【213回】9月『「関西人」村上春樹』

Ⅰ.日時 2020年9月19日(土)14時30分~15時30分
Ⅱ.場所 テレビ講演会
Ⅲ.出席者数 51名
Ⅳ.講師 金水 敏(きんすい さとし)さん@87期 (大阪大学大学院文学研究科・教授)

1956年大阪生。大阪府立北野高等学校を1975年に卒業(第87期)。
東京大学文学部を卒業後、同大学院に進む。
大阪女子大学文芸学部、神戸大学文学部等を経て、現在大阪大学大学院文学研究科・教授。
専門は国語学(日本語史、役割語研究)。
著書に、『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』(岩波書店、2003年)、『日本語存在表現の歴史』(ひつじ書房、2006年。同年新村出賞受賞)。
高校、大学、大学院とオーケストラ部に所属し、フルートおよび指揮を担当。
Ⅴ.演題 「関西人」村上春樹
Ⅵ.事前宣伝 毎年のようにノーベル文学賞の受賞が取りざたされ、世間を賑わせている小説家の村上春樹氏であるが、もとは京都生まれの阪神間育ちで、大学入学を期に東京に移ったのであり、そういう意味でルーツはれっきとした「関西人」である。彼の書く小説を読んだ人は、一見関西の言語や関西人の感性とはそぐわないように思うかもしれないが、実は量は多くないものの、彼の作品には関西に触れ、あるいは関西弁そのものを話すキャラクターが登場するのも事実である。一体、彼にとって故郷である関西はどのような意味を持ち、またなぜ関西弁キャラクターを小説に登場させるようになったのか。このような問題について、彼の作品を読み解きつつ、関西を離れる関西人の思いを重ねながら、考えてみたい。
Ⅶ.講演概要 この講演の詳細は添付の講演スライドのPDFを参照されたい。

1:

金水氏は、「関西人」村上春樹というテーマを今回の講演に選んだ。これは、東京六稜会という組織が、大阪の北野高校を卒業して東京に出てきた人が集う同窓会であり、ある意味で村上春樹と同じ境遇、径路で生きてきた人が多いと思ったからである。実際、金水氏も東大に入って東京に移住し、村上と同じ思いを抱いた一人であるし、父との関係でも共感するところがあると話していた。
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2:

村上は、スライドの略歴(1)-(3)(PP-2, 3参照)で述べるように、関西から東京、東京からヨーロッパ、そしてアメリカと世界に活躍の場を拡げ、日本はもとより、ヨーロッパアメリカで数々の大賞を受賞してきた。そして、彼の小説は50か国を超える言語に翻訳されており、彼のような世界的スケールで活躍する日本人作家は他にいない。
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3:

村上の略歴の紹介の中で、特筆すべき家族関係、出来事として以下のことを挙げている。

●父、村上千秋は僧侶の家に生まれたが、妻の反対もあって僧籍を継がず、阪神間の有名私立高校の国語(古文)の教師となった。子供の時から春樹に日本の古典文学を叩ききこみ、春樹を自分の後継者としたかった節がある。春樹自身はこれに反発したものの、村上の日本の古典に対する造詣は非常に深いところがある。

●千秋は熱心な阪神タイガースファンで、子供のころよく甲子園球場に連れて行ってもらった。このことにも反発して、父から離れることが若いころの彼の願望であったようである。春樹がヤクルトファンであることも、父への反発であると考えられる。

●父の中国従軍中に南京に行き、そこで南京事件に関与したのではないかという疑念。
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4:

1986年にヨーロッパに移住し、その後1991年にアメリカに移り、1995年6月に帰国。同年1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件を経験し、これを契機にこれまでの社会と一定の距離を置くDetachmentの立場から社会的問題を扱うCommitmentの立場に変わっていった。この点は以下の小説から、窺い知ることができる。(PP2-④参照)

●約束された場所で(1999年)-オウム真理教をテーマ

●神の子供たちはみな踊る(2000年)-阪神淡路大震災をテーマ
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5:

村上は、略歴にある通り京都で生まれ、間もなく西宮市夙川に転居し、兵庫県立神戸高校を卒業、一浪後早稲田大学に入学するまで関西で過ごしたというれっきとした「関西人」である。しかし、スライドPP3-②で述べているが、「早稲田に入って上京して一週間のうちに、ほぼ完全に東京弁に変わってしまった」と告白し、関西弁を話すことをやめている。

村上の書く小説は翻訳文みたいだと言われており、関西人的な要素を感じさせない。彼自身も、関西にいると関西弁で物事を考えてしまい、東京で書く文章の質やリズムと違ってしまう…」とも述べている(スライドPP3―④参照)。
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6:

文体についても関西弁を封印した上に、処女作「風の音を聴け」の文体を決めるとき、冒頭部分を一旦英語で書き、それを日本語に翻訳してその文体の調子をつかんだと『職業としての小説家』で書いている。そして、「日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかった」とも言っている。(PP6-①参照)
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7:

しかし丹念に彼の作品を拾っていくと、1995年以降、以下に述べる作品に関西弁が使われている(スライドPP4, 5参照)。

●「ことわざ」(1995)‐ショート・ショートの作品。「猿やがな。なんせ猿がおったんや。嘘やあるかい、ほんまもんの猿が木の上におったんや。」

●「アイロンのある風景」(1999)‐登場する口の悪い関西弁を話す三宅さんを村上の分身のように描いている

●「アフターダーク」(2004)‐コオロギという関西弁を話すが関西を捨てた女性を登場させている

●「海辺のカフカ」(2002)‐山頭火が図書館に残した遺品について、金がらみの話題を大阪弁で表現。この「海辺のカフカ」は、アメリカで認められた作品となる。

●「イエスタデイ」(2004年)‐木樽という田園調布育ちの東京人を、大阪弁を話す阪神タイガースファンという設定で描いている。

●「クリーム」「ウイズ・ザ・ビートルズ」「ヤクルト・スワローズ詩集」―空想的な、そして偶然の出来事を小説の中で取り上げているが、死のイメージ、あるいは母の認知症といった老化それに続く死の匂いのする作品が多い。
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8:

上で述べたように父、村上千秋に感情的な確執を抱いていたが、スライドPP5-④の、「猫をすてる 父親について語るとき」で述べるように、日本古典文学を学ばされたこと、阪神タイガースのファンであったこと等に反発してきたものの、1995年の震災を契機に交流が再び始まり、2008年の父の死を前に和解したと書かれている。(PP5-④参照)
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9:

村上は、関西から東京、そして世界へ雄飛していった。同時に言語面でも関西弁から標準語、そして外国語への翻訳と活動の幅を広げていった。特に、自分の小説を世界の言語に翻訳していくことを積極的にプロモートした。
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10:

金水氏は講演の最後を次のように締めくくっている。

父、千秋に反発して、日本の古典文学からも遠ざかった春樹であるが、「海辺のカフカ」では生き霊のことなど、源氏物語への言及がみられる。また、「1Q84」では平家物語の「壇ノ浦の合戦」の場が延々と引用されている。「騎士団長殺し」では上田秋成の春雨物語が引用されている。反発したとはいえ、こんなところに父の影響が色濃く出ている。(PP7-②参照)

更に、1995年以降、関西弁が小説の中にいくつか登場するようになった。しかしこれは、単純な関西人としての原点回帰の往還運動と捉えるべきではなく、村上文学にポリフォニー(多重ヴォイス)がもたらされたと見るべきであろう。

 

 

質疑応答

質問:関西弁は翻訳において、まともに反映されているか、東日本大震災についての小説はあるか、母親とのつながりについて何か書いているか。(杉之原、77期)

回答:関西弁がまともに翻訳されているとは思えないし、正確に翻訳で表現するのは難しい。私たち日本人は、関西と言うとケチ、お好み焼き、暴力団等を反射的にイメージするが、海外の人はそういう理解は持っていない。英語でも、方言を表現するのは困難。

東日本大震災については、いくつか書いている。例えば、「騎士団長殺し」の中で、東北を一人で旅する男が、津波にあった海岸に立つ風景を描いている。

母親のことについては、スライドPP5-③の「ヤクルトス・ワローズ詩集」で、認知症になった母を描いている以外、殆ど出てこない。

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質問:村上春樹は日本を飛び出してヨーロッパ、アメリカと移住して行ったが、その動機は何であったか。(多賀、76期)

回答:村上は、日本の文壇と交流することを極端に嫌った。ある意味で謎の多い作家である。なかなか彼から直接話を聞くことができない。親しい編集者とか、柴田元幸氏といった人を通してしか話を聞けない。日本の文壇とは距離をとっている。そういったことが、海外に居場所を求めたと考えられる。

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質問:村上春樹はノーベル文学賞を取れるか(谷島、91期)

回答:多分無理と私は思っている。

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質問:関西弁独自の思考システムとありますが、それはどういうことでしょう(宮本、93期)

回答:漫才のボケと突っ込みという役割があるが、ああいったものは関西独特のものである。司馬遼太郎や近松門左衛門の描く情の世界も、関西人独特のものである。関東と違って武士ではなく商人志向が作り出した文化、システムである。

 

それに関連した質問:関西弁の思考システムか、それとも関西人のそれか(多賀、76期)

回答:言語学的には方言も言語。明治維新が無ければ、日本は4つに分かれていたとも言われており、言葉によってその地方で育まれた思考システムがある。言語と人は切り離されないものと考えている。

【記録:多賀正義(76期)】

Ⅷ.資料 2020.9.19 東六倶 金水氏 関西人村上春樹スライド公開用.pdf(1.5MB)