第10回 「有田焼(古伊万里)とヨーロッパ文明の出会い」 生田章一さん@83期

reporter:峯 和男(65期)

    日時: 2003年10月15日(水)11時30分~14時
    場所: 銀座ライオン7丁目店6階
    出席者: 44名(内65会メンバー:江原、大隅、山根、峯)
    講師: 財団法人 日本情報処理開発協会 常務理事 生田 章一氏(83期)
    演題: 「有田焼(古伊万里)とヨーロッパ文明の出会い」
    講師紹介: 大学卒業後通産省に入省、佐賀県赴任時に有田焼に出会う。在任中に「ほのおの博覧会」と題する陶磁器博覧会を行なっ た。その後、日本貿易振興会(JETRO)に転じ、ジャカルタセンター所長時代にバンテンへ出張、たまたま入った陶磁博物館で有田焼を見つけ、有田焼から 見た世界と日本、インドネシアの歴史などを研究するようになった。
    講演内容:
    (要点のみ)
    (1)伊万里焼は17世紀初め頃から佐賀県有田(有田町、西有田町)で作られていた磁器。日本で作られた始めての磁器で、東南アジアやヨーロッパに輸出された。(2)有田焼は全世界に最も大きな影響を与えた。ヨーロッパ中の王侯貴族が欲しがり、銀より高価であった。

    (3)ドイツのザクセン王は、どうしてもこれを作らせたいと思い、職人を幽閉し20年かけて漸く成功した。これが有名なマイセン。

    (4)16世紀後半から17世紀半ばにかけてオランダは世界のリーダーであった。オランダは商業資本主義の基礎となるシステムを世界で初めて整備した。即 ち、世界初の株式会社である東インド会社を1602年に設立したのをはじめ、保険登記所、商品取引所、アムステルダム銀行(中央銀行のモデル)穀物取引所 等を17世紀初頭に相次いで整備した。

    (5)16世紀末、ポルトガルは中国と取引していたがオランダはこれに対抗台湾に基地を作り、香料や最も良く売れる伊万里の買い付けを行なった。 しかし、オランダはその36年後に 鄭成功(日本名:福松、父は海賊、母は日本人)により 台湾から追い出された。

    (6)中国は明王朝が1644年に滅び清王朝となった。明王朝の滅亡により陶磁器が全然輸出されなくなった。鄭成功の父親は明王朝の再興を図り清と戦ったが敗れた。

    (7)有田焼の技術はどのようにして日本に入ったか? 1592~98年、秀吉が朝鮮に出兵、朝鮮半島の陶工をごっそり連れ帰った。当時、陶器は割合簡単に出来たが、1400度位で焼く磁器はなかなか出来なかった。その後1616年、李参平が有田で陶石を産する山を発見、磁器の制作を開始した。

    (8)台湾の故宮博物館にはいろいろな陶磁器がある。これは、鄭一族が中国から陶工を招き技術指導をしたことによる。鄭一族は有田で磁器を作り、輸出して儲けようとした。

    (9)先に述べた如く、明王朝の滅亡により陶磁器が中国から全然輸出されなくなったため伊万里からのルートが出てきた。)

    (10)伊万里は東南アジアで今でも有名である。
    しかし、「秀吉が朝鮮出兵していなかったら・・・・・」「鄭成功がいなかったら・・・・・・・・・」
    今日の有田焼は無かったかもしれず、歴史は一寸したきっかけで作られ、変わるものとの感を禁じ得ない。