2018年6月 のアーカイブ

第二回 上座部仏教 (1)

 突然ですが。この写真の黄金のパゴダ(仏塔)は、伝説上は2,600年前、お釈迦様   が亡くなられた直後に聖髪を運んできて建てられたとされており、正にミャンマーの「上座部」仏教の象徴です。人口500万人を擁する最大都市ヤンゴンの中心部、東西南北の参道から約100段を登ったところに、この高さ約100メーターの仏塔が聳えており、全面が金箔(というより、金の板に近い)で覆われています。お祭り等の行事がなくても、早朝から、老夫婦が何組も仲睦まじく、座ってお祈りしており。そして、次第に、まるでディズニーランドのように、子供連れがどしどし詰め掛けて来て、しかし遊んだり騒いだりではなく、皆でじっと手を合わせて、心を安らかにしています。 

 パゴダとは、日本のお寺で言えば「五重塔」に相当する部分で、それ自体がお釈迦様に等しい、「祈る」対象であり、原則、在家信者が寄付を持ち寄って運営します。一方、ミャンマーにおける寺院は、そこに置いてある仏像を在家も拝みますが、一義的には、僧侶が集まって修行をする場所である、という違いがあります。いずれにせよ、国民の9割を占める仏教徒が住んでさえいれば、どんなに小さく貧しい村でも、必ず寺院とパゴダがあり、人々はそこに集い、僧侶が学校に行けない子供達に読み書きを教え、身寄りのないお年寄りの面倒を見ているのです。日本には約7万のお寺があり、9万人以上の僧侶がいる由ですが、ミャンマーには、(2007年時点で)5万7千の寺院に、24万3千人の僧侶と、30万6千人もの見習い僧がいて、在家信者が彼等を敬い、必要な全てのものを提供し続けています。(人口5千万人強ですから、男性がその半分として、その2%が、見習いもふくめたお坊さん、ということになります。ここでは、これ以上深入りしませんが、ミャンマーでは、女性は、正式な僧侶にはなれません。) 

 また、仏教徒の男子は、10歳前後で通過儀礼として得度し、一週間程度寺院で暮らすのが、通例となっています。仏教徒として極めておめでたい行事であり、大抵は、月収の数倍ものお金を使って、近所の人達や友人知人を食事に招待し、お寺に多額の寄付をします。(ちなみに、私のミャンマー人親友の一人はカソリックですが、奥様は仏教徒で、当然のように、息子さんにこの儀礼をさせていました。) 

 ある英国のチャリティー団体の調査において、2,014~2016の3年連続で、ミャンマーが、収入の一定割合以上を寄付するという意味での「世界寄付指数ランキング」の1位となりました。(2017年のデータは未入手です。)お金持ちだけでなく、貧しい人達も、お寺やパゴダに行くと、金額はともかく、様々な形で寄付を行い、それらが回りまわって、上述のような社会福祉の機能を果たしているのです。

  以上の事々から、仏教が、ミャンマーの人達の心と生活に深く浸透していることをご理解いただけたかと思います。次回は、いよいよ、ミャンマー仏教の内容について、ご説明致したいと思います。

 

第一回 微笑みの国ミャンマー

 86期の倭(やまと)です。総合商社に37年勤務した中で、4度に分けて、通算12年強、東南アジアのミャンマーに駐在した経験から、ミャンマーの国と人々の魅力と、日本との深い関わりと親和性について、少しずつご説明して参ります。ご一読下さり、ミャンマーに関心を持って頂けると、誠に幸甚です。
 ミャンマーの人達は、本当に笑顔が良く似合います。いつも、自分の周りの人達との会話を楽しみ、皆で幸せな気分になりたい、という気持ちが旺盛なのです。そして、両親はもちろん、僅か1歳でも違えば年長者を強く敬い、家族を大切にします。また、外国人にも親切な中で、特に日本への憧れが強いので、私のような63歳(ミャンマーでは十分な高齢者)な日本人は、いくつかの点に注意さえすれば、とても大切に扱われ、極めて居心地が良いのです。何故そうなのか、について、長年、現地でも日本でも様々な方々や書物から学び、私なりに考えてきたことを、色々なエピソードを交えながら、申し述べてまいります。
 まず第一回は、ミャンマー人男性が妻や子供との団欒をいかに大切にするかというお話をしましょう。殆どの男性は、その日の朝、夕食を家族と食べるという前提で家を出ておきながら、仕事や友人との付き合い等で外食する、ということが出来ません。また、(残業そのものを嫌がる訳ではない人でも、)急な残業で家族を待たせるということには、強い拒否反応を示します。例えば、朝、上司である私がミャンマー人の営業マンに、「急ですまないが、自分は別の会食があるので、今晩、日本からの出張者のAさんのお相手をしてくれ」と頼むと、大抵は、一瞬青い顔をします。でも、とにかく断るということが苦手な人達なので(これについては、その内、詳細にご説明します)、一旦、すごすごと席に戻ります。そして、昼過ぎに、「下痢なんで、行けない」と言ってきて、こちらがそれでも「いや、悪いけど、君は余り食べなくても良いので、とにか頼む」などと言いますと、次は、夕方になって、ゴホン、ゴホンと大きな音で咳をしながら、「Aさんにインフルエンザを移すといけないです」と言ってきます。これ、私が実際に何度も経験した話です。もちろん、本音では飲みに行きたい、美味しいものを食べにいきたい男性も多いのですが、どうもミャンマー人男性にとって、その日になっての晩御飯の外食は、我々日本人サラリーマンで言えば無断外泊くらいの迫力で、奥さんや子供さん達を悲しませる(或いは、怒らせる)ようなのです。
 もう一つ。何か突発事態が発生して、急な残業になった場合に、その内、家から電話がかかってきます。ここで、気の弱い彼等は、その場凌ぎで、「今、会社を出るところだ」なんて言ってしまうのです。いわゆる、「蕎麦屋の出前」の催促への対応ですね。でも、蕎麦屋さんとは違って、どうしても必要だから本人の納得ずくで残業している訳ですから、すぐには帰れないので、やがてまた電話がかかってくることになります。これも何度も聞きました。
 これらは、自分の大切な家族を悲しませたくない、という気持ちのなせる業ですが、その根底には、彼等が篤く信仰する上座部仏教の教えがあります。次回は、その辺りについて、ご説明致しましょう。