2018年8月 のアーカイブ

第十回 ミャンマーと日本との繋がり (3) ビルマ占領

 突然ですが、左の写真は、ミャンマーの民族服であるロンジー(腰巻)とシャツ、上着(タイポン)を着ている私です。(背景は、私が最後の駐在中の2015年に勤務していた首都ネピドーのオフィスです。)正に暑いミャンマーの気候に適した服装で、素足に草履で、このロンジーを穿いていると、意外に涼しく感じます。日本人がこの服装をしていると、客先や官庁のミャンマー人の方々が、それだけで、とても喜んで下さるということもあり、私は日常、こういう姿をしていました。

さて、今回から暫らくは、太平洋戦争の前後を含めた1940年代の、ミャンマーと日本の深い繋がりについてお話します。

ミャンマー(当時の英領ビルマ)は、日本軍にとって、戦略上、極めて重要な場所でした。蒋介石率いる中国との泥沼の戦いを打開していくためには、連合軍がビルマ北部を通じて中国に援助物資を続々と運び入れている、いわゆる「援蒋ルート」を遮断することが必須でした。日本軍は1941年12月末にビルマ侵攻を開始。その準備の一環として、ビルマ独立運動のリーダーであったアウン・サン(現政権の事実上のトップであるアウン・サン・スー・チー女史の実父)を筆頭とした「30人の志士」を占領中の海南島で訓練し、彼等がビルマ独立軍を設立して、日本軍と共に戦ってイギリス軍を追い出し、それが現在のミャンマー国軍に繋がっています。その証拠に、ミャンマー国軍では、今でも、「軍艦マーチ」が頻繁に演奏されているのです。

後に、日本軍の敗戦が決定的となり、タイ国境に向けて逃走していく最中の1945年3月27日、その独立軍は、対イギリスとの関係上いわばぎりぎりのタイミングで日本軍に反旗を翻しましたが、一方で、多くのビルマ人達が、敗走中に倒れた日本兵士達を匿ってくれました。その3月27日が、現在のミャンマーで「国軍記念日」の祝日とされていて、ミャンマーの歴史の教科書にも、侵略者「ファシスト日本」と書かれていることは事実ですが、それは仕方の無いことでしょう。実際には、その後の様々な不幸な出来事を知りながらも、上述のビルマ独立軍誕生の経緯が、日本とビルマ(ミャンマー)の繋がり・友好の始まりとして、ミャンマーの人達に長く記憶され、現在の極めて親日的な国民性に繋がってきているのです。

その親日性が発揮された例として、まず、1948年の独立直後から、食糧不足に苦しむ日本の米の買い付けに好意的に応じ、また、1952年に始まった戦後賠償の交渉においては、真っ先に妥結して、その後の他国との賠償交渉上「低め」の相場を作ってくれました。1962年以降、「ビルマ式社会主義」を掲げて、かなり鎖国的な外交・経済政策を進めてきた時期においても、日本に対しては決して外交を閉ざさず、そして、日本が急速に発展しビルマが貧困化していった時期においては、日本からのODAを常に積極的に受け入れてきたのです。

次回は、戦争中のことに話を戻して、ご説明します。

 

 

 

第九回 ミャンマーと日本との繋がり (2)蒙古襲来

今回の写真は、現在のミャンマーの国土の大半を支配したという意味での最初の王朝であるパガン王国(1044~1287年)が残した、仏塔遺跡群です。この遺跡は、2015年に、NHKスペシャル「アジア巨大遺跡」にて詳細に紹介されましたが、王侯貴族だけではなく、民衆も含めて財を投げ打って建造したパゴダ(仏塔)が、現在でも約3千も残っています。そして、10年間に亘る激戦の後に、遂にこのパガン王朝を滅ぼしたのが、元のフビライハンが派遣した軍隊でした。

私は、2007~2008年にも、当時駐在していたベトナムのホーチミンから、「ホーチミンの街角から」と題して、この六稜ワールドアイに投稿しており、その中で、元の10万人の大軍を三度撃退したチャン・フン・ダオ将軍のお話をしました。その中で、「もし将軍が途中で負けていたら、元軍は、(文永・弘安の役だけでなく)もう一度日本にやってきて、ついに日本を占領していたかもしれない。そういう意味で、我々日本人は、ベトナムに感謝しなくてはならない」という趣旨のことを申しました。そして実は、それとほぼ同じことが、このパガン王国についても言えるのです。1277年、最初に元軍が攻め込んできた際から、1287年に、遂に都であるパガンを陥落させられるまで、足掛け10年に亘り、パガン軍は、象に乗って大いに奮戦しました。(なお、最後に折角征服した元の軍隊は、パガン地域の余りの暑さに音を上げて、占領軍を駐留させることなく、中国に戻っていってしまうのですが。)いずれにせよ、フビライハンは、亡くなる直前まで日本に対して怒り心頭であった由ですから、もしパガンの場合が、10年持ちこたえずに、もっとあっさり滅ぼされていたら、元軍が、作戦を練り直して(例えば、台風の無い時期を選んで)もう一度日本にやってきた可能性は大いにあったのです。

ベトナムでは、米国とのベトナム戦争の生々しい経験からでしょうが、今、かなり若い人達でも、「ベトナム人は世界一戦争に強い」という誇りを抱いていたりしますが、ミャンマーでは、イギリスに植民地にされたトラウマが消えていないので、そういう意識はありません。とはいえ、ミャンマーとタイは歴史上20回以上交戦して、ミャンマー人は「一度も負けていない」と理解していますし、現に、かのアユタヤ王朝を滅ぼしたのはミャンマーです。(逆にタイ側では、16世紀に、病気の夫に代わって象に乗ってミャンマー軍と奮戦し戦死した、アユタヤ朝のスリヨータイ王妃が、国民の「悲劇のヒロイン」として、今も大人気。つまり、ミャンマーが敵役です。)そして、1765~1769年においては、清の歴史の中でも最強と謳われた乾隆帝の派遣した軍隊を、撃退し続けています。ミャンマー人との雑談の中で、その辺りのことを讃えると、結構喜んで貰えます。

次回は、太平洋戦争における日本とミャンマーの関わりについて、申し述べます。

 

 

 

 

第八回 ミャンマーと日本との繋がり (1)言葉の類似性

それでは、今回から、ミャンマーと日本の様々面での繋がり(歴史上の深い関係や、国民性の類似点等)について、少しずつご説明してまいります。まずは、言葉の類似性です。

左の写真が、見難いかもしれませんが、ミャンマー文字です。左側の表の33個の文字は、夫々、特定の子音(最終行右端の文字は母音)を表しています。例えば1行目の左端の文字は、それだけだと「カ」と発音しますが、右側の手書きの通り、それに小さな記号を加えることによって「キ」、「ク」、「ケ」、「コ」になります。(高平、低平、下降の3通りの声調があるのですが、ここではその説明は省略します。)こういった文字の仕組みは、南インド起源で、現在、ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアの4か国(つまりは、上座部仏教の国ぐに)で使われています。

しかし、文法においては、ミャンマー語は、タイ・ラオス・カンボジアの言葉とは大いに異なっており、実は、特に語順と、助詞が重要な機能を持つことにおいて、日本語にとても良く似ています。英語では I  love  you.という文の語順を換える余地はありませんが、日本語では、「私はあなたを愛する」と「あなたを私が愛する」のどちらでも意味が通じますね。ミャンマー語も同じです。もっと大きな類似点は、英語で言えばNOTに相当する、否定を示す語が、文の最後近くになって現れる(つまり、何かをするのか、しないのかは、文の終盤にならないと判らないことが多い)ということです。

そして、重要なことは、ミャンマー人の場合、ともすれば、言い難いことは、はっきりと言わずに済ませようとするのです。例えば、「風邪でつらいので、早退したい」の内、前半の「風邪で辛い」の部分しか言わない。(この傾向は、ミャンマー人が英語で外国人と会話する時にも、明確に現れます。)第一回で、「とにかく断るということが苦手な人達なので」と申しましたのをご記憶でしょうか。要は、言わなくても察して欲しい人達なのです。我々日本人にも、ある程度そういうところがあるなあ、と思って頂ける方々も多いでしょう。だからこそ、日本人は、そういったミャンマー人の心情、ひいては国民性を、比較的早く理解できる訳です。

敢えて申しますと、大半のミャンマー人は、言い難いことを言わずに済ませようとする時にも、微笑みを絶やしません。日本人は、それを、「笑ってごまかそうとしている」と受け取り、表情が険しくなり、そのミャンマー人が益々本音を言えなくしてしまいがちです。或いは、往々にして、「自分の依頼を快く了解してくれたのだな」と、誤解してしまいます。

以前にも申しました通り、ミャンマーの人達は、もともとNoと言うのが苦手です。彼等が、上述の通り、重要なことでも、なるべくなら明確に言わずに済ませようとするミャンマー語で話す内容を、ミャンマー人の通訳に直接日本語に訳して貰うのを聞いているだけでは、相手の真意を誤解してしまいがちです。これは、ミャンマー在住期間の長い人達の中でも意見の分かれるところですが、私は、ミャンマー人と重要かつ複雑な「交渉事」を行う際は、直接英語で会話するべきである、という信念を持っています。外国人との交渉の当事者となるようなミャンマー人は、高校・大学で大半の教科を、英語の教科書を使って勉強してきていますので、たとえ英語を話すことは苦手でも、聞き取ることと読むことは、ほぼ大丈夫です。ミャンマーの場合、国際的な契約を英語で行うことが常識になっていますので、その為の交渉も英語で行うのが、むしろ自然なことなのです。日本側の交渉当事者が英語が苦手な場合でも、日本人のミャンマー語の達人に日本語をミャンマー語に訳して貰うよりは、英語の達人に英語に訳して貰うことの方をお薦めします。くどいようですが、「交渉事」に、ミャンマー人の通訳を起用してはならない、というのが私の考えです。

次回は、ミャンマーと日本の、歴史上の深い繋がりについて、ご説明しましょう。

 

 

 

 

第七回 長幼の序

今回の写真も、前回と同様、ポプラ社の「世界の国ぐに20 ミャンマー」から抜き出したもので、ミャンマーの小学生達です。素晴らしい笑顔でしょう。南国ですので、全体として肌の色が日本よりも濃いですが、顔つきは、日本人と良く似ている人が多いです。頬っぺたにぬっているのは、「タナッカー」と言って、ある柑橘類の木を削って粉にしたもので、おしゃれの一種ですが、肌を守り、ひんやり感じるようです。

さて。私が実際に二度体験したことですが。ミャンマーでは、今でも、お年寄りの運転手が、交通ルールの違反で、若い警官につかまっても、大抵の場合、「気をつけて下さいね」の一言で済んでしまうようです。今回は、何故そうなるのかについて、ご説明します。

日本では、会話している相手への敬称として、普通、改まった状況では「様」を、普通の状況で敬意を表すべき人や、自分より若くても女性には「さん」を、自分より年下で立場も下の男性には「君」をつけますね。親しい友人同士や、職場の仲間で気の置けない人には、敬称をつけずに呼び捨てすることも多いですし、かえって、そうしないと、なにかよそよそしい感じを与えてしまうこともあります。また、例えば、オーナー企業の社長さんが、年上の専務さん(いわゆる、番頭さん)を、敬称をつけずに呼ぶことがあっても、そう嫌な感じはしないでしょう。

ミャンマーでは、敬称無しで人の名前を呼ぶということは、まずあり得ません。男性相手であれば、自分より立場が上か、或いは、立場がかなり下でも1歳でも年上の人に対しては、敬称として、U(ウ)をつけます。例えば。私がミャンマー駐在時代に最もよく通った客先は、ミャンマー国鉄だったのですが、陸軍大佐から天下りした50歳の国鉄総裁が、現場で油塗れになって作業をしている人に声をかける時でも、自分より年上かもしれないと判断すれば、必ず相手の名前の前に「ウ」を付けます。立場が下で、年齢も下の男性に対しては、名前に「KO(コ)」をつけて呼びます。(なお、親が子を呼ぶ場合、或いは、親しくて、かつ、親子ほど年が離れている場合には、「MAUNG(マウン)」を付けて呼ぶこともあります。「○○太郎ちゃん」といった感じです。)

女性相手の場合は、年上か立場が上(立場が上の人の奥さんも含めて)であれば「DAW(ド)」、立場が下で、年齢も下なら「MA(マ)」を付けて呼びます。女性の場合、「若く見られたい」という思いから、「ド」を付けられるのを嫌がる人が時々いますが、呼びかける方としては、年齢が判らなければやはり「ド」をつけておくのが無難。例えば、子供の(或いは、孫の)通っている小学校の先生なら、いくら若くても、敬意を表して「ド」を付けます。

これらは、ミャンマーの社会で最も重要な礼儀であり、これが出来ない人は、とても軽蔑されます。(30年前は、外国人は、このルールを破っても許される雰囲気でしたが、今はそうではなくなってきました。もし将来ミャンマーにいらっしゃることがあったら、重々ご注意下さい。)

そういった事情から、ミャンマーの人達は、自分の周りの人達、特に自分との年齢差が少なそうな人達の年を正確に知ろうとします。第三回で、「積極的に人を幸せな気分にするように努力する」というお話をしましたが、自分より年上の人に対しては、そういった気持ちが更に強まる訳で、例えば職場で、年長の先輩からのアドバイスは、内心では従うつもりがなくても、その場では丁寧に感謝します。まして、お年寄りが相手だと、理由はどうあれ、その人を困らせるようなことは絶対したくない、と思っていますので、冒頭の、お年寄りの運転手のようなことになる訳です。当然のことながら、バスや鉄道の客車の中で、お年寄りが立っていることは滅多に無いですし、街中を歩いていても、お年寄りに敬意払われていることを度々実感できます。働けなくなったけれども、面倒を見てくれる子供も親戚もいないお年寄りは、お寺で面倒を見てくれます。(縁もゆかりもないお年寄りでさえ、大切にするのですから、前回ご説明しましたように、自分の両親をこよなく敬うのは、当然ですね。)お年寄り達も、自分なりにお釈迦様の教えに従ってきた人生を振り返り、来世にまた人間に生まれ変われることを信じていますから、寺院や仏塔でお祈りしている姿が、本当に安らかです。

それでは、次回からは、このミャンマーと日本の、歴史上の深い繋がりと親和性について、一つひとつご説明してまいります。