」と呼ばれる車を開発した。意外や意外、戸 籍はBonfolにある!この苗字の方は現在もジュラに数多くいる。

霊験あらたかという言葉がある。
ボンフォル村では聖フロモンという聖人の伝承が今も尚、人々の生活に息づいている。国境近くにあるがためにし ばしば他国の蹂躙に怯えた挙句、経済危機の影響をモロに食らった小村の民は、知らず知らずのうちに、霊験に縋らずにはいられなかったのかも知れない。
聖フロモン(Saint Fromond)は、バチカンによって列聖はされておらず、文献も残っていないが、数々の伝説や奇跡が言い伝えられている。 別名「放浪の聖人」とも呼ばれている、アイルランド出身のフロモンは、仲間二人と旅をしていた。ドレモンとポラントリュイの間にあるLes Rangiers峠近くでそれぞれが杖を投げ、落ちて指した方角に向かった。そして行き着いた先を終の棲家と決め、放浪から定住の生活を選んだ。ちなみ に、他の二人こそ、その名を地名に残す聖ウルザンヌ(St-Ursanne、アイルランド人)と聖イミエ(St-Imier、現在のジュラ州Lugnez 村出身、二人の案内役だったのか?)である。

フロモンは泉が湧き出ているところに庵を結んだ。土に杖を刺すと根が張り、樫の木が生えたと伝えられている。間もなく彼の庵の周りには人が移り住み、集 落を形成していった。
伝説によるとフロモンは105歳まで生き、人々の信頼と崇拝を集めていたが、ある日泊めた二人の放浪者に殺されてしまった。(恩を仇で返すとはこのこと か)しかし、聖フロモンへの信仰は千数百年を経ても途絶えることはない。人々は動物の守護聖人と崇め、家畜が病気になると聖フロモンの泉の水を飲ませた り、その辺りの草を与え、治癒に漕ぎつけたと言われている。1793年には悪魔に取りつかれた女性の前に現れ、お払いをしてくれたという伝説がある。

聖フロモンが見守るボンフォル村は、第38話にも書いたように、決して平坦な道程を歩んでいない。しかし、この村にも繁栄を極めた時期はあった。20世 紀初頭(ポラントリュイを含むジュラの産業が栄えた期間、いわゆるベル・エポックとも一致する。第15、16話駅物語をご参照下さい)には人口は現在の約 2倍もいた。大きな理由の一つに、鉄道の発達が挙げられる。1901年、ボンフォルはポラントリュイと鉄道で繋がった。1910年までにはドイツ帝国支配 下のアルザスの村、Pfetterhouseまで線が延びた。(1970年に国境を越える部分は廃線)

前章にも述べた陶芸業は、家内産業としては19世紀が頂点だった。陶芸職人の妻が藁を積んだ手押し車に陶器を詰め、スイス各地に行商に出かけていた。 1830年の統計では村民の約半数が陶芸業に関わっていた。1920年以降、陶器産業はマニュファクチャー化された。つまり大きな製作所にて粘土の採掘・ 運搬・陶器の製造・窯専門の職人、という風に分業化されたのだ。
粘土を使った瓦は非常に重宝されたが、1919年に工場が焼失したことにより、途絶えた。現在でもボンフォル村や周辺の市町村の古い家屋のほとんどにこ の瓦が使用されている。
CISAという会社は、粘土を使用した装飾用タイルを全世界に輸出していた。東京の地下鉄通路には一部、この会社のタイルが使用されている。しかし、古 来より採掘し続けられてきたため量が激減した粘土採掘にはコストがかかるようになり、外来の粘土が使われるようになった。会社自体は残念ながら1999年 に倒産した。

粘土減少により、陶器製造工場は次々と閉鎖され、現在では第37話にも登場したフェリシタス・ホルツガングさんお一人が村の陶芸職人として活躍中であ る。
何もかも下火になってしまったようであるが、村は試行錯誤しながらしぶとく生きている。R.M.B.というボールベアリング製造の会社は買収されて MPS A.G.と変名したが、その後も高技術を誇る会社として存続している。ここの製品は、月に着陸した、あの宇宙船アポロ号に搭載されていた。その他にも、時 計ケース製造工場や漂白工場、製材所などの産業がある。第38話に述べた池は、四季を問わず、観光客の憩いの場である。

ジュラ在住15年という歳月は、私を完全なジュラびいき、いや、筋金入りのジュラ女性=ジュラシエンヌに変えてしまったようだ。ボンフォル村に親しみが 湧くに連れ、私なりのやり方(陶器の紹介、観光客誘致など)で応援したい気持ちが高まりつつある。

〈参考資料〉
Bonfol村公式サイト : http://www.bonfol.ch/
MPS A.G.公式サイト : http://www.faulhaber-group.com/

ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その2》

「人に歴史あり」と言うが、人口数百人の小さな村にも大いなる歴史が存在する。ワールドアイで歴史エッセイ執筆のお仕事をさせていただくことになって以 来、スイスのどこにでもある小さな村の資料を紐解くことが多くなったが、悲喜入り乱れた豊かな深層に、驚嘆することしばしば、ボンフォル村もその一つであ る。

1989年、偶然、鉄器時代(ハルシュタット初期)の土墳が発見され、アジョワ地方で最初に人間が定住した村と推測されている。ボンフォルという村の語 源はラテン語で「良き森」に通じるが、ケルト語では「粘土の豊富な場所」である。古来より陶器作りの盛んな村であるから、私としては後者を押したい。(し かも、ローマ人はケルト人の後に入植しているゆえ)


▲ボンフォルの池
四季折々、美しい顔を見せてくれる。

▲池周辺に集まる鳥のパネル
池の周りにある遊歩道には、様々な動植物に関する説明のパネルが設置されており、散歩しながら自然につ いて学べるようになっている。

ちょっとグロテスクな色使いだが、池に住む(または養殖されている)魚達。鯉のフライはこの村の名物。レ ストラン「Grütli」が評判の店。

▲ルーベンスが描いた
最後のブルゴーニュ王・シャルル突進公

知的戦略というよりは情熱の赴くまま無謀な戦争を繰り返したことからつけられた渾名。神聖ローマ皇帝に なりたいという野望があったらしい。彼の戦死後、娘マリーが神聖ローマ皇帝となるマキシミリアン一世に嫁ぎ、短命ながらも幸福な結婚生活 を送ったことで、魂は安らいだだろうか?

▲陶器作りの様子を表した絵画
かつては家内産業だった

ボンフォルの名は1136年、最初に文献に登場した。粘土・陶芸についての記述はもっと後になってから、1383年である。この粘土、ライン氷河の堆石 (モレーン)の賜物で、ジュラではここでしか見られない地層であるから、氷河はちょうどこの村で終わっていたと推定される。赤みを帯びたボンフォル粘土で 製造した陶器は、荒削りながら火に強い。特にフォンデュ鍋は一世を風靡した。現在でこそフォンデュと言えばチーズフォンデュなどスイス料理の代名詞たる料 理に使われるものと思われているが、フォンデュ鍋 = caquelon(カクロン)の語源はcaquelle(カケル = 焼いた土・テラコッタ)であ り、どの家庭でも様々な煮炊きに使っていた一般的な調理鍋だった。元々は三本足で、直火にくべた。質素で実用重視・丈夫なボンフォル製の鍋は1283年か らポラントリュイ・アジョワ地方の支配者となったバーゼル大公司教宮廷の台所で重宝された。

歴代バーゼル大公司教はこの村の池をこよなく愛した。自然の中で散策を楽しみ、狩猟という娯楽に浸った。この池に集まる様々な魚や鳥は、宮廷の食糧とも なった。この池は1961年、自然保護地域に指定されたため、現在では植物を採取したり動物を捕獲することは許されない。キャンプや焚き火も禁止。犬を放 し飼いにすることはできないので愛犬を連れて散歩の際はご注意を!

美しい池と森林を有し、村人は農業と陶器製造に勤しむ・・・一見、おとぎ話に出てくるような村にも、悲惨な歴史がある。
1474年、ブルゴーニュ戦争のきっかけは、この村も含めた、オー・ラン地方(Haut-Rhin)の悲劇が発端である。ブルゴーニュ王、シャルル突進 公の補佐官でオー・ランの代官であったピエール・ド・ハーゲンバッハは、Breisach市民の蜂起により、捕らえられ、正当な裁判もないまま処刑され た。彼の弟であるエティエンヌ・ド・ハーゲンバッハは、兄の仇とばかり、蜂起に加担した市町村を急襲。ボンフォル村もその犠牲となった。生き残った民は村 はずれに集まり、他村の協力も得ながら、新しい村作りに取り掛からなければならなかった。スイス連邦と同盟軍はフランス王ルイ11世と協定を結び、戦争に 突入。ブルゴーニュ王シャルルを倒すために3年を費やした。ブルゴーニュ公国南半分はフランスに併合され、北半分フランドルはシャルルの遺児マリーが神聖 ローマ皇帝の後継者に嫁いだため、ハプスブルグ領となった。

中世ヨーロッパを吹き荒れた魔女狩りの嵐は、小さな村をも見逃しはしなかった。1609年、魔女の疑いをかけられたある寡婦が首をはねられ、火刑に処せ られた。
1618‐1648年の三十年戦争では各国軍傭兵の現地調達・・・つまり略奪に苦しみ、他の市町村同様、大きな被害を蒙った。とりわけ酷かった1634 年、スウェーデン軍はボンフォル村を占領した挙句に焼き討ちし、数多くの住民を虐殺した。この時、12km離れたポラントリュイは「奇跡的に」暴虐を免れ ている。第18話「奇跡の聖母伝説」をご参照に。
1768年、水が抜かれていた大池からガスが発生、悪性の熱病を流行らせた。僅か数日間で宗教関係者を初め、60人が死亡した。多くの家々は腐り、閉鎖 された。
第一次世界大戦中、フランス・ドイツ戦線に近かったため、誤爆を受けた。しかし、ある仏・独バイリンガルのスイス兵の提案で、クリスマスの夜、フランス 兵とドイツ兵が村で一緒に夕食を取ったというような美談も存在する。

数々の困難を乗り越えたボンフォル村は、19世紀後半よりジュラの近代化・産業化と共に飛躍的に発展を遂げていったが、その後の痛々しいばかりの斜陽ぶ り・復興に向けての努力は次回お伝えする。

ポラントリュイだより: 陶器の村、ボンフォル(Bonfol)《その1》

ポラントリュイから15km。フランス国境が間近に迫る、どこにでもある小さな村。15年ジュラ州に在住していながら気にも留めていなかったボンフォル 村に注目し始めたのはつい最近のことだ。
2年ぐらい前か。一通のメールが舞い込んできた。沖縄在住のダニエル・ロペス氏。「本の注文をしたい。今、ボンフォルに里帰りしているから、良ければ手 渡し願いたい(そうすれば会って話もできるし)」という丁寧かつジュラ人らしい親しみやすさ溢れる内容だった。お付き合いの始まりである。写真家・平和活 動家・TVキャスターとしてジュラよりは沖縄では知られた存在のダニエルは、現在、沖縄の大学生である。彼の両親はボンフォル村で家庭菜園を営みながら悠 々自適の生活をしており、私達家族はダニエルの友人、そして日本人というだけで彼らにはお世話になっている。


▲西正道氏作、猪の「いがみ様」と「疾走君」
友好大使、そして新しい心の友でもある。

▲フェリシタスさんの特別展示会場
アトリエ兼住居の屋根裏部屋にある。一つ一つが個性的で色も美しい。

▲仕事中のフェリシタス・ホルツガングさん
ボンフォル陶器の将来は彼女にかかっていると言っても過言ではない。見事なまでに均一のコップ。

▲「水を吐くカエルと飲むカエル」
ジュラは各村にあだ名がついている。ボンフォル村は「ヒキガエル」写真は、フェリシタスさんのユーモア溢れる作 品。

▲ボンフォル村陶器博物館の壁」
このプレートもフェリシタスさんの作品。旧小学校を改装した建物であるが、有史以前から現在までのボ ンフォル・ジュラ陶器製造の歴史が楽しく学べる。フェリシタスさんの実演もあり。3月から10月の第一・第三日曜が公式の開館日だがそ れ以外でも予約による入館可能。

縁と閃きは背中合わせ。
二つ目の出会い。スイス個人旅行向け旅行会社「Let’s SWISS」の代表・樽見さんとは前年度から親しくさせていただいている。その彼が、今年の夏、ポラントリュイ・サンチュルザンヌ観光にもう一つ目玉を くっつけて、パッケージにした上でお客様にお勧めしたいので何か個性的な観光地はないかという相談を持ちかけてきた。私はふと、陶器で有名だというボン フォルの名前を出した。前出のダニエルとご両親に、間接的に恩返しをしたいという気持ちがあったのかも知れない。

そして第三の出会い。この秋、樽見さんのスイス来訪を控えた頃、日本から小包が届いた。見知らぬ方の名前で、少しドキドキしながら開封してみると、猪の 人形であった。(上部写真参照)送付主、西正道さんは、博多で陶芸を営む方である、来年(2007年)の干支である猪について調べているうちに、私が書い た「ポラントリュイ便り第17話・イノシシ伝説」に行き当たったそうだ。興味を持って下さった西さんは、ホームページへの小文転載を希望し、わざわざ貴重 な作品である猪の人形二体を、「日本・スイス親善大使」としてお送り下さったのだ。私は運命を感じた。「これはジュラを代表する伝統的な陶芸村・ボンフォ ルを推せという天啓だ!」と。西さんのホームページをまずご覧いただきたい。イノシシに関する記事だけでなく、私が送ったボンフォル関係の写真も掲載中で ある。

樽見さんがいらした2006年10月30・31日は、近年のスイスで最も美しい晩秋の日々であった。私達はボンフォル村中心部に位置する陶芸家・フェリ シタス・ホルツガングさんのアトリエと陶芸博物館を訪れた。

フェリシタスさんは中央スイス、シュヴィーツ州出身である。ベルンの芸術学校を終えた後、ジュラの陶芸家に師事し、結果としてボンフォルの伝統陶芸を後 世に伝えていく重要な人物となった。彼女は自作品の展示販売だけでなく、アトリエ近くに建つ博物館の館長として文化保存・促進に奮闘中である。また、ポラ ントリュイ市老人ホームで週に一度、陶芸を教えている。2007年1月にバーゼルで開催される中世関連のフェスティヴァルで使用するというコップ100個 の製造の手を休め、私達たった二人のために労を惜しまず案内をしてくれたフェリシタスさんの姿に、私は大いなる感動と共感を覚えた。活動を通じてジュラと いう出身地以外の土地に溶け込み、根を下ろし切った同志として・・・。

西正道さんのホームページ「博多陶遊窯」 http://homepage2.nifty.com/touyuu/
Let’s SWISSホームページhttp://www.letsswiss.com/
ボンフォル村公式ホームページhttp://www.bonfol.ch/
ボンフォル村陶器博物館のページhttp://www.bonfol.ch/rubrique.php3?id_rubrique=17 http://www.museesbeju.ch/index.php?template=view_musee.inc&uid=60

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その3》

ゴシック様式(世上建築編)

ゴシックと呼ばれる様式は、何も教会や宗教的施設に限って当てはめられるものではない。中世、豊かな市民階級=有産階級(ブルジョワ)と呼ばれる人々 は、当時の「流行」を自分達の所有物(家屋や調度品)に取り入れた。


▲ゴシック家屋が連なる旧市街
急角度の屋根、間口の狭さなどの特徴が顕著。窓は18世紀になってバロック様式に直されたものが多い。

ポラントリュイ市旧市街を例に取ってみる。建物の間口が狭いのが特徴である。都市が建設され始めた頃(13世紀以前)、建物の幅で税金がかけられていた ためである。道の上に現れる部分1トワズ(フランスの古い単位)=約1,95mが最小単位である。(1289年には約2,5mに引き上げられた)幅は狭 く、奥行き深い建物が連なっている。数軒毎に小路があり、建物の裏側や向こう側の通りと繋がっている。ここはかつて生活廃水を垂れ流しする場所であり、共 同便所であり、火災の延焼を防ぐ役割も兼ねていた。


▲ゴシックの典型、三連になった窓
ここは「Jolat(ジョラ)の家」と呼ばれる。16世紀半ば過ぎ、ある錠前職人がカトリック批判演説 をしていた宗教改革者を追い出したことで評価され、「ジョラ」という名前を与えられた上、有産階級に列された。つい最近に至るま で、子孫は錠前製造業を継いでいた。現在、一階部分はクリーニング店である。

▲切り石からできたらせん階段
これは城の内部で凝った造りだが、有産階級者もそれなりに立派ならせん階段を備えていた。

扉を開け、屋内に入ってみよう。廊下があり、左右の壁の向こうは居住区域。(現在は商店や事務所になっているところがほとんど)らせん階段があり、 2~4階の各部屋に行けるようになっている。(現在は貸しマンションとなっている建物が多い)階段は石造りであり、火事の際に焼け落ちないため、非常階段 の役割をも果たした。また、富の象徴でもあり、有産階級者はらせん階段所有を人々に知らしめるため、建物のその部分をわざと膨らませた。
そのまま階段を上りきると、屋根裏部屋に続いている。現在観光ガイド付きで一般公開されているRiat(リア)家では、屋上まで出ることができ る。ここからは表通りと違って手入れが悪く、かつては不潔さでペストやチフスの発生源ともなった小路が覗ける。家々から突き出た石の排水口が、用済みと なった今でも当時の形のまま残っている。

屋内に話を戻す。有産階級者家屋の典型的な造りに、露天の中庭がある。そしてその裏には家畜小屋。小屋からは例の小路に直接出ることができた。有産階級 者のほとんどは農業も営んでいた。彼ら(又は使用人)は朝、馬や牛を連れて城壁外にある畑に出向いた。冬の間は小屋に家畜を繋いでおけた。
小路を挟み、同様の造りの家屋が背中合わせにくっつき、並んでいる。都市の一番外側では、家屋の後ろに城壁があった。窓を大きく開けられるようになった のは1754年の条例以来である。それまではヨーロッパ列強の国々が戦争をする度に軍団の通り道となり、「現地調達」が当たり前であった傭兵達の狼藉や略 奪に苦しんでいた。そのため、城壁側の窓はなるべく小さく、そして閉め切られていたのである。


▲「リア家」中庭から店に続く
ゴシックの扉

1549年製造。元々は通りに面した正門であったが、18世紀、バロック様式が流行した時に取り外され、中庭 に入れられた。「主よ、この家と家に住むものにお恵みを」とラテン語で刻まれている

その他の特徴を挙げると、階毎に中庭を向いて付けられている、ギャラリーと呼ばれるバルコニー、そして井戸である。水源豊かなポラントリュイでは旧市街 の地下を水が流れており、井戸さえ掘れば一般市民でも自家用の水を汲み上げることができた。ただ、浅い井戸の水の中には雑菌が混じりやすく、ここもペス ト・チフス流行の原因の一つとなった。しかし当時の人々は伝染病を「外国兵がもたらしたもの」または「ユダヤ人の企み」と信じ込み、嫌悪と迫害を露にした のである。ゴシック様式流行の時代は、その意味では暗黒時代そのものと言えるかも知れない。

実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?


▲1569年建造
現在はZaugg財団に買い取られ全面改装中だが元は有産階級者の屋敷膨らんだ部分には勿論、富の象徴 「らせん階段」がある!

▲「世上」建築の最高峰はやはり権力者バーゼル大公司教ゆかりの建造物。
1590年、司教の中でも最も革新的と評価されたジャック・クリストフ・ブラレー・ド・ヴァルテンゼー(Blarer de Wartensee)が再建した城。
小塔を挟み、左側が邸宅、右側が公国の事務局である。扉はルネッサンス、窓上部はレジャンス様式、と時 代毎に流行を追って改築。
フランス革命軍が押し寄せてくる1792年まで代々、大公司教はここで宗教・世上、両世界において権力を振るった。

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