第20回 「日本国憲法第9条~不戦の誓い」   鈴木 宏さん@53期

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reporter:峯 和男(65期)

    日時: 2004年4月21日(水)11時30分~14時
    場所: 銀座ライオン7丁目店6階
    出席者: 50名
    講師: 元国鉄監査委員 鈴木 宏氏 (53期)
    演題: 「日本国憲法第9条 不戦の誓い」
    講師紹介: 53期卒。東大工学部卒業後国鉄勤務、運輸局長等を歴任後、国鉄監査委員を3年間務め退任。その後近畿日本ツーリスト役員を務め平成2年3月退任。昭和24年にクリスチャンとなり、現在、日基教団小石川白山教会員。
    講演内容:
    (要点のみ)
    自分は昭和4年に八尾小学校に入学、昭和10年、北野中学校に入学したが 当時の北野はまだ比較的自由な雰囲気があった。

    本日は下記3点を中心に話をしたい。
    イ:憲法第9条誕生の背景(9条の基本は日本が提示)
    ロ:大江健三郎氏のノーベル賞受賞記念講演からの抜粋
    ハ:キリスト教国でない日本で、このような不戦の誓いが憲法に盛り込まれたことを如何に解釈するか

    ※法律の専門家ではないので、法律論をお話するのではない。
    配布資料【キリスト新聞2004年2月14日、21日号】に寄稿した「不戦の原に戻れ」の記事および、高遠菜穂子著『「戦争と平和」それでもイラク人を嫌いになれない』の内容をもとに原点についてお話したい。


    【イ】憲法第9条誕生の背景
    (i)1945年10月、幣原喜重郎内閣発足。10月25日、政府は憲法問題調査委員会を設置。松本国務大臣が委員長となり、松本委員会と称される。(幣原首相就任が下記の通り大きな意味を持つ)。
    (ii)1946年1月1日、天皇の人間宣言が発表された。この英訳を英語の達人であった幣原首相が自ら手がけ、精根を傾けたためか肺炎に罹り、マッカーサーから届けられたペニシリンにより快癒。
    (iii)1月24日幣原首相はこのお礼にマッカーサーを訪ね3時間面談。通訳を介しない会談であったため記録が残っていないが、この時幣原の口から「戦 争の放棄」の構想が提案され、マッカーサーが痛く感動し、その意見に啓発されたとの説が有力視されている。マッカーサーがそのような内容の証言を1951 年5月米国上院の軍事・外交委員会で行なっている。
    (vi)一方松本委員会では、宮沢俊義(東大教授)、河村又介(九大教授)、清宮四郎(東北大教授)等の委員と美濃部達吉、野村淳治両顧問が真摯な議論を 続けた。そして最終的に「連合国軍撤退後、警察外に要する最少必要限度の国防力の存在を認める」甲案と、「軍規定全面削除」の乙案にまとめた。この論議の 詳細は高見勝利国会図書館専門調査員によって最近明らかにされた。(高見勝利「憲法9条をめぐる解釈対立の源流」=「法学教室」有斐閣2003年12月 号)
    (v)その後の推移は以下の通り
    1月30日:臨時閣議で幣原首相は(1月24日のマッカーサーとの会談のことには触れず)軍規定全面削除(乙案)を支持した。
    2月1日:毎日新聞が松本委員会の論議のスクープ記事を掲載
    2月3日:マッカーサー、憲法改正3原則を示す(マ・ノート)スクープの影響?
    2月4日:GHQ急ぎ憲法草案に着手
    2月8日:松本委員長は甲案を採った「憲法改正要綱」をGHQに提出、何故? 2月12日:GHQ憲法草案確定
    2月13日:GHQ、松本委員会案(甲案)を拒否、マッカーサー草案を政府に提示
    2月22日:マッカーサー草案受け入れを閣議決定
    4月17日:政府、憲法改正草案を発表
    (vi)以上のことから、第9条の平和主義・非軍事国家構想はもともと日本側にあったことが判る。敗戦により、厭戦気分、平和願望が強く残っていた時期で あり、その後朝鮮戦争勃発と同時にマッカーサーが警察予備隊の設置を指令したこと、及び米ソの冷戦が現実化した事実を見れば、戦後2~3年の間しかこの平 和憲法の生まれるタイミングはなかったと思われる。


    【ロ】大江健三郎氏記念講演
    1994年秋ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏は受賞記念講演で次のように述べている
    (i)新生に向かう日本人を支えたのは民主主義と不戦の誓いであって、それが新しい日本人の根本のモラルでありました。しかもそのモラルを内包する個人と社会はイノセントな無傷のものではなく、アジアへの侵略者としての経験にしみつけられていました
    (ii)現在日本という国家が、国連を通じての軍事的な役割で、世界の平和の維持と回復のために積極的でないという国際的批判があります。それは我々の耳 に痛みとともに届いています。しかし日本は再出発のための憲法の核心に、不戦の誓いをおく必要があったのです。痛苦とともに日本人は新生へのモラルの基本 として不戦の原理を選んだのです
    (iii)それは、良心的徴兵拒否者への寛容という点で長い伝統を持つ西欧において最もよく理解されうる思想ではないでしょうか。この不戦の誓いを日本国 の憲法から取り外せば—–それへ向けての策動は国内に常にありましたし、国際的な、いわゆる外圧をそれに利用しようとする試みも、これらの策動には 含まれてきました—–何よりも先ず我々はアジアと広島、長崎の犠牲者を裏切ることになるのです。その後にどのように惨たらしい新しい裏切りが続きう るかを、私は小説家として想像しないわけにはいきません(—–以下略—–)
    (注)良心的兵役拒否が法制化されている国は下記資本主義国14カ国
    米、英、仏、独、ベルギー、オランダ、デンマーク、スエーデン、ノルウェー、フィンランド、イスラエル、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド
    これには宗教的背景あり、宗教改革時代に生まれたアナバプテスト(再洗礼派)により打ち出され、その後メノナイト、クエーカー、ブレズレンの3教派が代表的。この良心的兵役拒否には、殆んどの場合、代替責務として「市民的公共奉仕」が義務付けられる。


    【ハ】キリスト教国でない日本で何故不戦の誓いが憲法に盛り込まれたか(日本のキリスト者の解釈)
    関田寛雄氏(青山学院大学名誉教授、日基教団巡回牧師)の解釈:
    イスラエルのバビロン捕囚解放は、異邦人キュロス王を用いたもうた神のみ業でありました。神の摂理は人間の思惑を超えた驚くべき手段と経過を通して行な われます。(—中略—)神の御計画はユダヤ人・異邦人の区別はないのです。「神は憐れもうとするものを憐れみたもう」自由な決断をなさる方であり ますので、人間の思いを越える歴史の展開が行なわれます。(—中略—)したがって、神はその御計画(人類を救わんとする)のためには自由に、時に はユダヤ人を、時には異邦人をお用いになるのです。そのことが歴史の核心であるとすれば、第2次大戦後“異教国”日本が、世界から戦争をなくすための 「器」として神に選ばれたと受け止めるのは、日本のキリスト者の必然的な聖書理解でありましょう。