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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 13:01:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 第8幕
正統性のある政府を




投票を待つ人々



選挙は民主主義を実現するためのひとつの手段であることは誰もが認識するところではありますけれど、PKO下の選挙はもうひとつ特別な使命を負っています。それは、復興に向けての強いリーダーシップを発揮できる「正統性」を新しい政府に与える、ということです。内戦で国が2分、3分されてしまった後で、また一緒になって国づくりを進めてゆくには、強い正統性を持った政府をつくる必要があります。そのためには、国際社会が一緒になって準備をした自由で公正な選挙によってこの政府は誕生した、というしっかりとした事実を作り上げることです。日本や他の先進諸国では、選挙は自由で公正なものという前提で社会が成り立っていますが、そうではない国も世界中にたくさんあります。ですので、ここで第三者の国連が関与しているということが非常に重要になってくるのです。




内戦後、初めての投票



投票日当日は快晴でした。これまで1年間準備してきたものがこの1日にかかっていると思うと、喜びと不安の混ざった複雑な心境でした。大統領、上院、下院の同時選挙で、投票率は約75％。紛争直後の選挙としてはやや低めでした。天気が良いと日本では投票率が上がるという因果関係ですが、熱帯の国では炎天下で列をなして投票を待つ人々の健康状態をまず心配しなければならないということになります。あまりに待ち時間が長いと、元兵士が暴れ出す可能性もありますので、投票所のスタッフは必死です。投票自体は大きな混乱なく実施されました。そして即日開票して集計され、一連の選挙実施プロセスは大成功に終わりました。正直なところ、誰が当選したかは今でも思い出せないことがあるんですね。そのことよりも、選挙が平和裏に実施されたことが何よりもうれしくて、選挙スタッフが実務面で仕事をやり遂げたことに心からおめでとうと言いたい気持ちでした。
非常に部分的ではありましたが、コソボとリベリアの国連PKOの「一部分」の様子がお伝えできていれば幸いです。現在も15ほどのPKOが世界各地で展開されていますが、これが増えないことを願うばかりです。
後輩たちに一言ですか？そうですね、私もまだ勉強の日々ですのであまり言える立場にありませんが、ではひとつだけお誘いを。社会へ出るタイミングになったら、国際協力を仕事にするという選択肢もぜひ考えてほしいと思います。現場にいて感じるのは、日本人スタッフの少なさです。平和構築というフィールドは日本人にとってぴったりの仕事場だと思っています。北野の後輩がどんどん入ってきてくれると嬉しいですね。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第8幕</span><br />
<span>正統性のある政府を</span></p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi8-1.jpg" alt="投票を待つ人々" width="320" height="240" /><br />
<span>投票を待つ人々</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>選挙は民主主義を実現するためのひとつの手段であることは誰もが認識するところではありますけれど、PKO下の選挙はもうひとつ特別な使命を負っています。それは、復興に向けての強いリーダーシップを発揮できる「正統性」を新しい政府に与える、ということです。内戦で国が2分、3分されてしまった後で、また一緒になって国づくりを進めてゆくには、強い正統性を持った政府をつくる必要があります。そのためには、国際社会が一緒になって準備をした自由で公正な選挙によってこの政府は誕生した、というしっかりとした事実を作り上げることです。日本や他の先進諸国では、選挙は自由で公正なものという前提で社会が成り立っていますが、そうではない国も世界中にたくさんあります。ですので、ここで第三者の国連が関与しているということが非常に重要になってくるのです。</p>
<table border="0" width="350" align="left">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../../home/people2001/tatsumi8-2.jpg" alt="内戦後、初めての投票" width="320" height="240" /><br />
<span>内戦後、初めての投票</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>投票日当日は快晴でした。これまで1年間準備してきたものがこの1日にかかっていると思うと、喜びと不安の混ざった複雑な心境でした。大統領、上院、下院の同時選挙で、投票率は約75％。紛争直後の選挙としてはやや低めでした。天気が良いと日本では投票率が上がるという因果関係ですが、熱帯の国では炎天下で列をなして投票を待つ人々の健康状態をまず心配しなければならないということになります。あまりに待ち時間が長いと、元兵士が暴れ出す可能性もありますので、投票所のスタッフは必死です。投票自体は大きな混乱なく実施されました。そして即日開票して集計され、一連の選挙実施プロセスは大成功に終わりました。正直なところ、誰が当選したかは今でも思い出せないことがあるんですね。そのことよりも、選挙が平和裏に実施されたことが何よりもうれしくて、選挙スタッフが実務面で仕事をやり遂げたことに心からおめでとうと言いたい気持ちでした。</p>
<p>非常に部分的ではありましたが、コソボとリベリアの国連PKOの「一部分」の様子がお伝えできていれば幸いです。現在も15ほどのPKOが世界各地で展開されていますが、これが増えないことを願うばかりです。</p>
<p>後輩たちに一言ですか？そうですね、私もまだ勉強の日々ですのであまり言える立場にありませんが、ではひとつだけお誘いを。社会へ出るタイミングになったら、国際協力を仕事にするという選択肢もぜひ考えてほしいと思います。現場にいて感じるのは、日本人スタッフの少なさです。平和構築というフィールドは日本人にとってぴったりの仕事場だと思っています。北野の後輩がどんどん入ってきてくれると嬉しいですね。</p>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 13:00:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 第7幕
リベリア紛争と選挙支援




リベリアのある村にて



私にとって2度目のPKO参加となったのは西アフリカの国、リベリアした。そこでの任務についてお話したいと思います。コソボの背景説明はちょっと深入り し過ぎた気がしていますので（笑）、リベリアに関しては背景部分はさらっとだけで、仕事の部分を中心にお話しさせていただきます。
リベリアは西アフリカにある人口約350万人の国です。「Liberia」と書く通り、その国名は「Liberty（自由）」からきていまして、米国から の解放奴隷がアフリカに戻って来て、19世紀に建国した国です。近年の内戦は政府と反政府組織との紛争ですが、ベルリンの壁が崩壊した1989年から断続 的に約14年間続いて、双方と市民合わせて約25～30万人の犠牲者が出たと言われています。2003年にようやく政府と反政府組織との間で和平合意が結 ばれましたが、この合意の中に、国連に対してPKOミッションの派遣を要請するくだりがありまして、求めに応じて安保理はUNMIL（UN  Mission in  Liberia、国連リベリアミッション、ウンミルと読みます）の設立を承認、派遣しました。私はそのUNMILの選挙支援部の研修教育課で仕事をするこ とになりました。




選挙スタッフのトレーナーを育成



「選挙」の仕事と聞くと、大抵は「選挙監視」のことだと思われるのですが、私が関わったのは「選挙支援」の方です。選挙支援とはどういう仕事かと申します と、リベリアの選挙管理委員会と一体となって選挙を準備してゆく仕事です。投票日の1年半も前から準備を始め、国際スタッフも200人を超える一大オペ レーションです。
選挙支援部は大きく3つのセクションに分かれています。オペレーション課、ロジスティック課、そして研修教育課です。オペレーション課は全体管理を、ロジ 課はハード面を、研修教育課はソフト面を、という役回りです。私のいた研修教育課は選挙の実施マニュアルをつくったり、それを使って選挙スタッフへのト レーニングをやったり、市民教育の方法を企画したり、フィールドでの実施状況をモニタリングしたりするのが主な仕事でした。
生活の方はコソボに比べるとある意味快適でした。トロピカルなところなのでずっと暑いことは暑いのですが、マイナス20度の冬よりは楽ですよね。首都モン ロビアでさえ電気と水道が復旧していない状態でしたし、休みの日などは海に出かけるしかないので、ほとんど毎週末泳いでいました。




ヘリコプターで地方へ



地方はほんとうに首都から切り離れてしまっていて、道もひどいですし、車で行くと何日もかかってしまうので、出張はUNの定期ヘリコプター便で行っていました。熱帯雨林のジャングルの上を飛ぶのは本当にダイナミックで、美しさに見入ってしまいました。
しかし、車で行けないようなところにまで投票箱を持っていって選挙を実施することに、果たして意味があるのかどうか、という議論があります。ジャングルの山奥に「デモクラシー」を掲げて入って行く訳です。どう思われますか？
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第7幕</span><br />
<span>リベリア紛争と選挙支援</span></p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi7-1.jpg" alt="リベリアのある村にて" width="320" height="240" /><br />
<span>リベリアのある村にて</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>私にとって2度目のPKO参加となったのは西アフリカの国、リベリアした。そこでの任務についてお話したいと思います。コソボの背景説明はちょっと深入り し過ぎた気がしていますので（笑）、リベリアに関しては背景部分はさらっとだけで、仕事の部分を中心にお話しさせていただきます。</p>
<p>リベリアは西アフリカにある人口約350万人の国です。「Liberia」と書く通り、その国名は「Liberty（自由）」からきていまして、米国から の解放奴隷がアフリカに戻って来て、19世紀に建国した国です。近年の内戦は政府と反政府組織との紛争ですが、ベルリンの壁が崩壊した1989年から断続 的に約14年間続いて、双方と市民合わせて約25～30万人の犠牲者が出たと言われています。2003年にようやく政府と反政府組織との間で和平合意が結 ばれましたが、この合意の中に、国連に対してPKOミッションの派遣を要請するくだりがありまして、求めに応じて安保理はUNMIL（UN  Mission in  Liberia、国連リベリアミッション、ウンミルと読みます）の設立を承認、派遣しました。私はそのUNMILの選挙支援部の研修教育課で仕事をするこ とになりました。</p>
<table border="0" width="350" align="left">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../../home/people2001/tatsumi7-2.jpg" alt="選挙スタッフのトレーナーを育成" width="320" height="240" /><br />
<span>選挙スタッフのトレーナーを育成</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>「選挙」の仕事と聞くと、大抵は「選挙監視」のことだと思われるのですが、私が関わったのは「選挙支援」の方です。選挙支援とはどういう仕事かと申します と、リベリアの選挙管理委員会と一体となって選挙を準備してゆく仕事です。投票日の1年半も前から準備を始め、国際スタッフも200人を超える一大オペ レーションです。</p>
<p>選挙支援部は大きく3つのセクションに分かれています。オペレーション課、ロジスティック課、そして研修教育課です。オペレーション課は全体管理を、ロジ 課はハード面を、研修教育課はソフト面を、という役回りです。私のいた研修教育課は選挙の実施マニュアルをつくったり、それを使って選挙スタッフへのト レーニングをやったり、市民教育の方法を企画したり、フィールドでの実施状況をモニタリングしたりするのが主な仕事でした。</p>
<p>生活の方はコソボに比べるとある意味快適でした。トロピカルなところなのでずっと暑いことは暑いのですが、マイナス20度の冬よりは楽ですよね。首都モン ロビアでさえ電気と水道が復旧していない状態でしたし、休みの日などは海に出かけるしかないので、ほとんど毎週末泳いでいました。</p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi7-3.jpg" alt="ヘリコプターで地方へ" width="320" height="240" /><br />
<span>ヘリコプターで地方へ</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>地方はほんとうに首都から切り離れてしまっていて、道もひどいですし、車で行くと何日もかかってしまうので、出張はUNの定期ヘリコプター便で行っていました。熱帯雨林のジャングルの上を飛ぶのは本当にダイナミックで、美しさに見入ってしまいました。</p>
<p>しかし、車で行けないようなところにまで投票箱を持っていって選挙を実施することに、果たして意味があるのかどうか、という議論があります。ジャングルの山奥に「デモクラシー」を掲げて入って行く訳です。どう思われますか？</p>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:59:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 第6幕
民族分断の町




ミトロビッツァの橋にて、対峙する両民族



ところで、このミトロビッツァという町はコソボを象徴するようなところなのですが、町の真ん中を流れているイバール川の北側がセルビア系住民の居住地区、 南側がアルバニア系住民の居住地区となっています。私がいた当時は、橋を渡って反対側に行くとお互い命が危ない、という状況でした。私たち国際スタッフは 民族紛争の当事者ではありませんのでそれ程危険を感じることはないですから、私は北側に住み、橋を渡って南側にある市役所に働きに行くという毎日でした。 双方に仕事仲間や友人がいましたので、よくお茶をしながら話をしましたが、普段は笑顔の素敵な人たちが紛争の話になると途端に顔を歪め、相手側がいかにひ どいかを力説するというような場面に何度も出くわし、民族間の憎しみの深さを実感させられことが度々ありました。でもそれと同時に、双方とも橋の向こうに 多くの友人がいることも見えてきました。民族という単位では憎しみが支配するけれども、個人という単位では未だに電話などで連絡を取り合っているという二 重構造がそこにはありました。




ドキュメンテーション・センターのスタッフたち



結局UNMIKでは約2年間仕事をしました。苦労して立ち上げたドキュメンテーション・センターはそのまま市役所の住民登録課へと発展してゆき、私が去る 頃には約20名の現地スタッフが自分たちだけで業務を遂行してゆけるだけのレベルに達していました。紛争後の廃墟から、よくぞここまで来たという思いで胸 が一杯になりました。住民登録課だけでなく、教育課、医療保健課、土地管理課なども何とか最低限の住民サービスを提供できるレベルには回復していました。 それぞれの部署で国際スタッフと現地スタッフの協力が実を結んだということですね。
コソボの地位に関しては、国際社会の仲介のもと、セルビア当局とコソボ当局の間で協議が続けられていますが、なかなか妥協点を見出すには至っていません。 「コソボの独立を支持する」と公言するある大国の姿勢によって、交渉はコソボ当局にとってあまり意味のあるものではなくなっています。セルビア側は色々と 妥協案を提示していますが、コソボ側は突っぱね続けていれば、いずれタイムアウトで独立が手に入るだろうというスタンスです。いずれセルビアはEUに加盟 するでしょうから、国境がなくなってくる部分と、国境が新たにできてしまう部分が同居するということになるのかも知れませんね。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第6幕</span><br />
<span>民族分断の町</span></p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi6-1.jpg" alt="ミトロビッツァの橋にて、対峙する両民族" width="320" height="240" /><br />
<span>ミトロビッツァの橋にて、対峙する両民族</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>ところで、このミトロビッツァという町はコソボを象徴するようなところなのですが、町の真ん中を流れているイバール川の北側がセルビア系住民の居住地区、 南側がアルバニア系住民の居住地区となっています。私がいた当時は、橋を渡って反対側に行くとお互い命が危ない、という状況でした。私たち国際スタッフは 民族紛争の当事者ではありませんのでそれ程危険を感じることはないですから、私は北側に住み、橋を渡って南側にある市役所に働きに行くという毎日でした。 双方に仕事仲間や友人がいましたので、よくお茶をしながら話をしましたが、普段は笑顔の素敵な人たちが紛争の話になると途端に顔を歪め、相手側がいかにひ どいかを力説するというような場面に何度も出くわし、民族間の憎しみの深さを実感させられことが度々ありました。でもそれと同時に、双方とも橋の向こうに 多くの友人がいることも見えてきました。民族という単位では憎しみが支配するけれども、個人という単位では未だに電話などで連絡を取り合っているという二 重構造がそこにはありました。</p>
<table border="0" width="350" align="left">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../../home/people2001/tatsumi6-2.jpg" alt="ドキュメンテーション・センターのスタッフたち" width="320" height="240" /><br />
<span>ドキュメンテーション・センターのスタッフたち</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>結局UNMIKでは約2年間仕事をしました。苦労して立ち上げたドキュメンテーション・センターはそのまま市役所の住民登録課へと発展してゆき、私が去る 頃には約20名の現地スタッフが自分たちだけで業務を遂行してゆけるだけのレベルに達していました。紛争後の廃墟から、よくぞここまで来たという思いで胸 が一杯になりました。住民登録課だけでなく、教育課、医療保健課、土地管理課なども何とか最低限の住民サービスを提供できるレベルには回復していました。 それぞれの部署で国際スタッフと現地スタッフの協力が実を結んだということですね。</p>
<p>コソボの地位に関しては、国際社会の仲介のもと、セルビア当局とコソボ当局の間で協議が続けられていますが、なかなか妥協点を見出すには至っていません。 「コソボの独立を支持する」と公言するある大国の姿勢によって、交渉はコソボ当局にとってあまり意味のあるものではなくなっています。セルビア側は色々と 妥協案を提示していますが、コソボ側は突っぱね続けていれば、いずれタイムアウトで独立が手に入るだろうというスタンスです。いずれセルビアはEUに加盟 するでしょうから、国境がなくなってくる部分と、国境が新たにできてしまう部分が同居するということになるのかも知れませんね。</p>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:58:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=912</guid>
		<description><![CDATA[ 第5幕
国連コソボ暫定行政ミッション
NATOによる空爆が終了して、紛争がひと段落したため、周辺国へ難民として逃れていたコソボのアルバニア系住民が続々とコソボへ戻ってきました。でも多 くの家が紛争中に破壊されたり焼かれたりしていて、戻って来ても住むところがない、というのが帰還民の人たちの現実でした。しかも、冬を迎える直前で、コ ソボの冬はマイナス２０度にもなりますので、多くの凍死者がでるかもしれないという危惧があったのです。そこで、日本政府の拠出金により、破壊の度合いの 最も激しい地域で住民を無事に越冬させるプロジェクトを日本のNGOが実施するということになり、縁あって私はこのプロジェクトのスタッフとして働くこと になりました。日本からコソボの州都プリシュティナへ飛んだのは空爆終了後の1999年11月でした。
プリシュティナへ到着後、すぐにプロジェクトの実施地区へ移りまして、村々へ出かけて行っては家の破壊の度合いを確認して、村長さん達と相談しながらどの 家を修復すればより多くの家族を収容できるのか、修復のための資材はどれくらい必要か、必要資材が決まったら発注して、届けて…という作業を3カ月間続 け、何とかその地域では凍死者を出さずに冬を越せました。このプロジェクトの話もぜひしたいのですが、今回はPKOの話が中心ということで、先に進ませて いただきますね。




ドキュメンテーション・センターにて
アルバニア語通訳のコラブくんと



NGOでの仕事がひと段落し始めた頃、UNMIK（UN Mission in  Kosovo、国連コソボ暫定行政機構、ウンミックと読みます）がスタッフを募集していることを知りました。暫定行政機構というのは、つまりコソボの状況 が落ち着いてくるまでは国連が暫定的に政府機能を担いましょう、というものです。こちらでも縁があって、NGOでの仕事が終わると同時にUNMIKのス タッフになりました。「ドキュメンテーション・オフィサー」という職種でミトロビッツァという町の市役所に配属されました。どのような仕事かと申します と、市役所に本来あるような色々な書類、つまりドキュメントを何でもよいので捜し出してきてひと所に集め、ドキュメンテーション・センターという場所を 作って、市役所機能を回復させる土台づくりをする、と言えばよいでしょうか。つまりこの仕事が必要とされている背景には、紛争によって役所の機能はもちろ んのこと、住民情報などの基本的な市民情報もどこかに消えてしまっていましたので、誰がこの町に住んでいたのか、誰と誰が夫婦でその子どもは誰かというよ うなことが全然分からないという状況だったのです。市役所に行って「住民票ください」と言っても「あなたの住民票はありません」という状況ですね。これで は行政サービスの再開どころではありません。




ゴミのように積まれた重要書類



市役所にはほとんど何の書類も残っていませんでしたので、さてどうしたものかと最初は立ち尽くしてしまいました。そのうち色々な書類が色んな場所に散乱し ているという状況が見えてきまして、例えばIDカードの控え票の一部が、なぜか消防署の一室にゴミのように積まれていたり、土地関係の書類が全然関係のな い建物のトイレに積まれていたり、そういう情報を入手しては出かけて行って書類を回収して、市役所の一室に集めてきては整理してという具合に。学校の生徒 名簿なども重要な情報ですので、学校を基地にしてしまっているフランス軍のところへ行って名簿を譲り渡してくれるよう交渉したり。なぜフランス軍がミトロ ビッツァ市にいるのかと言いますと、コソボに展開されている国際平和維持部隊、KFORと呼ばれていますが、実質NATOです、のミトロビッツァ地区担当 がフランス軍だからです。そうこうしている内に市役所のドキュメンテーション・センターにはかなりの情報が集まりまして、自分で言うのもなんですが、結構 使えるセンターになっていました。
そして次のフェーズは住民登録です。住民登録はどのPKOにおいても一大オペレーションで、例えばミトロビッツァ市だけでも約7万人の住民がいましたが、 その住民の全てを登録し直す訳です。仕事の膨大さは想像していただけるかと思います。何十人という国際スタッフと現地スタッフが配置されて、市のあちらこ ちらに登録所を設置してどんどん登録してゆくのですが、IDカードや免許証などを紛争中に失くしてしまったり、取り上げられてしまったりという人が半数ぐ らいいて、そういう人たちの申請書は私のいるドキュメンテーション・センターへ送られてきます。そこで、申請書に書かれている個人情報を、これまでかき集 めてきた膨大な書類の中から見つけ出して、照合して、その人物が特定できたら無事登録されます。20人ほどの現地スタッフとともに本人確認に明け暮れる毎 日でした。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第5幕</span><br />
<span>国連コソボ暫定行政ミッション</span></p>
<p>NATOによる空爆が終了して、紛争がひと段落したため、周辺国へ難民として逃れていたコソボのアルバニア系住民が続々とコソボへ戻ってきました。でも多 くの家が紛争中に破壊されたり焼かれたりしていて、戻って来ても住むところがない、というのが帰還民の人たちの現実でした。しかも、冬を迎える直前で、コ ソボの冬はマイナス２０度にもなりますので、多くの凍死者がでるかもしれないという危惧があったのです。そこで、日本政府の拠出金により、破壊の度合いの 最も激しい地域で住民を無事に越冬させるプロジェクトを日本のNGOが実施するということになり、縁あって私はこのプロジェクトのスタッフとして働くこと になりました。日本からコソボの州都プリシュティナへ飛んだのは空爆終了後の1999年11月でした。</p>
<p>プリシュティナへ到着後、すぐにプロジェクトの実施地区へ移りまして、村々へ出かけて行っては家の破壊の度合いを確認して、村長さん達と相談しながらどの 家を修復すればより多くの家族を収容できるのか、修復のための資材はどれくらい必要か、必要資材が決まったら発注して、届けて…という作業を3カ月間続 け、何とかその地域では凍死者を出さずに冬を越せました。このプロジェクトの話もぜひしたいのですが、今回はPKOの話が中心ということで、先に進ませて いただきますね。</p>
<table border="0" width="350" align="left">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../../home/people2001/tatsumi5-1.jpg" alt="ドキュメンテーション・センターにて、アルバニア語通訳のコラブくんと" width="320" height="240" /><br />
<span>ドキュメンテーション・センターにて<br />
アルバニア語通訳のコラブくんと</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>NGOでの仕事がひと段落し始めた頃、UNMIK（UN Mission in  Kosovo、国連コソボ暫定行政機構、ウンミックと読みます）がスタッフを募集していることを知りました。暫定行政機構というのは、つまりコソボの状況 が落ち着いてくるまでは国連が暫定的に政府機能を担いましょう、というものです。こちらでも縁があって、NGOでの仕事が終わると同時にUNMIKのス タッフになりました。「ドキュメンテーション・オフィサー」という職種でミトロビッツァという町の市役所に配属されました。どのような仕事かと申します と、市役所に本来あるような色々な書類、つまりドキュメントを何でもよいので捜し出してきてひと所に集め、ドキュメンテーション・センターという場所を 作って、市役所機能を回復させる土台づくりをする、と言えばよいでしょうか。つまりこの仕事が必要とされている背景には、紛争によって役所の機能はもちろ んのこと、住民情報などの基本的な市民情報もどこかに消えてしまっていましたので、誰がこの町に住んでいたのか、誰と誰が夫婦でその子どもは誰かというよ うなことが全然分からないという状況だったのです。市役所に行って「住民票ください」と言っても「あなたの住民票はありません」という状況ですね。これで は行政サービスの再開どころではありません。</p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi5-2.jpg" alt="ゴミのように積まれた重要書類" width="320" height="240" /><br />
<span>ゴミのように積まれた重要書類</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>市役所にはほとんど何の書類も残っていませんでしたので、さてどうしたものかと最初は立ち尽くしてしまいました。そのうち色々な書類が色んな場所に散乱し ているという状況が見えてきまして、例えばIDカードの控え票の一部が、なぜか消防署の一室にゴミのように積まれていたり、土地関係の書類が全然関係のな い建物のトイレに積まれていたり、そういう情報を入手しては出かけて行って書類を回収して、市役所の一室に集めてきては整理してという具合に。学校の生徒 名簿なども重要な情報ですので、学校を基地にしてしまっているフランス軍のところへ行って名簿を譲り渡してくれるよう交渉したり。なぜフランス軍がミトロ ビッツァ市にいるのかと言いますと、コソボに展開されている国際平和維持部隊、KFORと呼ばれていますが、実質NATOです、のミトロビッツァ地区担当 がフランス軍だからです。そうこうしている内に市役所のドキュメンテーション・センターにはかなりの情報が集まりまして、自分で言うのもなんですが、結構 使えるセンターになっていました。</p>
<p>そして次のフェーズは住民登録です。住民登録はどのPKOにおいても一大オペレーションで、例えばミトロビッツァ市だけでも約7万人の住民がいましたが、 その住民の全てを登録し直す訳です。仕事の膨大さは想像していただけるかと思います。何十人という国際スタッフと現地スタッフが配置されて、市のあちらこ ちらに登録所を設置してどんどん登録してゆくのですが、IDカードや免許証などを紛争中に失くしてしまったり、取り上げられてしまったりという人が半数ぐ らいいて、そういう人たちの申請書は私のいるドキュメンテーション・センターへ送られてきます。そこで、申請書に書かれている個人情報を、これまでかき集 めてきた膨大な書類の中から見つけ出して、照合して、その人物が特定できたら無事登録されます。20人ほどの現地スタッフとともに本人確認に明け暮れる毎 日でした。</p>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:58:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[ 第4幕
NATOによるユーゴ空爆
かなり話がさかのぼってしまいましたので、現代へ戻したいと思いますが、冷戦崩壊後、旧ユーゴを構成していた共和国、例えばスロベニア、クロアチア、マケ ドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが独立してゆきました。ご存じの通り、多くの血が流されました。コソボは共和国ではなくセルビアの一自治州というこ ともあって、他の共和国のようには事が進まず、独立運動は行き詰まっていました。独立運動の指導者であったイブラヒム・ルゴバ氏は非暴力を掲げ、コソボの ガンジーと呼ばれてアルバニア系住民から大きな支持を得ていました。武力によって独立を勝ち取ろうとするコソボ解放軍という武装組織も生まれましたが民心 を掴むには至らず、米国政府にもテロリスト集団として認定されていました。
状況が大きく動き始めたのは、コソボ解放軍をテロ組織として見なすことを米国が取りやめ、公然と支援し始めた頃からです。西側の思惑通りには動かない当時 のセルビア大統領ミロシェビッチをダシに、何か大きなことが準備され始めたという予感が走りました。当時の米大統領クリントンは色々な問題で国内的に非常 に厳しい状況に置かれていましたので、国内世論の矛先をかわしたり、議会対策をしたりする上でインパクトのあるイベントを必要としていました。それからも うひとつ重要な背景は、冷戦終結でお役御免となっていたNATOが、自らの新たな役割を求めて彷徨っていたタイミングであったこともあります。そのような 状況下で、ユーゴに対するNATOの空爆は着々と準備が進められ、後は「きっかけ」を待つのみとなっていました。
「きっかけ」、つまりはペテンですが、はネットなどで見ていただければと思いますが、1999年3月24日、NATOは国連安保理の決議を経ないまま、 ユーゴスラビア全土を対象に空爆を開始しました。空爆は78日間続き、民間人にも多くの犠牲者がでました。戦う相手が「上空」にしかいないユーゴスラビア 側の軍や民兵組織はコソボの「地上」で態度を硬化させ、状況を察したアルバニア系住民は隣国のアルバニアやマケドニアへこぞって脱出し、難民化しました。 その数は70万から80万人に達しました。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><span> 第4幕</span><br />
<span>NATOによるユーゴ空爆</span></p>
<p>かなり話がさかのぼってしまいましたので、現代へ戻したいと思いますが、冷戦崩壊後、旧ユーゴを構成していた共和国、例えばスロベニア、クロアチア、マケ ドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが独立してゆきました。ご存じの通り、多くの血が流されました。コソボは共和国ではなくセルビアの一自治州というこ ともあって、他の共和国のようには事が進まず、独立運動は行き詰まっていました。独立運動の指導者であったイブラヒム・ルゴバ氏は非暴力を掲げ、コソボの ガンジーと呼ばれてアルバニア系住民から大きな支持を得ていました。武力によって独立を勝ち取ろうとするコソボ解放軍という武装組織も生まれましたが民心 を掴むには至らず、米国政府にもテロリスト集団として認定されていました。</p>
<p>状況が大きく動き始めたのは、コソボ解放軍をテロ組織として見なすことを米国が取りやめ、公然と支援し始めた頃からです。西側の思惑通りには動かない当時 のセルビア大統領ミロシェビッチをダシに、何か大きなことが準備され始めたという予感が走りました。当時の米大統領クリントンは色々な問題で国内的に非常 に厳しい状況に置かれていましたので、国内世論の矛先をかわしたり、議会対策をしたりする上でインパクトのあるイベントを必要としていました。それからも うひとつ重要な背景は、冷戦終結でお役御免となっていたNATOが、自らの新たな役割を求めて彷徨っていたタイミングであったこともあります。そのような 状況下で、ユーゴに対するNATOの空爆は着々と準備が進められ、後は「きっかけ」を待つのみとなっていました。</p>
<p>「きっかけ」、つまりはペテンですが、はネットなどで見ていただければと思いますが、1999年3月24日、NATOは国連安保理の決議を経ないまま、 ユーゴスラビア全土を対象に空爆を開始しました。空爆は78日間続き、民間人にも多くの犠牲者がでました。戦う相手が「上空」にしかいないユーゴスラビア 側の軍や民兵組織はコソボの「地上」で態度を硬化させ、状況を察したアルバニア系住民は隣国のアルバニアやマケドニアへこぞって脱出し、難民化しました。 その数は70万から80万人に達しました。</p>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:57:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[  第3幕
コソボ紛争
まずコソボの概要についてざっくりとお話いたしますと、コソボはセルビア共和国の南の方に位置する人口約200万人、岐阜県ぐらいの大きさの自治州です。住民の約9割がアルバニア系ということもあって、昔から独立志向の強い土地でした。9割の住民が独立を望んでいるのだから独立させてあげればいいではないか、というのが我々第三者の心情的な感想かも知れませんが、ところが現地の事情はもう少し複雑なんですね。
まず、コソボの隣にはアルバニアという国がありまして、そこにも約300万人のアルバニア人が住んでいます。つまり、コソボがアルバニア人を中心とする国として独立すると、同じ地域にふたつのアルバニア人国家ができてしまうという、あまり世界でも例のない状況になってしまいます。これがまず1点。
それからこのコソボという地域は中世セルビア王国の中心地でしたので、セルビアの文化遺産が数多く残っています。私もいくつか訪れましたが、中世に建てられた東方正教の教会などは世界遺産にもなっていて歴史を感じさせます。つまりセルビア人にとってのコソボとは、日本人にとっての奈良や京都に相当する精神的な意味合いを持っているのだということが分かります。
さらに、そのコソボの平原で14世紀に、南からバルカン半島に侵入してきたオスマントルコ軍と中世セルビア王国を中心とするキリスト教連合軍が戦って、これをコソボの戦いと言いますが、これに勝利したオスマントルコが以降500年間に渡ってバルカン半島のほとんどの地域を支配して、セルビア王国は消滅してしまうという、セルビア民族にとっては屈辱の地でもあるのですね。そのような経緯で、コソボはある種の特別な感情をセルビア民族の心に呼び起こす場所となっています。これが2点目です。
そのようなコソボを穏便に支配するために、オスマントルコはコソボの非セルビア化に取り組みます。具体的には、キリスト教からイスラム教への改宗を受け入れたアルバニア人のコソボへの入植を進めたのです。その結果セルビア人は徐々に北上し、コソボはアルバニア人が多数を占めるようになり、現在に至っています。一方、コソボで生まれたアルバニア人ももう何世代もコソボに住んでいる訳ですから、自分たちの土地であるという意識はもちろん強いです、というのが極めてざっくりとした歴史的な経緯です。ただし、これは結構教科書的なストーリーで、史実がはっきりしている中世以降での話です。
では中世セルビア王国以前は誰がコソボの辺りに住んでいたのか。それはアルバニア人の祖先とされているイリリア人という人たちであるという説があります。そこにスラブ人であるセルビア人が６、７世紀ごろに北の方から降りてきて我々を追い出したのだ、だからコソボはもともとアルバニア人の土地だ、という言い分も成立します。ただイリリア人に関しては歴史上の記録がほとんど残っていなくて、はっきりしたことが分からないようなのです。イリリア人以前はケルト人がその辺りに住んでいたとする説もあるようですので、アイルランド人なども手を挙げる権利があるのかも知れません。このように、その土地が誰に属しているのかという問いは、歴史的というよりは政治的なものであると言えるのかも知れません。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/people2001/tatsumi3.gif" alt="コソボ周辺地図" width="256" height="256" align="right" /> <span> 第3幕</span><br />
<span>コソボ紛争</span></p>
<p>まずコソボの概要についてざっくりとお話いたしますと、コソボはセルビア共和国の南の方に位置する人口約200万人、岐阜県ぐらいの大きさの自治州です。住民の約9割がアルバニア系ということもあって、昔から独立志向の強い土地でした。9割の住民が独立を望んでいるのだから独立させてあげればいいではないか、というのが我々第三者の心情的な感想かも知れませんが、ところが現地の事情はもう少し複雑なんですね。<br />
まず、コソボの隣にはアルバニアという国がありまして、そこにも約300万人のアルバニア人が住んでいます。つまり、コソボがアルバニア人を中心とする国として独立すると、同じ地域にふたつのアルバニア人国家ができてしまうという、あまり世界でも例のない状況になってしまいます。これがまず1点。<br />
それからこのコソボという地域は中世セルビア王国の中心地でしたので、セルビアの文化遺産が数多く残っています。私もいくつか訪れましたが、中世に建てられた東方正教の教会などは世界遺産にもなっていて歴史を感じさせます。つまりセルビア人にとってのコソボとは、日本人にとっての奈良や京都に相当する精神的な意味合いを持っているのだということが分かります。<br />
さらに、そのコソボの平原で14世紀に、南からバルカン半島に侵入してきたオスマントルコ軍と中世セルビア王国を中心とするキリスト教連合軍が戦って、これをコソボの戦いと言いますが、これに勝利したオスマントルコが以降500年間に渡ってバルカン半島のほとんどの地域を支配して、セルビア王国は消滅してしまうという、セルビア民族にとっては屈辱の地でもあるのですね。そのような経緯で、コソボはある種の特別な感情をセルビア民族の心に呼び起こす場所となっています。これが2点目です。</p>
<p>そのようなコソボを穏便に支配するために、オスマントルコはコソボの非セルビア化に取り組みます。具体的には、キリスト教からイスラム教への改宗を受け入れたアルバニア人のコソボへの入植を進めたのです。その結果セルビア人は徐々に北上し、コソボはアルバニア人が多数を占めるようになり、現在に至っています。一方、コソボで生まれたアルバニア人ももう何世代もコソボに住んでいる訳ですから、自分たちの土地であるという意識はもちろん強いです、というのが極めてざっくりとした歴史的な経緯です。ただし、これは結構教科書的なストーリーで、史実がはっきりしている中世以降での話です。<br />
では中世セルビア王国以前は誰がコソボの辺りに住んでいたのか。それはアルバニア人の祖先とされているイリリア人という人たちであるという説があります。そこにスラブ人であるセルビア人が６、７世紀ごろに北の方から降りてきて我々を追い出したのだ、だからコソボはもともとアルバニア人の土地だ、という言い分も成立します。ただイリリア人に関しては歴史上の記録がほとんど残っていなくて、はっきりしたことが分からないようなのです。イリリア人以前はケルト人がその辺りに住んでいたとする説もあるようですので、アイルランド人なども手を挙げる権利があるのかも知れません。このように、その土地が誰に属しているのかという問いは、歴史的というよりは政治的なものであると言えるのかも知れません。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:56:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[
 第2幕
北野時代
北野に在学中は野球部にいました。3年時は主将も務めましたが、学生生活は完全に野球中心に回っていましたね。勉強の方はさっぱりでした。
入学と同時に入部して、入部するとまず玉拾いの期間がありまして、たしか3ヶ月ぐらいでしたか。その間は走って走って、とにかく走って、そして筋トレして 基礎体力をつけながら、玉拾いと雑用で部の秩序を学ぶ訳です。それから1年生は昼休みにグランド整備をしますので、早弁しなければならないんですね。毎日 3時間目が終わったらバーと弁当かき込んで、昼休みになると走ってグランドへ行きます。「走って行く」のが流儀で、歩いて行ってはいけなかったんですね。 今思うとかなり軍隊チックでしたが、懐かしくもあります。今はどんな感じになっているのでしょうね。
私はキャッチャーとして3年間プレーしました。一年先輩にキャッチャーがいなかったということもあって、幸運なことに、1年生の秋からレギュラーをやらせ てもらいました。それまでキャッチャーというポジションはやったことがなかったので一から勉強でしたが、監督や先輩にしかられながら、あーでもないこーで もないと試行錯誤しつつ練習しては試合に臨んでいました。私の代の通算成績は負け越しているのではないかと思いますが、どうでしょうね。間違ってたら同期 の仲間に怒られますね（笑）。
私の代は女っけがないと言うか、あるけどうまく結果に結びつかないというか、彼女のいる奴がひとりもいませんでしたね、3年間（笑）。でもこの3年間は忘れがたいですね。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/people2001/tatsumi2.jpg" alt="野球部時代" width="480" height="240" /><br />
<span> 第2幕</span><br />
<span>北野時代</span></p>
<p>北野に在学中は野球部にいました。3年時は主将も務めましたが、学生生活は完全に野球中心に回っていましたね。勉強の方はさっぱりでした。</p>
<p>入学と同時に入部して、入部するとまず玉拾いの期間がありまして、たしか3ヶ月ぐらいでしたか。その間は走って走って、とにかく走って、そして筋トレして 基礎体力をつけながら、玉拾いと雑用で部の秩序を学ぶ訳です。それから1年生は昼休みにグランド整備をしますので、早弁しなければならないんですね。毎日 3時間目が終わったらバーと弁当かき込んで、昼休みになると走ってグランドへ行きます。「走って行く」のが流儀で、歩いて行ってはいけなかったんですね。 今思うとかなり軍隊チックでしたが、懐かしくもあります。今はどんな感じになっているのでしょうね。</p>
<p>私はキャッチャーとして3年間プレーしました。一年先輩にキャッチャーがいなかったということもあって、幸運なことに、1年生の秋からレギュラーをやらせ てもらいました。それまでキャッチャーというポジションはやったことがなかったので一から勉強でしたが、監督や先輩にしかられながら、あーでもないこーで もないと試行錯誤しつつ練習しては試合に臨んでいました。私の代の通算成績は負け越しているのではないかと思いますが、どうでしょうね。間違ってたら同期 の仲間に怒られますね（笑）。</p>
<p>私の代は女っけがないと言うか、あるけどうまく結果に結びつかないというか、彼女のいる奴がひとりもいませんでしたね、3年間（笑）。でもこの3年間は忘れがたいですね。</p>
]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>われら六稜人【第44回】平和構築の現場で</title>
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		<pubDate>Sun, 25 Jul 2010 12:55:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[   第1幕
国連平和維持活動
さて、今日は「国連平和維持活動」についてお話させていただきたいと思います。国連PKO（UN Peacekeeping  Operation）とも言いますが、私は2度、この国連PKOに関わる機会がありました。1度目はバルカン半島のコソボ、2度目は西アフリカのリベリアでした。国連PKOとひとくちに言いましても、その任務や構成は場合によって様々ですので、今日はコソボとリベリアに限ってお話をさせていただきます。




ブルーベレーの平和維持部隊兵士



PKOと言うとやはり軍隊的なイメージを持たれますか？そうですね、「辰巳はついに傭兵になったか…」などと言う友人もいるくらいですから、やはりそっちのイメージが強いようですね。軍事的な活動、つまり治安維持のことですが、は平和維持軍や多国籍軍の仕事です。ブルーヘルメットに白塗りの装甲車という、あれですね。私の仕事はそっち方面ではなくて、いわゆる文民部門の方です。文民部門というのは例えば保健医療、教育、電気や水などの生活インフラ、法整備、民主化、行政制度整備、環境対策などの分野への支援をする部門のことです。紛争後はそういったものはほとんど壊れてしまっているか、全くと言ってよいほど機能していませんので、これを現地の人たちとともに復旧してゆく訳です。復旧する前の形がない場合は、いわゆる「国際スタンダード」に近づけるよう枠組みを整備したり、現地のスタッフとともに現地に適したやり方を模索しながら手探りで作り出していったり。




白塗りの平和維持軍の戦車



ざっくり言ってしまうと、「紛争が終わって、平和の機運が生まれ始めたそのタイミングで、この平和が今後もなくならずにずっと続いていくような環境を整えてゆくこと…をお手伝いすること」がPKOの仕事であると私なりに理解しています。国連PKOというのは、国連が勝手に出かけて行ってやるのではなくて、通常その当事国からの要請があって初めて設置されます。ほとんどの場合、紛争当事者間でこれ以上はやめよう、武器を下ろそうという和平合意が成立するときに、その合意文書の中に国連によるPKOを要請する一文が入ってきます。その要請を元に国連安全保障理事会がPKOの設置を決め、派遣する訳です。
ちょっと話が抽象的になってしまいましたが、後ほどコソボとリベリアでの現場の体験を交えて、より具体的なお話をしたいと思います。
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/people2001/tatsumi1.jpg" alt="辰巳知行さんの現在の写真" hspace="0" width="128" height="128" align="RIGHT" /> <img src="../../../../home/people2001/tatsumi0.jpg" alt="辰巳知行さんの高校時代の写真" hspace="0" width="128" height="128" align="RIGHT" /> <span> 第1幕</span><br />
<span>国連平和維持活動</span></p>
<p>さて、今日は「国連平和維持活動」についてお話させていただきたいと思います。国連PKO（UN Peacekeeping  Operation）とも言いますが、私は2度、この国連PKOに関わる機会がありました。1度目はバルカン半島のコソボ、2度目は西アフリカのリベリアでした。国連PKOとひとくちに言いましても、その任務や構成は場合によって様々ですので、今日はコソボとリベリアに限ってお話をさせていただきます。</p>
<table border="0" width="350" align="left">
<tbody>
<tr>
<td><img src="../../../../home/people2001/tatsumi1-2.jpg" alt="ブルーベレーの平和維持部隊兵士" width="320" height="240" /><br />
<span>ブルーベレーの平和維持部隊兵士</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>PKOと言うとやはり軍隊的なイメージを持たれますか？そうですね、「辰巳はついに傭兵になったか…」などと言う友人もいるくらいですから、やはりそっちのイメージが強いようですね。軍事的な活動、つまり治安維持のことですが、は平和維持軍や多国籍軍の仕事です。ブルーヘルメットに白塗りの装甲車という、あれですね。私の仕事はそっち方面ではなくて、いわゆる文民部門の方です。文民部門というのは例えば保健医療、教育、電気や水などの生活インフラ、法整備、民主化、行政制度整備、環境対策などの分野への支援をする部門のことです。紛争後はそういったものはほとんど壊れてしまっているか、全くと言ってよいほど機能していませんので、これを現地の人たちとともに復旧してゆく訳です。復旧する前の形がない場合は、いわゆる「国際スタンダード」に近づけるよう枠組みを整備したり、現地のスタッフとともに現地に適したやり方を模索しながら手探りで作り出していったり。</p>
<table border="0" width="350" align="right">
<tbody>
<tr>
<td align="right"><img src="../../../../home/people2001/tatsumi1-3.jpg" alt="白塗りの平和維持軍の戦車" width="320" height="240" /><br />
<span>白塗りの平和維持軍の戦車</span></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p>ざっくり言ってしまうと、「紛争が終わって、平和の機運が生まれ始めたそのタイミングで、この平和が今後もなくならずにずっと続いていくような環境を整えてゆくこと…をお手伝いすること」がPKOの仕事であると私なりに理解しています。国連PKOというのは、国連が勝手に出かけて行ってやるのではなくて、通常その当事国からの要請があって初めて設置されます。ほとんどの場合、紛争当事者間でこれ以上はやめよう、武器を下ろそうという和平合意が成立するときに、その合意文書の中に国連によるPKOを要請する一文が入ってきます。その要請を元に国連安全保障理事会がPKOの設置を決め、派遣する訳です。</p>
<p>ちょっと話が抽象的になってしまいましたが、後ほどコソボとリベリアでの現場の体験を交えて、より具体的なお話をしたいと思います。</p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>われら六稜人【第44回】</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=802</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=802#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 15 Mar 2010 14:50:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[
平和構築の現場で
辰巳知行【たつみ・ともゆき】六稜99期。国連平和維持活動（PKO）の文民スタッフとして紛争直後のコソボとリベリアにおいて復興活動と国家建設支援に 関わる。紛争によって大きなダメージを受けた国における「国連暫定統治」とはいかなるものか。また、復興への第一歩として実施される「選挙」はいかにして 準備されるのか。
今月のわれら六稜人は、国連PKOの最前線で平和構築に携わる、PKO文民スタッフの活動に迫ります。
●INDEX



第1幕：
国連平和維持活動


第2幕：
北野時代


第3幕：
コソボ紛争


第4幕：
NATOによるユーゴ空爆


第5幕：
国連コソボ暫定行政ミッション


第6幕：
民族分断の町


第7幕：
リベリア紛争と選挙支援


第8幕：
正統性のある政府を



協　力●辰巳孝太郎(107期)

Update : Jul.23,2001
]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><img src="../../../../home/people2001/tatsumi.jpg" alt="" width="600" height="400" /><br />
<span style="font-size: small;">平和構築の現場で</span></p>
<p>辰巳知行【たつみ・ともゆき】六稜99期。国連平和維持活動（PKO）の文民スタッフとして紛争直後のコソボとリベリアにおいて復興活動と国家建設支援に 関わる。紛争によって大きなダメージを受けた国における「国連暫定統治」とはいかなるものか。また、復興への第一歩として実施される「選挙」はいかにして 準備されるのか。</p>
<p>今月のわれら六稜人は、国連PKOの最前線で平和構築に携わる、PKO文民スタッフの活動に迫ります。</p>
<p><span><strong>●INDEX</strong></span></p>
<table border="0">
<tbody>
<tr>
<td>第1幕：</td>
<td><a href="./?p=902">国連平和維持活動</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第2幕：</td>
<td><a href="./?p=906">北野時代</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第3幕：</td>
<td><a href="./?p=908">コソボ紛争</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第4幕：</td>
<td><a href="./?p=910">NATOによるユーゴ空爆</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第5幕：</td>
<td><a href="./?p=912">国連コソボ暫定行政ミッション</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第6幕：</td>
<td><a href="./?p=914">民族分断の町</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第7幕：</td>
<td><a href="./?p=916">リベリア紛争と選挙支援</a></td>
</tr>
<tr>
<td>第8幕：</td>
<td><a href="./?p=919">正統性のある政府を</a></td>
</tr>
</tbody>
</table>
<p><span>協　力●辰巳孝太郎(107期)<br />
</span></p>
<p><span>Update : Jul.23,2001</span></p>
]]></content:encoded>
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		</item>
		<item>
		<title>われら六稜人【第48回】「日中の架け橋となって」</title>
		<link>http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=895</link>
		<comments>http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=895#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 21 Feb 2010 11:10:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.rikuryo.or.jp/activity/warera/wp/?p=895</guid>
		<description><![CDATA[






第5章
北野はわが人生の源
 1989年の天安門事件の時、私は自分の国民に向かって鉄砲を撃つのはおかしいという意見を出しました。そのこともあって年ですから定年にさしてください と申し出たんですが、後任もいないからということで延ばされて1992年に退職しました。日本へ最後に行ったのは、退職の翌93年です。そろそろもう一度 訪問を、という気がおこりかけています。振り返ってみると、私たちの仕事の基本は、日本国民は戦争を起こした国とは別だということ、戦争を起こしたファシズムが悪いのであって、日本国民は中国人 と同じように被害者だといえる、被害者同士で、これから平和のために戦争に反対し、軍国主義に反対していこうということです。
中国革命への私の思いをさかのぼると、最初は孫文ですね。清朝を倒した辛亥革命(1911)を指導した孫文はえらいと。小学校4、5年生のころ、当時の国 民党の旗や、「革命いまだならず、同志たち努力すべし」という軸を家の中に掲げて、漫画で見た「水滸伝」など中国の農民一揆の秘密結社のまねごとをしたり した。日本が戦争して占領している時代だから、ものすごく大人に怒られましたけどね。
少年なりにそう考えたのは、中国の小学校の先生がよかったからでしょう。フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という話を読んで聞かせてく れたり、「中国は歴史が古くて、文化がある国だから、外国にいじめられるのはそう長くない。そのうちに民族は立ち上がるにきまっている」、よくそう言って いました。
もう一つ、私のふるさと江蘇省では、国民党軍ではなく、八路軍とともに有名な中国共産党の「新四軍」がいた。本当に祖国のためにたたかっているのは共産党 の軍隊だなと、うすうすわかってきたんです。
さらにもう一つは、北野入学の1949年が中国革命の年だったこと。解放軍が北京からどんどん南へ進む。そんなころ、ガリ版のビラを印刷して寮の中国学生 にまいたこともあります。そして10月1日、新中国の成立を迎えたんですから。
最後にもう一度言いますが、私の日中友好の仕事・活動の大きな基礎は北野時代にある。食えないときに、友達が米を持ってきて、一緒に炊いてメシを食わせて くれた。金がないからキャンプに行けないと思っていたら、みんなが金を出し合ってくれた。同級生の家へ呼んでもらって、お母さんにごちそうをふるまっても らったこともよくありました。足立俊一郎君、武久慎君、森南海子さんのところでも。そういう親切が身にしみています。その土壌はなんだったか。国籍、思想 などによって人を差別しないという高い精神。それが北野、そして学友にありました。その後の私の人生が日中友好のために役立つなら本望だと。これは確たる 気持ちです。
Update : Dec.23,2001
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<td align="left"><img src="../../../../home/people2001/dan5.jpg" alt="段さんの写真" width="192" height="256" /></td>
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<p><span>第5章</span><br />
<span>北野はわが人生の源</span></p>
<ul> 1989年の天安門事件の時、私は自分の国民に向かって鉄砲を撃つのはおかしいという意見を出しました。そのこともあって年ですから定年にさしてください と申し出たんですが、後任もいないからということで延ばされて1992年に退職しました。日本へ最後に行ったのは、退職の翌93年です。そろそろもう一度 訪問を、という気がおこりかけています。振り返ってみると、私たちの仕事の基本は、日本国民は戦争を起こした国とは別だということ、戦争を起こしたファシズムが悪いのであって、日本国民は中国人 と同じように被害者だといえる、被害者同士で、これから平和のために戦争に反対し、軍国主義に反対していこうということです。<br />
中国革命への私の思いをさかのぼると、最初は孫文ですね。清朝を倒した辛亥革命(1911)を指導した孫文はえらいと。小学校4、5年生のころ、当時の国 民党の旗や、「革命いまだならず、同志たち努力すべし」という軸を家の中に掲げて、漫画で見た「水滸伝」など中国の農民一揆の秘密結社のまねごとをしたり した。日本が戦争して占領している時代だから、ものすごく大人に怒られましたけどね。</p>
<p>少年なりにそう考えたのは、中国の小学校の先生がよかったからでしょう。フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という話を読んで聞かせてく れたり、「中国は歴史が古くて、文化がある国だから、外国にいじめられるのはそう長くない。そのうちに民族は立ち上がるにきまっている」、よくそう言って いました。</p>
<p>もう一つ、私のふるさと江蘇省では、国民党軍ではなく、八路軍とともに有名な中国共産党の「新四軍」がいた。本当に祖国のためにたたかっているのは共産党 の軍隊だなと、うすうすわかってきたんです。<br />
さらにもう一つは、北野入学の1949年が中国革命の年だったこと。解放軍が北京からどんどん南へ進む。そんなころ、ガリ版のビラを印刷して寮の中国学生 にまいたこともあります。そして10月1日、新中国の成立を迎えたんですから。</p>
<p>最後にもう一度言いますが、私の日中友好の仕事・活動の大きな基礎は北野時代にある。食えないときに、友達が米を持ってきて、一緒に炊いてメシを食わせて くれた。金がないからキャンプに行けないと思っていたら、みんなが金を出し合ってくれた。同級生の家へ呼んでもらって、お母さんにごちそうをふるまっても らったこともよくありました。足立俊一郎君、武久慎君、森南海子さんのところでも。そういう親切が身にしみています。その土壌はなんだったか。国籍、思想 などによって人を差別しないという高い精神。それが北野、そして学友にありました。その後の私の人生が日中友好のために役立つなら本望だと。これは確たる 気持ちです。</ul>
<p><span>Update : Dec.23,2001</span></p>
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