第九回 ミャンマーと日本との繋がり (2)蒙古襲来

2018年8月18日

今回の写真は、現在のミャンマーの国土の大半を支配したという意味での最初の王朝であるパガン王国(1044~1287年)が残した、仏塔遺跡群です。この遺跡は、2015年に、NHKスペシャル「アジア巨大遺跡」にて詳細に紹介されましたが、王侯貴族だけではなく、民衆も含めて財を投げ打って建造したパゴダ(仏塔)が、現在でも約3千も残っています。そして、10年間に亘る激戦の後に、遂にこのパガン王朝を滅ぼしたのが、元のフビライハンが派遣した軍隊でした。

私は、2007~2008年にも、当時駐在していたベトナムのホーチミンから、「ホーチミンの街角から」と題して、この六稜ワールドアイに投稿しており、その中で、元の10万人の大軍を三度撃退したチャン・フン・ダオ将軍のお話をしました。その中で、「もし将軍が途中で負けていたら、元軍は、(文永・弘安の役だけでなく)もう一度日本にやってきて、ついに日本を占領していたかもしれない。そういう意味で、我々日本人は、ベトナムに感謝しなくてはならない」という趣旨のことを申しました。そして実は、それとほぼ同じことが、このパガン王国についても言えるのです。1277年、最初に元軍が攻め込んできた際から、1287年に、遂に都であるパガンを陥落させられるまで、足掛け10年に亘り、パガン軍は、象に乗って大いに奮戦しました。(なお、最後に折角征服した元の軍隊は、パガン地域の余りの暑さに音を上げて、占領軍を駐留させることなく、中国に戻っていってしまうのですが。)いずれにせよ、フビライハンは、亡くなる直前まで日本に対して怒り心頭であった由ですから、もしパガンの場合が、10年持ちこたえずに、もっとあっさり滅ぼされていたら、元軍が、作戦を練り直して(例えば、台風の無い時期を選んで)もう一度日本にやってきた可能性は大いにあったのです。

ベトナムでは、米国とのベトナム戦争の生々しい経験からでしょうが、今、かなり若い人達でも、「ベトナム人は世界一戦争に強い」という誇りを抱いていたりしますが、ミャンマーでは、イギリスに植民地にされたトラウマが消えていないので、そういう意識はありません。とはいえ、ミャンマーとタイは歴史上20回以上交戦して、ミャンマー人は「一度も負けていない」と理解していますし、現に、かのアユタヤ王朝を滅ぼしたのはミャンマーです。(逆にタイ側では、16世紀に、病気の夫に代わって象に乗ってミャンマー軍と奮戦し戦死した、アユタヤ朝のスリヨータイ王妃が、国民の「悲劇のヒロイン」として、今も大人気。つまり、ミャンマーが敵役です。)そして、1765~1769年においては、清の歴史の中でも最強と謳われた乾隆帝の派遣した軍隊を、撃退し続けています。ミャンマー人との雑談の中で、その辺りのことを讃えると、結構喜んで貰えます。

次回は、太平洋戦争における日本とミャンマーの関わりについて、申し述べます。