太陽電池と「低い国」と〜民間企業研究者の海外転職記【第15話】
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オランダで家を買う《7》コンニチハ、ハジメマシテ


 物件引渡し日の7月26日は、朝から爽やかに晴れ上がっていた。大阪なら梅雨明けして間もなく、天神祭の翌日の一年で最も蒸し暑い日であるが、その日のオランダも、大阪ほどではないにしても、暑くなりそうな一日であった。

 朝、約束の時間に一家総出で物件に出向くと、お馴染みの不動産屋Mと売主側不動産屋が、既に家の前で待っていた。家の中に通されると、売主家族と初めての対面となった。相手方夫婦の年齢と出身地は、契約関連の書類を見て知っていた。事前の下見で、筆者の子供と同年代の男の子が一人いるのも想像できた。しかし、筆者より5才年長のご夫君Hが、なんとECNの研究者だったことには驚いた。お互い初対面ではあったが、ECNには永く勤めているそうで、筆者の助っ人・同僚Jも含め、共通の知人はかなりの数に上るようだった。彼らの転出先はそれほど遠くはないが、ご妻女の仕事により都合のよいところに移るのだそうだ。


▲きれいに片付けられた台所
 家の中はきれいに片付けられていた。後で隣人に聞いたところによると、几帳面なドイツ人のご妻女が、引越後何日もかけてきれいに掃除していたらしい。
 絨毯、壁紙、カーテン、ブラインドなどもきれいな状態で残されており、冷蔵庫や食器洗浄機も据置き式だったので、生活のため買い足す必要があったのは、洗濯機と各部屋の電灯ぐらいのものだった。
 通常オランダで住宅家屋の引渡しがあるときは、壁も床もコンクリートがむき出しで、入居に向けて、まず天井のペンキ塗りから始めることが一般的であることを考えると、非常に幸運な物件に巡り会えたと言える。


▲天井はきれいに電灯が取り外されている
 一応オランダ人のために弁解しておくと、コンクリートむき出し状態で引き渡すのは、意地が悪いからではない。人の好みは千差万別なので、次の入居者が自分のお気に入りの内装をやりやすくするための、オランダ人流の「親切」なのである。オランダ人一般は家の内装を自分好みに飾り付けるのが大好きな人が多く、家を買ったときの一大イベントとも位置づけており、その類の商店は大賑わいである。
 転出した家の絨毯や壁紙を引っぺがしていくのも、お気に入りだった装飾品を次に移り住む家でも活用するためなので、わざわざ手間をかけてゴミを増やしているだけのようにも見えるが、彼らにとっては楽しみの一つなのだ。
 幸いにしてこの物件の売主Hは、ご妻女がオランダ人ではなかったせいかも知れないが、そこまでの趣味は持ち合わせておらず、据付品のうち新居に持っていったのは電灯類だけだった。トイレの電灯まで取り外して持っていったのには少し閉口したけれども。

 これらの引渡し時の部屋の状態は、物件の状況説明書に記載されている。売主Hの説明を受けながら、不動産屋Mとともに状態を視察した。日本で住居を売り渡したときの記憶がまだ新鮮だったので、この辺りはしっかり注意を払っていたつもりだったが、電灯について説明書で言及がなかったのは見落としていた。少なくとも、間違いなく説明書どおりであることは確認できた。


▲公証人事務所は、こんな感じ
 物件の状態の確認がすむと、総勢で公証人事務所への移動となった。双方の不動産屋は車で向かったが、筆者たちは売主Hの家族の案内で、自転車で公証人事務所へと向かった。住居表示でおよその場所は知っていたが、H達は筆者達の知らない近道を通っていった。さすがに長年住んでいるだけあって詳しいものだ。

 事務所に着くと、待合室に通された。全員揃ってしばらく待っていると、男が一人入ってきた。一応スーツは着ているが、少しむさ苦しい感じ、30台中ごろに見えた。この人が公証人か、思ったより若いな、想像したより貫禄がないな、と思っていると、男が第一声を発した。

 「コンニチハ。コマツサン デスネ。ハジメマシテ。Pト モウシマス。」

 突然の日本語を喋るオランダ人の出現に、筆者らはかなり面食らってしまった。しかもその日本語のレベルは、流暢とまでは行かないものの、片言レベルからは数段上、今まで知り合ったオランダ人の中では、屈指のレベルだった。
 ここの公証人はこんなに日本語が喋れるのか、と早合点して感心していると、不動産屋Mが横から、「彼が今日の君達の通訳だ。ほら、君達の支払い明細の一番上、通訳料800ユーロって書いてあるだろ。」するとPが「オー、ワタシ、コンナニ タクサン モラワナイデス(その後オランダ語でMにゴニョゴニョゴニョ)」

 そういえば数ヶ月前に、「外国人が重要な契約の当事者になる場合は通訳の同席をオランダ政府が義務付けることになっている」という情報を、どこかで目にしたことを思い出した。不動産売買がそれほど「重要な契約」に相当するとは思っていなかった。そもそも、オランダ語で書かれた支払い明細の項目を一々チェックしていなかった。細かいことはMに任せきり、全てはMの指示通りに動いただけで、通訳が来るなど全くの考慮外だった上、そのコストを「当事者の外国人」が負担することも、全く想像していなかった。


▲ライデンに大量の日本の文物を持ち帰ったシーボルト
彼の事績がライデン大学における日本語および日本文化
研究の礎となった。
 Pは、公証人の依頼により通訳協会から派遣された日本語通訳で、ライデン大学の日本語科 で教育を受けて何年か前に資格を取ったそうである。今はアルクマールの西約5キロのEgmondという海辺の町に住んでいるが、この地方では日本語通訳の仕事はほとんどなかったらしい。シャンパン貿易の経営が忙しくて、日本語を使う機会がほとんどなかったので、こんな近くに日本人が住み着こうとしているのを喜んでくれた。「たぶんボクの交通費が他のヒトより安いんでしょう」と話していた。
 ちなみに800ユーロは公証人が多めに見積もった金額で、Pの通訳協会への業務報告を元に公証人にこのあと請求明細が届き、残額は筆者に払い戻されることになるので、P個人は「こんなに沢山もらわない」。



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Last Update: Aug.23,2007