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2010年のバックナンバー

一年がかりの結婚式 その1

日本においても外国人との結婚が珍しくない今日この頃、「国際結婚」という言葉はいささか陳腐な気もします。四方を外国との国境に囲まれたスイスには、あ りとあらゆる国籍の外国人が出入り、在住し、当然、「国際結婚」は特別な行為ではありません。しかし、その手続きとなると、ずばり、面倒くさいものです。 スイスは市町村によって手続き方法が異なったり、審査の厳しさにも差があり、事前に確認が必要です。


▲和やかな入籍の手続き
いつも冗談を飛ばす義理の弟が保証人としてサイン中

当時、私達の周りには日本―スイスという国際結婚の夫婦が皆無で、結婚を決意したものの、何をどうして良いかすぐには分からず、全くの手探り状態でした。 とにかく州の戸籍係のエライサンの所に行けば分かるだろうと面会予約をして直接会い、必要な書類について教えを請い、前後して州都ベルンの日本大使館にも 連絡を取りました。また、彼の戸籍がある村の共同体事務局に行き、私のパスポートに「メルベリエ村に92年9月1日,“観光客として到着”」とスタンプを 押してもらいました。これが「婚約者ビザ」としての効力を発揮し、六ヶ月間婚姻無しで在住できることになりました。(学生や就労ビザ無しでの日本人のスイ ス滞在は三ヶ月と限定)

1993年2月11日、私達は村役場に「結婚保証人」と共に赴きました。この保証人は、普通、身内や親しい友人の中から男女各一名を選びます。私達の場 合、夫の妹とその恋人にお願いしました。(彼らは当時同棲状態でしたが、時期が来れば結婚するだろうという確信があったので)入籍に立ち会う方は戸籍係の 責任者ですが、小さな村ゆえに家族全員と知り合いで、和気あいあいと進行しました。妻と夫の身分(出身や独身であるかどうか)を確かめた上で、結婚につい ての規則を読み上げ、巨大な台帳にサインして入籍完了。全員の祝福を受けます。その後は家族だけでレストランで食事。奮発して「シャトーブリアン」という 分厚い牛ヒレ肉のステーキを食しました。

私達夫婦の結婚生活の第一歩が踏み出されたわけですが、これはほんの序章。同年7月31日、教会での式とレストランでの披露宴が本当の意味での結婚となり ました。


▲結婚式
19世紀半ばに建立された教会にて

スイスの結婚式は「手作り」です。伝統的な式を希望する場合、結婚する本人達が何ヶ月も前から計画を練ります。 まず、教会の予約。そして挙式を担当してくれる神父さんとの打ち合わせに入ります。 夫の一家は全員洗礼を受けたカトリック教徒ですが、それほど凝り固まっているわけではなく、カトリックでない私や父母を配慮して「聖体拝領の儀式」(分か り易く言うと神父さんが小さな丸いおせんべいみたいなものを信者の口に入れる、あの儀式です)を省いた式にしたいと申し出ました。神父さんの表情からは若 干、不本意さが読み取れましたが、異教徒同士の結婚もごく自然な現象になった今、時代の流れには逆らえないと思われたのか、すぐに柔軟な姿勢を示してくれ て、結局、私達の希望通りの簡素な式となりました。(ちなみに夫の父母の時代までは、同じキリスト教徒のカトリックとプロテスタントの結婚さえ、親族・外 野入り乱れてかなり物議をかもしたらしく、どちらかが改宗させられることもあったそうです)

スイスの暖かい家族

イギリス留学から10年以上経てみて、あの頃、学校で付き合っていたカップルはどうなったのだろうと考える時があります。風の便りでは各々の国に帰り、別 々の道を歩んでいるとか。今や国際結婚は珍しくないとはいえ、文化や生活習慣の違いを乗り越え、互いの愛情を揺るぎないものに確立するまでは数々のハード ルを越えなくてはならず、憧れだけでは到底全う出来ません。私の親友だったサウジアラビアの女の子は日本人の男の子と恋に落ち、「日本で一緒に暮らす」と まで考えていたようですが、日本の家族の反対にあって二人の気持ちが崩れ、結局別れました。ちなみに彼女はその後、イギリス人男性と結婚し、ロンドンで一 男の母となって幸せに暮らしています。


▲Marquis家の食事風景
左から、Roger、父、母、妹、妹の恋人(現在の夫)

さて、スイスに到着した私は、まず恋人の家族の家に招待され、クリスマス・イヴから10日ほど、一緒に休暇を過ごさせていただきました。ここでまず第一の 難関がやってきます。嗚呼、フランス語!

英語にはちょっとばかり自信があった私も、フランス語は「こんにちは」と「ありがとう」等の挨拶用語、そして自分の名前を言うのがやっとの状態でした。フ ランス語を勉強した方はお分かりだと思いますが、「R」の発音は日本人が全く使わない喉の一部を鳴らさなくてはなりません。それも含め、きちんと発音しな いで単にカタカナ風フランス語でコテコテに単語を並べてもきょとんとされてしまうだけです(または分からないふりをされるという悲しい目にも遭う……世間 の風は冷たいのです)。

恋人の名前は「Roger」。苦手なRがしょっぱな。イギリスでは英語風に「ロジャー」と呼んでいましたが、彼の家族が別の発音で呼んでいることに軽い ショックを受けました。


美男子の老犬ノッピとRogerの実家のテラスで▲
(1994年他界・享年11歳)

家族は英語をほとんど解しません。彼が通訳してくれているうちは良くても、トイレにでも立ってしまうと、途端に居心地が悪くなりました。また、彼自身が会 話に熱中し過ぎて通訳を忘れてしまう……その間、ただニコニコ愛想笑いをしているという辛さ。しかし、そんな異邦人の私を、家族は「Rogerの恋人」と いうだけで暖かく迎えてくれました。言葉が分からなくても一生懸命話しかけてくれる、スイスの暮らしは不自由ではないかと気を使ってくれ

Salut! ハイジの国から【第1話】

筆者の経歴~運命の英国留学

六稜WEBの皆様、こんにちは。マルキ明子(97期)と申します。今回よりWEB上で連載を担当させていただくことになりました。どうぞよろしくお願いい たします。

「小説を書いています」と言ってもまだまだ駆け出しの身。「知らんなあ。あんた、何者?」というお声が聞こえてきそうなので、自己紹介をしながら綴り始め てみたいと思います。

1966年、大阪生まれ。北野高校を卒業後、同志社女子大学英文科にて英文学を専攻。その後、住友信託銀行に勤務しましたが、バブル絶頂期に魔が差して退 職。その二週間後には憧れの地、イギリスの土を踏みました。ケンブリッジ英検に受かって自信をつけて帰国し、銀行時代にはとんと縁が無かった「英語を使う 仕事(かなり具体性には欠けますが)に就くんだ!」という希望に燃え、ステップアップのための語学留学でした。

ところが学校初日に昼食を共にしたスイス人男性と段々親しくなり、留学中の楽しみとして「おまけ」の筈の恋愛が大いなる人生の分岐点となり、帰国どころか そのまま後を追ってスイスに渡ってしまうという大波乱(自分の名誉のために言い訳しますが、英検は優秀な成績で受かりました)。1991年12月のクリス マス・イヴからスイス在住の身となりました。


▲未来の夫と共に語学学校前にて
結婚してスイスに住むとは夢にも思って
いなかった無邪気な笑顔の私と、日本人
妻を持ち苦労する羽目になるとは知らず
に照れるRoger

留学中の出来事について少しお話します。

留学先はWoking(ウォキング)という、ロンドンから電車で40分ほどの小さな町。後で分かったことですが、英語圏の留学人口の大部分はスイス人と日 本人。確率的にもくっつく可能性が高い、というわけです。実際、私がスイスに来て友達になった日本人女性のほとんどは、イギリス・オーストラリア・ニュー ジーランド・カナダ等の語学学校で知り合っています。

私と「未来の夫」がいた学校も御多分に漏れず、日本人、スイス人、スペイン語圏の人間(本国と南米)、アラブ語圏という順番の人種配布でした。当然、同じ 語圏同士で固まるという、留学生として実にけしからん状況になるわけですが、出来るだけ避けたかった私は(自費留学でもあったし)日本人の友人とサウジア ラビアから来た女性の三人で行動し、ずっと英語で会話をしていました。一方、未来の夫は自国の女の子とばかりつるんでいたのですが…。


ディスコパーティは世界を繋ぐ▲
出身地は様々。日本、韓国、メキシコ、アルゼンチン、
エクアドル、イタリア、スペイン、イエメン、サウジア
ラビア、スイス。サッカーワールドカップも開けそう?

学校はレンガ造りの豪邸を改築した建物で、校長先生以下、事務長・教師全員が女性。授業は上級クラスで英検を目指すクラスほど厳しくなりますが、学校全体 の雰囲気は柔らかくて品が良く、一つの家族のように和気あいあいとしていたことを覚えています。遠足やディスコ・ホームパーティなど学校又は生徒主催のア クティヴィティが盛んで、気をつけないと勉強が疎かになってしまうほど楽しい毎日でした。この数々の「催し」を経て、カップルがどんどん誕生していく…。 その中の一組が私達でした。

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