太陽電池と「低い国」と〜民間企業研究者の海外転職記【第14話】
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オランダで家を買う《6》公証人登場



▲アルクマールの不動産屋【その4】

 翌日、筆者は普通に出勤だったが、同僚Jは公休日だった。同僚Jの自宅はECNから約5キロ、アルクマールからは約20キロのところにあるが、「ついでがあるから」と言って、前述の大手不動産屋のアルクマール支店を訪ねてくれた。10時過ぎにはJから電話があり、「担当者が決まったからいま変わる。」
 電話口に出た不動産屋の担当者Mは「話はJから聞いた。ボクも先方に連絡して、これからその物件を訪ねてみるよ。」話はトントン拍子に進んだ。

 退勤時間の少し前、Mから電話があった。「いい物件だ。内装もきれいだし、提示価格も悪くない。でももう少し値引きができると思う。交渉を任せてもらえるか」こちらは元よりそのつもりだったので、迷わず承諾した。約10%引きの金額を逆提案することになった。
 翌日午前中、またMから電話。2%引きを提案してきたので8%引きを逆提案したいとのこと。念のためこちらから、10%引きをそのまま主張できないか尋ねてみたが、「どうしても10%引きを要求し続けたいなら従うが、無理な値引きを要求すると決裂させるおそれがある」とのアドバイスに従い、Mの方針に従うことにした。
 その日の夕方、またMから電話。「先方が4.5%引きを提案してきた。かなり譲歩してきたようなので、この提案を受け入れることを勧めるよ」 そう言われると受け入れないわけにはいかない。「OK。承諾。その値を受け入れる」

 こうして、あれよあれよという間に、家の買値が決まった。筆者と同僚Jの素人二人がかりでは、とても動きそうになかった家の売値が、職場で電話に対応しているうちに決まってしまった。あまりのあっけなさに、もしや出来レースでは?と疑いたくなる気持ちもあったが、Mの不動産屋に支払う手数料は値引き幅にくらべるとかなり小さいことは間違いない。交渉力のある大手不動産屋のおかげでいい取引ができたと、気分よく交渉の結果を受け入れることにした。

 翌週Mが自宅に訪ねてきた。これまで数度の電話とメールのやり取りで、初対面とは思えなかった。あらかじめメールで送られていた、購入手続き等代行依頼契約を結ぶのが主目的だが、その時点でこちらが抱えていたいくつかの疑問や不安にも、回答やアドバイスを与えてくれた。一時間ほどのミーティングの後、筆者と妻の二人分のサインの入った書類を持ってMは帰って行った。
 ローン仲介業者HにもMから交渉後の金額が伝わっており、その金額にしたがって、ローン借入額と利息支払い計画を決定した。また、ローン審査に必要な書類(滞在許可証、労働許可証、給与・雇用証明等)を提出し、あとは手付け金を用意するのみというところまで漕ぎつけた。


▲“Restraunt de Notaris”=「レストラン公証人」
アルクマールのチーズ計量所広場にある。
本文とは関係ないが、ここの料理は美味い。
ヤノケイ編集長の表敬訪問の際にも、ここにお連れした。
 ローン審査に無事合格すると、物件価格の10%の手付金を振り込むよう、Mから指示があった。振込先が見慣れぬ名前だったので、売主の口座かと尋ねると、オランダ語でnotaris 英語でnotary、とにかく取引の仲介者だという。
 notaryを英和辞書で調べてみると、公証人、とある。ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」には「公証人ファルケ」という人物が登場する。あるいは1990年代に某カルト団体によるテロ行為の標的とされた方が公証人だった。恥ずかしながら筆者の知識にある「公証人」とはこの程度のもので、これまでの人生で全く縁のない存在だった。
 日本では不動産取引には司法書士が立ち会ったが、字面から推測して、公証人も同じようなものかと、生返事で自分を納得させた。

 そういえば日本で中古住宅を取引したときは、手付金は直接買手から売主に支払われた。仮契約時に不動産屋店舗で書類に署名捺印をし、現金または小切手で手付金は手渡された。この際司法書士は立ち会わなかった。本契約は買手側の取引銀行の会議室を使い、そこで司法書士が初めて登場した。支払い明細は不動産屋が作成し、進行を取り仕切ったのも不動産屋だった。
 今回の取引では、どうやらこの公証人が一切を取り仕切るようだ。双方の不動産屋の立場が対等なので、中立者が取り仕切る必要があるが、書類作成が主任務の司法書士と違って、裁定権がありそうな公証人がこの任に当たるらしい。
 残金の支払い明細が送られてきたのも、公証人からだった。売買契約や抵当権設定の契約も、公証人の事務所で行われる。現金の流れも、公証人が手付金を保証金の名目で一時的に預かり、本契約時に売買代金として一括で売主に支払われる。一時預け分は利息も定期預金での標準利息(年約2.5%)が日割りで計上される。不動産屋への支払いも、公証人経由で支払われるので、主導権は完全に公証人にある。


▲個人間における不動産取引時の現金の流れ

 さて、不動産取引における現金の流れの日蘭の違いを図にまとめてみた。オランダの場合は、取引の主導権は公証人にある。公証人が、取引に必要な全ての条件―――買手が現金を準備したことも含め―――が成立したことを確認して、初めて現金が売主に渡され、物件の権利が買手に渡される。万一その場で不備が発見されれば、取引の不成立や、然るべきペナルティ等が公証人によって裁定される。いずれにせよ、取引成立の最終責任は、政府から権限を委任された公証人にある。
 一方、日本はどうか。一見、不動産屋が取引を仕切ってはいるが、取引成立の決断を下すのは売主および買手で、不動産屋と司法書士は最終責任を負わない。万一不動産屋や司法書士が誤りを犯し、売主買手双方がそれに気付かなかった場合、責任の所在が曖昧になるように思われる。
 どちらが是でどちらが非とは言わない。司法書士の方が公証人に比べ社会的なコストが低いなどの利点もあろう。ただ、オランダの場合、不動産売買が気軽に行える一方、取引の最終局面でしっかりとした仕切りを設けているように思える。日本の場合は、不動産屋が信頼できる存在であることが何より大切なように思える。
 契約重視社会(オランダ)と信用重視社会(日本)の違いが垣間見えたような気がする。

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Last Update: Jul.26,2007