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2010年のバックナンバー

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その2》

ゴシック様式(宗教建築編)


▲サン・ピエール教会内部開口部のほとんどが尖頭アーチである。写真右下・柱に描かれている青い服の男性は聖・クリストフ。「突 然死からの守護聖人」である。朝、彼を見ると、その日突然死から逃れられると信じられ、早朝礼拝の折に後方の信者からもよく見られるよ うに大きく描かれたそうだ。忙しい皆様、どうぞ見て下さい!

永遠の隣人・フランスにおけるゴシック建築の誕生は、時代の流れと大きく結びついている。異民族の侵入や略奪の脅威がほぼ取り除かれた11世紀から12 世紀にかけて、農村部で大開墾運動が起こり、生産性が格段に上がった。食糧事情の好転は人口急増に繋がり、たった200年でフランスの人口は3倍以上、2 千万人を超えた。豊かになった農村地帯では労力が余り、都市部への人間の移動も始まった。

ロマネスク建築の教会が自然の中でのストイックな祈りの場、巡礼者が行き来する街道沿いの辺鄙な場所に建てられたのに対し、ゴシック建築の教会・大聖堂 が都市部に発達した一つの理由は、都市部に人口が集中し始めたことにも起因する。それまでの、身内だけの平穏な暮らしから数多くの他人に混じって暮らすよ うになったストレス・・・彼らは精神的な救いを祈りに求めた。

もう一つの理由は、発展した都市で台頭してきた市民・有産階級の経済力、そしてそれを利用して国内統一を目指す王・大領主の権力アピールの場としての建 築熱である。彼らは競って壮大で華麗な大聖堂を建てた。また教会は、文字が読めずラテン語を理解しない市民に対しても図解的に教義を説くことができる「巨 大な聖書」としての役割も果たした。現代においても、像やフレスコ画、壁や柱のレリーフに目を奪われる人間は、何も信者だけではないだろう。

ここまで述べてから、ふと気づいた。人間の本質というものは中世も、科学が発達し物が溢れた現代も、大して変わらないということを・・・


▲リブ・ヴォールト
ゴシック教会建築の大きな特徴の一つ。筋つきの交差丸天井。

▲教会の壁を支える飛梁(フライング・バットレス)
それほど派手ではないが、飾りではなく
薄い壁の建物が崩れないようにする機能的な役割。

ゴシック建築の特徴を、ロマネスクと比較しながら幾つかあげてみる
ロマネスクの半円アーチは、ゴシックにおいて尖頭アーチへと進化した。天により近づくため天井を上へ上へと高くするようになった。壁の外側からつっかい 棒のように支える飛梁(フライング・バットレス)の導入で、外に開こうとする力を受け止められるようになったからである。ロマネスクの場合は、壁を厚く し、窓をできるだけ小さくすることで倒壊を防いでいた。飛梁の発明で、壁は薄くて済み、大きなステンドグラスをはめる窓を開くこともできた。(注・飛梁= 控壁は既にビザンティン建築で使用されていた)
また、ロマネスク建築で度々使用されていた交差ヴォールト(丸天井)にリブと呼ばれるアーチの筋をつけた。(リブ・ヴォールトと呼ばれる)この筋は天井 を支えていると長い間信じられてきたが、今日の研究成果ではリブは天井を軽く見せるという意匠的・造形的な意図だったと考えられるようになった。
ポラントリュイの代表的な宗教的ゴシック建築は、1475年にサン・ジェルマンに代わり小教区教会となったサン・ピエールである。1321年から 1333年にかけて建築された後、改築を重ね、各時代の様式を取り入れながらも、内部は上記に述べた特色に忠実な、ゴシック色を濃く残している。


▲サン・ミッシェル礼拝堂内部
飛梁によって支えられている。この建築技術によって,
大きなステンドグラスがはめられる縦型の窓を
開けられるようになった


▲サン・ジェルマン教会
ロマネスク~ゴシックの過渡的建築物のゴシック部分。
正門は明らかなる尖頭アーチ。(第34話:ロマネスク様式 参照)

教会から南側に突き出したサン・ミッシェル礼拝堂は15世紀後半に完成、同名の信徒団体が惜しみなく財力を注ぎ込んだ、小さいながらもなかなか見ごたえ がある一角である。ここにひっそりと置かれている「奇跡の聖母像」については連載の第18回をご参照に。

教会では1978年から1983年にかけて、大規模な修復・改築工事が行われた。その際、内陣の華美過ぎるバロック調祭壇を取り除き、建設当時のスタイ ルに忠実な、ゴシック式へと改められた。さすがに傷みが激しいフレスコ画であるが、消えかかっている部分はそのままになっている。これは修復チームが取り 決めたことで、
「我々は当時の人間にはなり得ない。つまり、彼らの感性・芸術観にはほど遠い。よって、いくら真似たところで絵は再現できない」
という信念から来るものである。なるほど、と私は感じ入った。有名な観光地の大聖堂は何から何までキンキラキンのピッカピカ、昨日描いたかと思われるよう な美しいフレスコ画があったりするが、それはあくまでも後世、丹念に手を入れられたゆえんである。

実は「フェイクな」荘厳さに敢えてため息をつくか、または年月と共に消え、崩れ行く芸術に人の営みの儚さを重ねて無常感に打ちひしがれるか、貴方はどち らに心傾きますか?

ポラントリュイだより: 建築様式で追うPorrentruy《その1》

ロマネスク様式


▲サン・ジェルマン教会、内陣側の壁
写真上が欠けていて微妙な屋根の伸び具合が見られないが修道院と教会が合体したような不思議な造りである。 窓が小さい!

▲サン・ジェルマン教会内部
外陣から内陣を見て。非常に簡素である

敷き詰められた墓石を踏みつける度に心が疼く…

彫られた字が見えないほど古くなった墓も。日本の霊園と違ってあまり恐怖感はない?

▲ポラントリュイ城の
砦的役割を果たしたレフュ塔

1270年頃完成。以来700年以上…サン・ジェルマン教会を見下ろしながら建っている(こちらは ロマネスク様式ではなく「ローマ式軍事用建築物」)

他の多くの国と同様、ジュラ州に於けるロマネスク様式の建築物はほとんど残っていない。いずれも時代時代に応じた改築、または破壊を免れなかったからで ある。
ポラントリュイでは、サン・ピエール教会以前に町と周囲の村々の小教区教会だったサン・ジェルマン教会が唯一のロマネスク建築(正確にはロマネスク後期 からゴシック初期の過渡期的建築)である。
発掘調査結果によると、元々の教会は1000年前後にMoutier-Grandval修道院からの入植者によって建てられたらしい。彼ら修道士は当時 最高の教養を身につけており、布教活動を行うだけでなく、地域住民の教育や農地開拓の指導者でもあった。その後、教会は13世紀に建て直されおおよそ今日 の形となった。

ヨーロッパの歴史的背景を少し述べる。5世紀から10世紀中の、芸術や建築どころでなかった暗黒と混乱の戦争の時期がようやく終わりを告げた。また、人 々は世紀末思想~999年に世界は終わる~に怯え続けていたが、結局終焉は訪れることなかった。彼らは神の愛と加護に感謝し、各地で巡礼が盛んに行われる ようになった。また、その巡礼の道に沿って数多くの教会が建設されるようになった。
余談であるが、ジュラ地方の支配者の一人であったブルゴーニュ王ルドルフ3世は世紀末の恐怖に耐えかね、999年に自分が支配下においていた Moutier-Granval修道院及びそれに付随する土地をバーゼル司教・アダルベロン2世に寄付した。この世を滅ぼす天変地異はついぞ起こらず、も しかしたらルドルフ3世は損した気分ではなかっただろうか?
ちなみにこの贈与でバーゼル司教は膨大な支配地域を獲得し、それは一つの国家の誕生と見なされた。1792年まで続くバーゼル司教公国の前身である。

建築技術がそれほど発達していないロマネスク建築様式の特徴は、時には1mを超える分厚い壁と、小さな窓、そして半円形のアーチである。石の半円形天井 は構造的に外側に開く傾向があるため、崩れやすい。そのため、壁を厚くし、窓もできるだけ小さく開けたのである。また、後に都市部を中心に発達したゴシッ ク建築の教会と違い、自然の中での祈りの場として選ばれたため、山間部や森林、川べりといった僻地、田舎に建てられた。
サン・ジェルマン教会はゴシック初期への過渡期に建てられたため、建物の屋根は微妙な角度で上に伸びている。ゴシックの計算され安定した尖り具合に懸命 に近づきつつある、という少し微笑ましい趣である。建物の幅は最大で60cmの差(技術的ミス?)がある。
教会への入口扉と内陣へ入る開口部分は柔らかな角度の尖頭形であり、やはりゴシック初期への移行を示している。
この教会はポラントリュイの城壁外にあるため、有事の際に守り切れないということで小教区教会は1321-1333年に城壁内に建設されたサン・ピエール 教会に移った。(1478年)サン・ジェルマン教会自体は1427年に北側にチャペルが加えられて拡張、1698年に5m余り外陣(=人々が祈る場所、特 に中央の身廊)が伸ばされた。16~18世紀にかけて回廊には石灰岩の墓石が敷き詰められた。1960年の修復時には幾つもの壁のフレスコ画が発見され、 17世紀に描かれたものと推測される。霊園は手狭になったため、1884年を最後に埋葬は行われなくなった。

地理的条件から観光コースには含まれていないため、訪れる観光客はめったにいない。現在、定例ミサは日曜の18時からここで行われている。町の中心から は少し外れているが、出席者は意外と多い。ポラントリュイで最も古い建築物の簡素で厳かな雰囲気は、夕方の静かな祈りにより適しているからだろうか。翌 日、月曜から新たに始まる日常の憂鬱をしばし忘れるために・・・。

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その4》

「l’Hôtel des Halles」(旧中央市場)


▲「l’Hôtel des Halles」
正面壁はポラントリュイ南東部のVoyeboeufという場所で取れる石灰岩の切り石で構成されている

▲ネオ・ゴシック風・半円アーチ天井が組み合わされた美しい内部
ここに続く中庭を経て反対側の通りに出ることができる

▲旧中央市場と隣の建物を分ける細い路地
火災の際、延焼を防ぐ役割も果たした

▲財力に物を言わせた有産階級者の館
窓飾りの数は御向かいさん、大公司教自慢の中央市場より多い!(1768年完成)

1283年早春、時のバーゼル司教アンリ・ディズニー(Henri d’Isny)は気が気でなくなった。ポラントリュイを含むアジョワ地方に、ブルゴーニュ王ルノーが押し入ってきたからだ。ルノーは、46年間バーゼル司 教と平和にポラントリュイ市を共同で統治していた亡き大領主ティエリー三世(Thierri III de Monbéliard)の孫娘の婿。だからといってこんな横暴は許されるはずがない。困った司教は、親しい仲である神聖ローマ皇帝・ハプスブルク家のルド ルフ一世に助けを求めた。友人の危機に、皇帝はすぐに援軍を差し向け、3月2日に町を包囲。6週間後の4月16日、ルノーは退却し、支配地域をすべてバー ゼル司教に返還した。
その僅か4日後である4月20日、ルドルフ一世はコルマールと同じ権利を所有した「自由都市特許憲章」をポラントリュイに授与した。つまりポラントリュ イは神聖ローマ帝国の保護下にあり、バーゼル司教を領主とするが、独立し自治を行う一つの町としての権利を獲得したのである。

都市として認められるには、城壁の存在、刻印の保持、そして市場の設置という3つの条件が必要だった。防衛能力、政治的そして経済的基盤を求められたの である。この憲章により、ポラントリュイは毎週水曜日に市を開くことと、年4回の定期市を許された。市場では穀物、食料品やその他の物資が売られ、市は秤 を貸し出した。スイス各州、ヨーロッパ近隣諸国やバーゼル司教区など、60数種の通貨が使用された。

時は流れ、バーゼル大公司教としては初めてのフランス語圏出身者、モンジョワのシモン‐ニコラ(Simon-Nicolas de Montjoie)が就任した。旧体制下のポラントリュイが最後の輝きを見せる時代、そしてフランス語圏出身とあって、この大公司教はなかなか人気があっ たらしい。
「私はモンジョワ(=喜びの山)のシモン‐ニコラ。皆に喜びを持ってきた!」 と宣言したとか。

彼は前大公司教リンクの仕事を引き継いで病院と市庁舎を完成させた後、1551年建造の古びた中央市場を壊して最新様式に建て替え、自分のものとした。 建築家は同じ、ピエール‐フランソワ・パリ。1766年から作業は始められ、1769年に完成。新古典様式の建物正面は、パリ(=フランスの都)視察旅行 で大いに影響されたパリ氏の最高傑作である。合計4つの建物には商人が売買を行うホールや市の計量管理所、政府の穀物貯蔵所が入った。ビリヤード場や劇場 もあったらしい。また、アパート(使用人の小部屋が隣接)が12部屋ほど用意された。大公司教が城に客人を泊め切れなくなった場合の予備の部屋である。
この豪華な市場を見て羨ましくなったか、向かいの家の所有者であった有産階級者は、パリ氏に依頼し、ほぼ同時進行で自分の家屋を改築してもらった。(そ のために司教の怒りを買ったという話はないが)

完成からわずか13年後、フランス革命の余波がポラントリュイにも押し寄せ、モンジョワ亡き後の大公司教ロッゲンバッハは町から逃亡。翌年、コンスタン スで他界した。バーゼル大公司教所有の建物はすべて革命軍に押収された。モンジョワ絶頂の証、旧中央市場は革命政府や共和国の国民議会場、ナポレオン政府 下ではフランス国オーラン県の郡庁として転用され、スイス国ベルン州に併合された後は裁判所と警察が設けられた。1979年のジュラ州独立まで支配の象徴 として機能したのである。
1990年代の修復後、美しい壁の白さを取り戻した建物には、ジュラ州立図書館、古生物学事務所、美術ギャラリー、多目的ホールなどが入り、自由市民の 知的空間を提供している。

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その3》

「l’Hôtel de Ville」(市庁舎)


▲1940年10月31日アジョワ暴動の首謀者
ピエール・ぺキニャ処刑の絵(第20、21話参照)

右端の建物が旧・市庁舎。玄関部分に屋根付きの階段が見える。

▲現在、バロックスタイルの市庁舎
正面壁に使われた黄色い石はBourrignon村(Porrentruyから車で20分ほどの距離)の石切り 場から。

▲市庁舎の玄関を入ったところ

▲玄関扉の上から覗くミネルヴァ=アテネ女神
ここに出入りする市長と議員に英知を授けて下さいますようにという意図か?

時のバーゼル大公司教、バルデンシュタインのジョゼフ=ギョーム・リンクは、自分の居住地であるポラントリュイを、「小さなパリ」にしたかったのかも知 れない。室内が暗くカビがはびこり衛生的とは言えないゴシック式の古い市庁舎は、司教の命により、バロック式の優美な豪邸へと変貌を遂げた。

当時の絵画上で見られるように、旧市庁舎の階段部分は通りにはみ出している。改築後、市街の建物は一列に並んだ。建築家はピエール=フランソワ・パリ 氏。建築期間は1761~1764年。先述の病院と、同時進行で作業を行っているのだから建築家の才能は元より、大公司教の財力は相当なものと想像するに 容易い。リンクはこの二つの建物の完成を見ずに亡くなっており、後任のモンジョワが小パリを謳歌することになる。しかし、第32話の主役は大公司教ではな い。

改築前の市庁舎は、14世紀建造で、元々は有産階級者の館として建ち、城壁の一部だった。1413年にヌーシャテルに注文した銅製の鐘(現在の市庁舎の 小鐘楼内にある)は、この地方で最も古いものである。鐘は町に危険が迫った時、すなわち戦争や犯罪を市民に知らせ、犯人が処刑される時の告知にも使われ た。

一階は武器庫として使われていた。自由都市の実質運営を一手に引き受けていた有産階級者は、有事の際には騎士となり、敵と戦うのである。二階は会議室で あったが、台所と隣接し、しばしば大宴会場となった。宴会は議員やその伴侶のためだけでなく、町の有産階級者の婚姻時にもここで開かれた。誓約書宣誓の度 にはすべての有産階級者とその伴侶が招かれ、その数は150~200人にも及んだ。

宴会について面白い逸話がある。酒蔵がなかったため、ワインは買い置きせず、そのつど酒屋に必要なだけ買いに行っていたという記録がある。
現在ではまったく当たり前にように出される食器類は、中世では貴重なものだった。この市庁舎では錫製の皿が100あまり、大皿が50ほど用意されていた が、それは身分の高い者用で、下層民には木製のコップや皿が出された。会食者全員に皿が行き渡らないこともあり、その場合、男性は隣の貴婦人と皿を共有し た。女性が意中の人であった場合、男性は緊張と遠慮のあまり、食欲を忘れたのではないだろうか。
料理用の野菜は菜園に豊富にあった。肉は雌鹿や野ウサギで、その他の肉は肉屋に注文した。大公司教の来訪の折は雌鹿料理でもてなした。

ポラントリュイはバーゼル司教公国に属していたため、絶対君主は大公司教であったが、町は実質、有産階級者が牛耳っていた。市場が開く一時間前に市庁舎 のバルコニー上に小さな旗が上がったが、それは有産階級者が優先的に買い物をしてもよいという知らせであった。

こう書いていると、有産階級者や市会議員は贅沢ばかりしていた感はあるが、組織が秩序化され結束していたことで、後世に伝えられた資料は非常に貴重で、 中世の生活を細かく知る大きな手がかりとなる。この市庁舎に設けられた有産階級古文書室にはヨーロッパ最古の洗礼記録がある。

1481年12月26日。出生日は分からないが、中世では洗礼を受けずに死ぬと天国に行けないと固く信じられていたので、赤ん坊はクリスマスからそう遠 くない日に出生していたのであろう。ちなみに1482~1500年の記録では、男の子に一番多い名前はジャン(Jean)(キリストの十二使徒の一人、ヨ ハネ)で男子全体の30%、女の子はジャンヌやジャネット(Jeanne, Jeannette)(ジャンの女性形)で女子全体の21,8パーセント、現代のようなバラエティに富んだ名前は見当たらない。排他・嫌悪の対象となった ユダヤ教徒を除き、国がカトリック一色に塗られていた時代でもあった。

ポラントリュイだより: Porrentruy四大「ホテル」《その2》

「Hôtel-Dieu」後編


▲「CHRISTO IN PAUPERIBUS」
「貧しき者の中のキリスト」という意味。実際、「老いた貧しき者」は入院を拒否されることが多かったが・・・。鉄柵は1765-66年製、当時の売れっ子錬鉄職人Fromknechtによるもの

▲聖マルト会の修道女によって病人は介護された。

▲長い修道服の裾をたくし上げなくても上がれる階段
現在高校がある元・イエズス会の修道学校も同様の上がり幅の低い階段である。

▲1847年製の薬局

病院経営は、有産階級者の寄付によって潤った。しかし、フランス革命以前の旧体制下(ancienne régime)では、お世辞にも民主的とは言えない病院であった。なぜなら、入院は有産階級者優先で、次にポラントリュイ市の人間、そして外部者という順 位付けがあったからだ。また、有産階級者でない老人は、「寄付の見込みがない」ことから門前払いを食らうことが多かったようだ。ちなみに当時のベッド数は 30ほどだった。

看護の人間は聖マルト会の修道女が担当した。この修道会は15世紀にフランスのボーヌ(Beaune)にて設立され、修道女は市の病院にて献身的な看護 を数百年に渡って続けてきた。彼女達のうち三人がポラントリュイに呼び寄せられたことが始まりである。看護者数はその後、順調に増えた。有産階級者の娘を 対象に公募も行われた。選ばれた女性は二年間の修練期間を経た後、修道会入りした。

旧体制下の病院は、宗教施設として見なされていた。薬草がせいぜいで、現在で言う「薬」による治療はまだ行われていなかった。病院は「魂を救い、身体を 養う」場所であるから、体を休めつつ祈りと信仰に忠実な生活を送ることが回復に向かう一番の療法とされた。

二階の中央に礼拝堂があり、窓を開け放ってミサを行った。動けない病人も自室の窓を開ければミサを聴くことができた。フランス革命まで、実に、年に 572回ものミサが上げられた。礼拝堂付司祭は、1870年まで、会計係と医師よりも高給取りだったという。

1792年、ポラントリュイ市はフランス革命軍により占拠され、以来、1814年までフランス国の一部となったが、この期間、初めて近代医学が導入され た。薬局は1847年、ポラントリュイの高級家具職人Jean-Baptiste Carrazによって作られた。カエデ、コナラ、プラムやマツの木などが使われている。修道女はラテン語を読めなかったため、241ある薬の瓶(ガラス製 と陶製)と引き出しの表示はフランス語である。

この建物は拡張工事を続けてベッド数を徐々に増やし、1956年まで病院として使われていた。現在は上記の薬局や市の貴重な文化財が収められている博物 館、図書館、観光局、文化局などが入っている。時代を経て役目は変わったと言えど、依然として町で一番の美しさを誇る文化施設として大いに機能し、市民生 活に役立っている。

Mes remerciement particuliers s’adressent a :
Monsieur Pierre-Yves Donzé de Porrentruy, l’auteur de
《L’hôpital bourgeois de Porrentruy 1760-1870》

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