【第282回】6月「救急医療は社会を映す-パート2-」

 

Ⅰ.日時 2026年6月17日(水)11時30分~13時00分
Ⅱ.場所 バグースプレイス パーティルーム
Ⅲ.出席者数 56名
Ⅳ.講師 田中 裕さん@87期(順天堂大学浦安病院長)
1982年大阪大学医学部卒業。大阪大学医学部附属病院特殊救急部に入る。外科研修後、米国留学、大阪大学大学院救急医学准教授などを経て、2007年より順天堂大学救急災害医学教授、同大学医学部附属浦安病院救命救急センター長。2021年より病院長となる。専門は、救急医学、災害医学、集中治療医学など。救急科専門医、指導医。外科専門医、指導医。外傷専門医、熱傷専門医など。北野高校在学中は、サッカー部に所属

 

 

Ⅴ.演題 『救急医療は社会を映す-パート2-』
Ⅵ.事前宣伝 昔から人類にとって医療の最大の課題は、外傷や感染症などの急性病態でした。時の権力者もその運命から逃れることはできず、“もし”が許されるなら歴史は大きく変わっていたかもしれません。古く中国では70歳を“古希”と呼び、織田信長は“人生50年”と舞った。過去、現在、そして未来を通じて人類にとって救急医療は「“医”の原点」です。私自身は救急医となってから、多くの災害や事件など社会的影響が大きな事例を経験しました。以前、パート1として、本会で大阪大学時代の救急・災害医療の話をしました。今回は順天堂に移ってからの、出来事について話します。本邦の救急医療は戦後の高度成長時代に社会現象となった「交通戦争」による重症外傷の外科医療に端を発し、近年は軽症患者にも対応する北米型ERへと変化しています。この変遷の過程についても触れてみます。

東京六稜俱楽部 第67回「救急医療は社会を映す」2008年7月16日開催-六稜WEB

 Ⅶ. 講演概要 *紹介者は同期(87期)の藤田進さん

田中さんは大阪大学医学部特殊救急部を経て、現在、順天堂大学病院で医療現場の最前線で後進の育成に尽力されている。高校時代は同じサッカー部で、卒業以来50年以上経った今でもサッカー部の仲間で年数回ゴルフや食事で集まっている。豊中九中の生徒会長の田中さんと吹田一中の私が生徒会役員の会合で出会ったのが付き合いの始まり。高校入学初日に一緒にサッカー部に入部し、暗くなるまで白球を追いかけた。スラッとしたクールな外見とは裏腹な言動で、部内では、古代ギリシャ人が「意味の分からない言葉を話す異民族」を指す「バルバロイ」と呼ばれていた。バックを守っていた田中さんがセンターライン付近からそのまま持ち上げてシュートを決めた島本高校戦や、のちに日本代表監督になる岡田武史さん率いる天王寺高校を田中さん中心にゼロにおさえて勝利した定期戦は楽しい思い出。のちに岡田さんが2007年に日本代表監督を引き継ぐ際に、脳梗塞で倒れたオシム前監督が田中さんが勤務する順天堂大学病院に救急搬送されたのも何かの縁と感じる。本日は「バルバロイ」田中さんがどのような話をしてくれるのか、田中さんの人物像が皆様に伝わればと思う。

 

1.救急医療への憧れと阪大特殊救急部

1)私が救命救急医に憧れたのは、高校・大学の大先輩である手塚治虫さんの影響。高校時代に読みあさった『ブラック・ジャック』に登場するダーティーではあるがメスさばきがすごいドクターに憧れた。

2)阪大医学部は山崎豊子さんの小説『白い巨塔』のモデルとしても知られ、私が入局した当時は、中之島の病院の裏手正面に「特殊救急部(災害外科)」の看板を掲げていた。1960年代に入ると第一次交通戦争と呼ばれる時代に突入し、交通事故による重度多発外傷患者が急増する一方で、専門外の医師による“たらい回し”が発生し、助かる命が助からないという深刻な問題が起きていた。

3)これを受けて、大阪府が資金を出し、大学が人材を派遣する形で「大阪大学特殊救急部」が昭和42年(1967年)に創設された。しかし、当時、専門医の先生方から「大学病院でなぜそんなことをやるのか」と冷ややかな目で見られていたこともある。一般外科医と異なり、救急外科医は常に時間との戦いで「手術のタイミングを逃して患者の命を失うことを恥とすべき」との考えが徹底されていた。時間を最優先し、まず、被害を最小限に食い止める「ダメージコントロール治療」は、当時未熟な手法と見られることがあったが、時を経た現在、それが最高水準の手術であったことが分かった。当時の現場の様子は、後にNHKの『プロジェクトX』や様々な医療ドラマでも紹介され、救急医療を志す人が増えるきっかけとなったが、実際の救命センターの現場は騒然としたものである。

 

2.1990年代以降の多発するテロ・事件・災害と危機対応

1990年代以降、国内で色々な事件や事故、大災害が多発し、多くの患者が大学病院に搬送された。これに伴い、それまで確立されていなかった学問分野が、国家レベルで議論されるようになった。

・テロ対策 ← 松本サリン事件、Vxガス事件

・集団災害医学 ← 阪神・淡路大震災、O157集団食中毒

・危機管理学 ← 大阪教育大附属池田小児童殺傷事件、等

これらの学問研究は、現在、日本においてかなり進んでいる。阪神・淡路大震災では、身体の一部が長時間挟まれて圧迫され、解放後に重篤な症状を引き起こす「クラッシュ症候群(挫滅症候群)」という言葉が初めて登場した。JR福知山線脱線事故では、震災のような広域災害だけでなく、局地的な大惨事における「DMAT(Disaster Medical Assistance Team=災害派遣医療チーム」の意義が高く評価された。

 

3.順天堂大学医学部付属浦安病院と「高度」救命救急センター

1)病院概要

総病棟数785床(22病棟)・36の診療科を擁し、以下の臨床指標を持つ総合病院。

指標項目       実績(年間/日あたり)

外来患者数      約2,000人/日

病床利用率      94.3%

平均在院日数     11.7日

手術件数       10,031件/年

救急搬送件数     9,327件/年

分娩件数       680件/年

職員数        1,987人

2)浦安病院高度救命救急センター科

ER診療 + 3次救急医療 + 重症集中医療の体制で診療を行っている。スタッフは、救急専門医をはじめ、集中治療、熱傷、外傷などの専従専門医が25名。それに5〜10名の臨床研修医が加わり、さらに初期研修医70名の救急研修を受け持っている。常時20名前後の重症入院患者を担当している。

3)「高度」救命救急センター

全国に約350ある救命救急センターの中で「高度」救命救急センターに指定されているのは46施設(令和5年8月時点)。厚生労働省の要綱に基づき都道府県が指定するもので、通常の救急では対応困難な広範囲熱傷・重症外傷・指肢切断・急性中毒症といった特殊疾患患者に常に対応可能な施設。

 

4.順天堂の歴史と学是「仁」

1)順天堂の学是は「仁(他者の心中を思いやること。深い人間愛を基本とするもの=孔子の思想の根本を支える概念)」、理念は「不断前進」。順天堂の礎を築いた先人は以下;

・創立者・佐藤泰然(1804〜1872)

1830年代に武士から医師を志し、高野長英の弟子となり長崎へ留学。1838年に江戸・日本橋に外科塾「和田塾」を開く(この年を順天堂の開学とする=創立188年)。同年、緒方洪庵が大阪に適塾を開いている。1843年に千葉県佐倉に移り順天堂を開設。

・第2代堂主・佐藤尚中(1827〜1882)

長崎でオランダ人医師ポンペに最新医学を学び、佐倉藩で医学教育改革を断行。明治政府に招聘され、東京大学医学部の前身である大学東校の初代学部長。

・第3代堂主・佐藤進(1845〜1921)

日本人で初めてパスポートを取得しドイツに留学。その後1877年の西南戦争に軍医として出陣。日本で初となる本格的な手術を実施=日本最初の外傷外科医。

2)テレビドラマ「JIN-仁-」に順天堂も協力した。2019年の日本救急医学総会・学術集会に原作者の村上もとか先生をお招きし「仁とは何か」というディスカッションを行い、「仁」=リスペクト、チームとの結論に至った。

3)順天堂大学は、医学部付属6病院に加え、9学部・8研究所(準備中含む)を擁し、学生・教職員合わせて収容定員12,000人規模の「健康総合大学」。大学ランキング(Times Higher Education 2025年10月)で日本国内10位にランクイン、箱根駅伝でも総合3位に入るなど、さらなる高みを目指している。

 

 

.順天堂での救命救急医療

1)順天堂に赴任して2か月目に、サッカー日本代表監督だったオシム氏が自宅で倒れ順天堂病院に緊急搬送された。その後、オシム氏の後を継いで日本代表監督となったのが高校時代に天王寺高校戦で戦った岡田武史さん。

2)中国製冷凍餃子を食べ縮瞳がみられた患者が全身管理目的で当院に入院。集中医療を行い、無事回復し退院した。マスコミ対応も行う。

3)東日本大震災では、DMATとして東北で後援支援を行うとともに、当病院で医療救護班を組み、仮説診療所での支援や住民の世話を実施した。

4)意識障害・ショックの主訴で当病院に搬送された患者が、当院にとって初のコロナ患者だった。CT検査で肺炎と判明したが人工呼吸器では維持できず、体外式膜型人工肺(ECMO=エクモ)で集中治療を行った。当初、非常に高い死亡率だったコロナも、早期のワクチン開発により、現在致死率は0.9%程度にまで低下し、落ち着きを見せている。

 

6.救急医療における課題=多死社会における高齢者救急医療

1)救急医療とは

救急医療は突発性、緊急性という特徴を持ち、患者からみると、いつでも、どこでも、だれでも受けられるもの。これは医療の原点であり、救急医療は、国民の生命保持の最終的な拠りどころとなる全医療者に課せられた義務である。

2)日本の消防救急隊

昭和39年(1964年)の消防法改正により、市町村が救急業務を行い、救急車による救急患者を病院などの医療機関へ安全に搬送するシステムが定まった(それ以前は、消防車やパトカーがその役割を担っていたといわれている)。

3)救急医療体制

・初期(一時)救急医療体制→市町村レベル(全体の95%)

休日夜間センターや在宅当番体制での外来診療

・第二次救急医療体制→都道府県レベル(全体の5%)

二次医療圏ごとの病院輪番制や共同利用型病院での入院治療

・第三次救急医療体制→国レベル(全体の1%未満)

救急医療センターや高度救命救急センターでの集中治療

4)救急車の搬送人員と高齢者人口

2002年以降の救急車の出動回数は右肩上がりで400万件から800万件に迫ろうとしている。搬送人口では65歳以上、75歳以上の高齢人口が増加しており、高齢者人口の増加に伴い救急搬送が増加していると言える。

5)受け入れ不能の要因

患者側の要因

・高齢化やコンビニ受診(軽症での救急利用)に伴う救急患者数の増加。

・患者の大病院志向。

・過度な治療に対する要求や専門家志向。

医師側の要因

・救急医療を担う人材の確保が困難。

・経営上のメリット(採算性)が少ない。

・医療訴訟のリスク。

6)高齢者社会が救命救急センターに及ぼす問題

さらなる人口減少と高齢化が進むことにより、以下の傾向が予想される。

・心不全や誤嚥性肺炎、認知症、大腿骨頸部骨折などが増加する。

以下の要因による治療や在院日数の長期化

・高齢者特有の治療抵抗性や合併症などの病症。

・不適切な病院選定(入口問題)。

・転院調整や家族の受け入れ等の社会的要因(出口問題)。

7)対策

救急患者の受け入れを円滑に行うための空床の確保が重要

・病院選定の是正(入口問題)→施設入居者の提携病院による積極的な受け入れ。患者の医療方針の事前決定。

・後方ベッドの確保(出口問題)→急性期を脱した患者、積極的加療を望まない患者の転院を地域医療連携を密に行い早期に行う。クリニカルパスの共有化も重要。

 

7.二人主治医制のお薦め

「かかりつけ医」と「大学病院」の二人の主治医をもつことをお薦めする。「かかりつけ医」と「大学病院」の役割分担を明確にして、質の高い医療を受けられるようにすることが重要。

・「かかりつけ医」(近隣のクリニック等):日常の健康管理、初期治療、慢性疾患の治療

・「大学病院」(浦安病院など):高度な検査、入院治療、救急医療

 

8.医学に何ができるか

小川秀興順天堂理事長が、第28回日本医学会総会での対談「医の未来を語る」で話された言葉を紹介して講演を終わりたい。「日本はいま高齢化で大変だと言われているが、果たしてそうか?いかに長生きするかと考えて、人類は高齢化を目指してきた。その最先端に日本は立っている。動物は通常生殖活動が終わり子どもが育てば寿命がくる。人類はそれを超えて生きるようになった。ならば、その「生きる」ということをいかに美しく、健やかにできるか。医学が貢献すべき未来は、そこではないか。」

 Ⅷ.質疑応答  広本治さん(88期)

Q: 救急医療センターで受け付けた患者の報告義務はあるか。ERにいる間に報告するのか。
A: 結果が出てから報告する。感染症はいつまでに報告するという義務がある。

 Ⅸ.資料

記録:葛野正彦(88期)

Ⅹ.講演風景 IMG_0026IMG_0029IMG_0032IMG_0033IMG_0050IMG_0056IMG_0062IMG_0059IMG_0535IMG_0751IMG_0753