【第201回】9月「『森繁久彌全集』出版にあたって ― 時代の先覚者・後藤新平 と 最後の文人・森繁久彌 ―」

Ⅰ.日時 2019年9月19日(水)11時30分~14時
Ⅱ.場所 銀座ライオン7丁目店6階
Ⅲ.出席者数 62名
Ⅳ.講師 藤原良雄さん@79期 (藤原書店社主)

藤原書店社主。野間宏・後藤新平・熊沢蕃山研究会主宰。1949年大阪生まれ。90年より㈱藤原書店を主宰。20世紀最高の歴史書『地中海』(全5巻)の出版で、92年第1回「青い麦編集者賞」を受賞。97年には、仏芸術文化勲章(シュヴァリエ)を受章。この間、毎日出版文化賞をはじめ国内の数々の賞を受賞。本年6月、仏文芸の最高のアカデミーであるアカデミー・フランセーズより仏文化を世界に広める貢献をしたとして、「フランス語フランス文学顕揚賞」を受賞。日本人で三人目。日本の出版者では初受賞。代表的な出版物として、『正伝 後藤新平』『女の歴史』『石牟礼道子全集 不知火』など多数。2019年2月末現在、1301点を刊行するに至る。
Ⅴ.演題 『森繁久彌全集』出版にあたって― 時代の先覚者・後藤新平 と 最後の文人・森繁久彌
Ⅵ.事前宣伝 『森繁久彌全集』は、小社創業30周年の記念企画。

 

今年は、森繁久彌没10年。これを機に、森繁久彌(1913-2009)という稀代の役者の人生を考えてみたい。旧制北野中学出身の森繁は、成島柳北という江戸末期~明治の大ジャーナリストを大叔父に持ち、父・菅沼達吉は現大阪市助役、関西電力の重役を務めた。森繁自身は戦前満洲でNHKのアナウンサーを務める。戦後、帰国してから役者稼業に入る。そのような森繁久彌とは何者か。また何故、小社が森繁久彌の全仕事を俯瞰する出版を企画するに到ったか? 江戸末期に生まれ、明治、大正、昭和初期まで生き、日本近代のインフラの殆どを手がけた後藤新平(1857-1929)の大企画〈後藤新平の全仕事〉との比較で考えてみたい。

Ⅶ.講演概要 この講演概要を書くに当たっては、藤原氏より配布された新聞記事切り抜き等も参考にした。

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藤原氏は、大阪市大経済学部卒業後1973年に新評論に入社、81年に編集長になる。1990年に藤原書店を創業した。これまで刊行した書籍は1300点以上。1997年にはフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを受章された。しかし、藤原氏はフランス語が堪能なわけではなく、仏文学を極めたわけでもない。また、フランスに長期住んだわけでもないのだが、藤原書店の目録の中にある本の3-4割はフランス関係の書物であることは確かである。なぜフランスか?

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藤原氏は、70年代後半、フランス史の大家井上幸治先生から、マルクス主義との格闘から生まれたフランスの“新しい歴史学”(アナール学派)のことを学んだ。『アナール――経済・社会・文明』は、1929年マルク・ブロックやリュシアン・フェーヴルらが創刊した総合誌である。この雑誌の狙いは、副題にもあるように、「全体を捉える目を構築しようとする大文字の歴史学、つまり歴史総合学」であるという点。驚きを受け、是非日本に紹介しようと思った。その一つが、冒頭に述べた第二世代を代表するフェルナン・ブローデルである。20世紀最高の歴史書『地中海』(全5巻)の出版(1991~95)。初版は2000部。定価は、8800円。10年かけて販売しようと出版した。しかし、第1巻が出るや否や日本の読書人からの反響は凄かった。あっという間に版を重ねて行き、1年足らずで、1万部の実売に。これによって、「本当に良い本は読者の方が知っている。売れないのは、編集者が良いものを見つけられず、自分に甘いからである」ということを実感した。

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藤原氏は、野間宏を尊敬していたと話した。特に畢生の大作『青年の環』は、8000枚を超える大長編で最高傑作。アジアのノーベル文学賞といわれるロータス賞を、日本人として初めて受賞。われわれの社会を人間を全体としてどう描くか、全体小説が彼の目指すところであった。学生時代、中之島公会堂で行われた『青年の環』完成祝の野間宏の記念講演を聞いた時の感動を、藤原氏は今も忘れることができない。1960年、中華人民共和国に「日本文学代表団」の団長として訪問した時、毛沢東と握手している姿は今も瞼に焼きついている。

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藤原氏は森繁久彌について、北野高校の先輩という以外なんの縁もなかった。野間宏と1975年から、特に85年頃から亡くなる91年まで特に親密な付き合いをさせていただいた。没後、有志が集まり「野間宏の会」を立ち上げることになり、その会の発起人の一人に森繁さんになっていただいた。その時、1時間近くお電話で話をした。「野間宏は実に頭のいい男であった」と述懐していた。その後、「野間宏の会」は、多くの方々の支援の下、1993年6月第1回の会が開かれたが、森繁さんは急用で欠席された。しかし、その後、二度程、短い原稿を戴いている。

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その藤原氏がなぜ今「森繁久彌の全仕事」という大企画をやることになったのかは不思議である。藤原氏の信条として、「十代から二十代の前半までに本を読まない人は、余程のことがない限り、読書とは無縁の人生を送ることになる。実にもったいない話である。だから良書は、残さねばならない」と考えている。

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数年前、森繁久彌のご子息と偶然の出会いがあった。その後何回かご子息とお会いし、父親の話をお聴きする機会があった。ある時、照明係をしていた人の訃報が届いた。その時、「葬儀に顔を出してやる。お前もついてこい」と。齢九十を過ぎ、しかも冬の寒い日だったが、家族が引き留めるのも聞かず、息子さんと一緒に出かけた。「行くのと行かんのでは、ご遺族の思いが違う。そのことはずっと家族の中で語り続けられるだろう」と。この話は、自分の命を削ってでも、その照明を担当してくれた方の喪に服してあげたいという彼の思いやりとやさしさが現れている。これは、大衆芸能からの初の文化勲章受章とか、俳優界の超大物であったということに関係なく、常に普通の庶民の感覚を忘れなかった証左である。これは戦後の日本人が忘れてしまっていることであると思った。森繁久彌のために何かしてやりたいが何が出来るかと、一出版人として思ったという。

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一冊の本。その本を読んだ人間が、その人の人生を変えるということはよくあるもの。しかし、本は簡単に生み出せるものではない。艱難辛苦を経て、編集して、出版にこぎつける。この5年そのようにしながらようやくにして来月、全著作〈森繁久彌コレクション〉(全5巻)が発刊される。全巻購入を申し込んでいただければありがたい。また、10月18日(金)に有楽町マリオンの朝日ホールで発刊記念シンポジウムを行う。大正生まれの森繁久彌は、“最後の文人”であり、文章も書も実にうまい。実に味がある。「知床旅情」で知られるように歌の作曲、作詞にも卓越したものがある。詩人でもある。こういった作品を集大成したものが、今回の全著作〈森繁久彌コレクション〉である。

しかし、森繁久彌という人は一代で生まれたわけではない。綿々と続く家系や血筋の中から作られてきた。祖父は、幕府の大目付であり、大叔父に成島柳北というジャーナリストがいた。1837年生まれの幕臣で将軍の侍講を務める家柄に養子に。反骨精神の持ち主であり、戊辰戦争で敗れ31歳で隠棲した。あとは自分の自由なように生きるとして明治の新政府を批判し、「朝野新聞」の主筆として活躍し、政府の言論弾圧に立ち向かった。父親の菅沼達吉は大阪市の助役や関西電力の重役を務めた。森繁久彌が2歳の時に亡くなり、このため母方の姓の森繁を名乗るようになった。こういった家風で育った彼の生き方が、勲章や地位と言った冠にとらわれない、目線の低い森繁久彌を育んできたと考えている。

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後藤新平は1857年生まれであるから、1913年生まれの森繁久彌とは半世紀以上の歳の差がある。後藤新平は、1923年に起こった関東大震災の後、山本権兵衛内閣の内相兼帝都復興院総裁となり東京復興の青写真を作った人で、自動車時代の到来を見越して「都市計画」を行っていた。彼が居なかったら現在の東京の発展はなかったであろうと言われている。小池東京都知事も就任した時に、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そしてむくいを求めぬよう」という後藤新平の「自治三訣」を引用して、東京都の都市を改革する決意を述べていた。この「自治三訣」は、後藤新平がロンドンを訪問してボーイスカウトの訓練を見て感銘を受けて作った言葉と言われている。のちに日本のボーイスカウトの創設、発展にも尽力した。後藤は、次世代に期待したのだ。

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その震災から半年後、1924年3月、東北帝大の学生を前に「国難来」の講演をした。1919年の第1次世界大戦の終結時に締結された「ベルサイユ平和条約が、世界平和を再建できる基本となるとは信じられなかった」こと、したがって、これが「第2次世界大戦の始まりを予感」させるものであったこと、そして「第2次世界大戦では日本は傍観者とはなりえない」という後藤新平の世界観から、今後世界がどういう体制で動いていくか、ドイツをどう封じ込めていくかという英、仏、米の思惑と比してドイツがどう対応していくか、日本はどう舵を切っていくかについて講演した。この経緯は藤原書店の後藤新平『国難来』で詳しく述べられている。(本書は講演会で販売された。)

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後藤新平は日本を今後どう構築していくか、世界の中でどう生きるべきかの構想を持たねばならないかという点に思いを馳せ、これからの時代は若い人が作って行かねばならないと考えた。そのために本質を見抜き個と全体の融合を説いた。こういった考えから、2004年から「後藤新平の全仕事」を刊行し、翌年から「後藤新平の会」を起ち上げ、その翌年「後藤新平賞」を設立した。

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先月(8月刊)、同じく当六稜倶楽部で販売されている『後藤新平と五人の実業家』という本を出版した。五人の実業家とは、渋沢栄一、益田孝、安田善次郎、大倉喜八郎、浅野総一郎である。いずれも明治・大正・昭和戦前を代表する大実業家であるが、いずれも後藤新平よりも年上である。しかも、森繁久彌の大叔父であった成島柳北と渋沢栄一は親しかったし、安田善次郎も柳北に一目置いていたとされる。このようにすごい人達が、どこでどうつながっているかという歴史の真実を我々は忘れてはならない。つまり、我々はそういう関係の中で存在していることを。だからものの見方も関係性の中でしか捉えられないということを。

さらに、日本の近代史は、1830年生まれの吉田松陰、1835年生まれの坂本龍馬、福沢諭吉、安場保和(後藤新平の岳父であり育ての親)、1836年生まれの榎本武揚といった天保以降(1830~)の人が動かしており、この点からも、1940年生まれの渋沢栄一、1838年生まれの安田善次郎、1837年生まれの成島柳北などもこういった星のもとに生まれてきて、それが森繁久彌に引き継がれて来たと藤原氏は考えている。

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講演後の質疑応答で、杉尾伸太郎さん(67期)から次の昔のエピソードが紹介された。

杉尾さんの父親の太一郎も北野中学で、同期に久彌の兄の馬詰弘がいて森繁の家に行っては、弟の久彌をからかったという。当時は家同士で行き来して、1ヵ月近くお互いに滞在したこともあるという。渋沢栄一から田園都市株式会社、今の東急を託された小林一三の作った阪急百貨店の食堂でライスにソースをかけて食べていたのは、北野中学のラグビー部の森繁の兄の馬詰と杉尾太一郎らでした。小林一三は支配人から、「どうしましょう。注意しますか」と相談を受けたが、小林一三は、「彼らはいずれ偉くなって、きっと社会のプラスになる人物になる」と咎めだてしなかったそうです。

 

【記録:多賀正義(76期)、修正:藤原良雄】

Ⅷ.資料 資料-1_藤原書店ガイドブック(2019)
資料‐2_藤原良雄氏に関する各種新聞報道の切抜記事
資料‐3_後藤新平 国難来
資料‐4_後藤新平と5人の実業家

 

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