【223回】7月「三浦按針の謎と影響」

Ⅰ.日時 2021年7月17日(土)14時00分~15時30分
Ⅱ.場所 Zoomによるインターネット開催
Ⅲ.出席者数 61名
Ⅳ.講師 藤田浩一さん@77期(物流コンサルタント)
—-所属—-
按針インターネット(共同代表)
物流研究評議会
伊東按針会
伊東海外交流協会
日本海洋塾—-学歴—-
大阪府立北野高校77期
東京商船大学(現東京海洋大学)—-職歴—-
1971~1974 大阪商船三井船舶
1974~2005 ユーロブリッジリミテッド(スカンダッチ、ドッドウェル、インチケープ)
2005~2017 オムロン (物流アドバイザー)—-活動—-
2018. 5 物流研究評議会に参画
2018. 6 東京海洋大学「三浦按針パネル展・講演会」
2018. 8 静岡県伊東市「三浦按針パネル展・講演会」
2019. 6 東京海洋大学「帆船の思い出」(パネル展示とパネルディスカッション)
2019.12 按針インターネット立ち上げ / 神戸市への提言「港湾事業の活性化」
2020 ~ 按針インターネット講演会開始 / 東京海洋大学明治丸記念館展示に関し提案
2021.4 「按針航海」静岡県沼津市~長崎県平戸市
2021. 5 講演「三浦按針-航海・造船の謎」湘南サロン—-目的—-
ウィリアム・アダムス=三浦按針の研究と発表および按針の航跡顕彰と広報
若い世代へ。海の仕事の啓蒙、海事思想の普及
Ⅴ.演題 三浦按針の謎と影響
Ⅵ.事前宣伝 商船大卒業後、航海士として外国航路に乗船。その後、船舶代理店に転職して、物流業務に携わった。そして、59歳からメーカーの物流コンサルタントとして71歳まで勤務する。退職前から訪れていた静岡県伊東市では、毎年8月に「伊東按針祭」が開催されている。その「海の花火」は伊東市最大の観光イベントだが、按針の名は知られておらず、伊東市民でさえ、大花火大会としか思っていないのが現実である。按針は、日本初の西洋式帆船を建造した。その建造地が伊東市であるが、どこで、どのように造られたかは明確ではない。海事関係者から見て多くの疑問がある。按針に関する著書は多くあるが、海事関係者の視点からの研究がなされてないことに気づき、きちんと検証してみようとの思いに至った。建造の謎解きにのめり込むとともに、按針が生きた激動の大航海時代は、知れば知るほど面白い。彼は、チャレンジ精神にあふれ、勇敢で、知識と能力に長け、統率力や人望もあり、稀有な生涯が小説や映画になるのも納得できる。三浦按針は、航海士としての優秀さだけでなく、徳川家康に軍事顧問として重用される人間性も魅力的である。按針が漂着したのは、関ケ原の戦い直前で、東軍勝利に影響したであろうことは、あまり知られていないが、興味深い。按針を知るにつけ、もっと評価されるべきと感じ、母校の学園祭での出展や、伊東市での「パネル展・講演会」の開催など様々な広報活動も始めた。

そんな折りに、按針研究者と知己を得て、按針研究の研究発表、意見交換、広報活動を行うグループ「按針インターネット」を立ち上げた。年に4回のペースで講演会を開催していたが、コロナ禍のため、今はリモート講演会となっている。

按針を、より深く知るために、生誕地・ロンドン郊外のジリンガム、船大工修行をしたライムハウス、リーフデ号が出航したロッテルダムを訪れ、足跡に触れた。意外なことに按針は、母国イギリスや、船籍があったオランダでも注目度は低く、ほとんど評価されていないのは残念である。

昨年は、按針没後400年記念事業が、ことごとく中止になった。自粛で疲弊する世の中が明るくなるようにとの願いをこめて、3月~4月に帆船AMIによる「按針航海」を企画し、「按針ネットワーク」から、按針の墓地のある平戸市の按針をあいする市民グループへの親書を託した。

按針を深く知るにつれ、海事関係だけでなく、現代社会や、若者の生き方にも有効なヒントがあるように思える。按針を通じて、海や船に関する仕事に関心を持ち、生き方や、物事への取り組み方を振り返るきっかけにしていただければ、幸いである。

Ⅶ.講演概要 この講演概要は、藤田浩一さんが講演会で話された中で注目すべき点に絞って記録した。詳細については、VIII.資料 の講演に使ったPPTのPDFを参照されたい。

  1. 藤田さんが三浦按針に関心を持つ理由は、「按針を通して海事思想の普及に努め、激変する日本海運界の今後の発展の参考にする」と言う元航海士としての思いがある。その日本海運界の現状は、領海+FTZの面積で世界6位の立場にありながら、海運自給率が5%という低さで、食料自給率の38%に遙かに及ばない。日本船籍の船も全体の10.5%という低さにある。
  2. 船の形式は、技術の進歩によって変遷しており、ますます専用船化しており、昔のGeneral Cargosを運ぶ混載船は現在日本では一隻もない。そして、タンカー、コンテナ船、自動車専用船(PCC)というように、専用船に置替わっている。近い将来、自動運行船に移行していくであろう。航海術も然りで、羅針盤を使った天測航法からGPSを使った衛星測位システムに変わっている。
  3. 物流の王者アマゾンの出現で、陸海空輸送体制の一元化が物流業界の壁を越えて図られており、長く使われてきた船荷証券が、ブロックチェーン(共通帳簿)システムに置き換わりつつある。これらを推進するアマゾンがヘビー級のボクサーに例えるなら、マースク等の海上輸送業界、IBM、MSなどはフライ級ボクサーでしかなく、束になって掛かっても到底敵わない存在となっており、今後はアマゾンの思惑通りに進むであろう。
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  4. さて、三浦按針であるが、伊東市で「按針祭」が開催されるものの、伊東市民でさえ花火大会のようしか受け取られておらず、正確に按針のことは理解されていない。このため、按針の足跡を正確に伝えるため、関係の深い横須賀、臼杵、平戸の4市が連携を図る、パネル展や講演会を開催する、そして海王祭を立ち上げて按針の紹介を行ってきた。2021年春には帆船AMIで「按針航海」と称して、沼津-平戸を航行した。
  5. 按針に関する6つのテーマ
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  6. 16世紀後半の世界を見ると、スペイン、ポルトガルと言った旧覇権国から新興国のイギリス、オランダの台頭がある。また、ローマカソリックとプロテスタントの争いという一面もあった。これはスペインの無敵艦隊をイギリス海軍がアルマダの海戦で撃破して、以後イギリス、オランダが大航海時代において優位に立つ。按針はイギリスのドレイク将軍麾下のロジスチック船の船長として参戦、広い世界観を持っていた。
  7. この頃、スペインによって西回りアジアルートも開発されており、スペイン-メキシコ東海岸ヘラクルス-メキシコ陸路-西岸アカプルコから太平洋へ、赤道沿いに西へ-フィリピン、マニラ-黒潮に乗って太平洋を北上-アメリカ大陸沿いにカリフォルニア海流で南下-メキシコ、アカプルコに戻ってくるというル―トである。これは日本で銀が多く産出され、それの輸送に使われたことから、シルバーロードとも呼ばれた。そしてこの航路を通して、種子島の火縄銃、多くの宣教師がやってきた。
  8. 按針はリーフデ号の船長として、他の4隻と共に全部で5隻、乗組員491人の大船団を組んで、1598年6月24日にオランダのロッテルダムを出港した。アフリカ西岸沿いに南下して、マゼラン海峡を越えそしてハワイ経由で太平洋を渡って、1600年4月29日に豊後臼杵の黒島に漂着した。アジアに辿り着いたのはリーフデ号一隻のみで、その乗組員110名の内うち生存者18名、歩行できるのは5,6名という過酷な航海であった。
  9. リーフデ号の漂着は、1600年と関ケ原の合戦の6ヶ月前という日本の激動期であった。按針の漂着は、豊臣秀吉に報告されたが秀吉は関心を示さず、徳川家康が筆頭家老として大阪城で尋問した。歳は家康が21歳上で、按針とはちょうど父と息子の立場にあり、布教という下心がある宣教師とは違い公正で明確な世界観を持ち、礼儀正しく、家康は按針の人柄にも惚れ、当時の世界情勢を知る上で貴重な人物として彼を重用した。
  10. リーフデ号は商船ながらも、当時のスペインの軍艦や海賊に対抗するため、19門の新式ガリバル砲を備えていた。これは異論もあるが、関ヶ原の戦いで家康が小早川秀秋に放った「問い鉄砲」そして「冬の陣」で大阪城の天守閣に向けて大砲を放ち、淀君を震撼させて外堀を埋めさせたと言われるが、これはリーフデ号の大砲ではないかという説がある。とすれば、按針は、日本の歴史の変節点で大きな役割を果たしたこととなる。しかし、1616年の家康の死でその加護をなくし、秀忠に徴用されることはなく、不遇な晩年のまま平戸で没した。
  11. さて、按針の指導の下80トンと120トンの2隻の西洋式帆船が建造されたと言われる伊東の砂ドックであるが、これは三浦浄心が書いた「慶長見聞録」の記述に由来する。按針が若いころ船大工の修業したイギリス、テムズ川のLimehouseドックと類似性はあるものの、干満を考慮した吃水の深さ、砂の土質的安定や透水性を考えると果たして伊東の砂ドックは実在したか疑問がある。しかし、伊東周辺の伊豆地方は、有能な船大工が多数いたこと、船の材料の木材が豊富にあったこと、江戸城建設の時に使った小松石を積み出す施設があったこと等から按針の日本で最初の西洋船建造を支える土壌があったことは明確である。
  12. どの様な船が建造されたかは、ゴールデン・ハイド号という当時建造された船が、復元されてロンドン・ブリッジのそばに展示されている。また、その8分の1の模型が伊東市役所のホールに展示されている。当時、イギリスのキール型、そしてオランダのフレーム型の2種類の造船技術があったが、按針はイギリス人、彼の片腕として働いた船大工のヨーステンはオランダ人ということで、どちらの型式が採用されたか、今では資料が残っていないので判定できない。
  13. しかしながら、歴史は進んで上で述べた小松石を使った東京湾お台場の砲台などは、幕末のペリー艦隊の出現に対して東京湾への侵入を阻止し、横浜のドライドックの建設にも寄与した。このように、伊豆で培われた造船や巨石の切り出し、運搬で培われた土木技術は、明治維新以後の西洋に追いつけ追い越せの時代、日本の造船技術の発展において大きな下支えとなり、世界に誇る軍艦、そして大型タンカー等を建造してきたこととなる。
  14. この様に三浦按針が日本に残した足跡は大きく、港の水先案内船はPilot と呼ばれているが、これには「按針」という名前が多く使われるほどであり、按針は今でも日本で生きている。講演の終わりに、藤田氏は、日本の若者に向けて次のメッセージを送られた。
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Q&A

Q: 家正則さん、80期―北前船と西洋帆船の関係に関心があったのですが、お話を伺うと、按針が伝えた西洋造船技術は、日本では伝承されなかったのですね。それはなぜでしょう。

A: 西洋帆船は吃水が深く浅い日本の海には不向きでした。一方、日本の側でも当時九州に来航した中国のジャック船の技術を取り入れて、和船で大型帆船を建造していました。ジャンク船は竜骨を用いており、これを取り入れて大型化した和船の建造が可能となりました。このように、按針自身も日本の造船技術の高さを認めており、最初の2隻の帆船建造以降、按針は船の建造には携わらなくなり、平戸でのオランダやイギリスの商館開設といった事業の方に精力を傾けましたようです。

Q: 金沢幸彦さん、89期-伊東でホテル業に携わるものですが、三浦按針を知るにはどこを訪ねたら良いでしょうか。

A: 先ず、東海館(藤田さん、これでよろしいですか。よく聞き取れなかった)があります。その中に三浦按針の部屋があり、藤田さんの資料も展示されているし、QRコードから資料の入手が可能です。次に市役所のホール。当時の船の模型が展示してあります。、幸いである。

Ⅷ.資料 21年7月講演資料-元船乗りから見た按針.pdf(10MB)