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第8話 日本とインドネシアの戦後60年(2)

インドネシアでは、58年の日イ国交樹立直後から日本企業の進出が始まった。当初は、賠償にからむ資材調達や技術指導で商社や土木建築会社が活躍した が、製造業も早くから動いた。松下電器は60年、現地のラジオ製造会社と技術提携を結び、69年の法改正で合併が可能になると翌年、同社と合併した。ジャ カルタ郊外にある合併会社の従業員は当初の約130人から今は約3600人に増え、同国で貴重な雇用を生み出している。
同社では毎朝、職場ごとに5分間の朝礼を行い、正直・公正、協力などをうたった社訓を一緒に読む。勤続33年のスパルマンさん(53)は「イ ンドネシアの会社にはない企業風土であり、社訓に共感している。また、永年勤続者向けの住宅ローンなど福利厚生も充実している。ここで働けてよかった」と 話す。

しかし、日本人と現地従業員との間に摩擦もあった。スパルマンさんは「昔、部下の頭を小突く日本人がいて、インドネシア人社長が注意した。この国で は絶対に受容されない行為だ」と話す。勤続32年のムルディネムさん(52)によると、「インドネシア人社長がいたので、社の方針を素直に受け入れられ た。また、3年前からインドネシア人も日本人も同じ食堂で昼食をとるようになり、連帯感がさらに強まった」という。

■マラリ事件(反日暴動)
インドネシアでは68年に大統領になったスハルトが開発政策を展開し、積極的に外資を誘致した。日本企業も続々と進出したが、74年1月、ジャ カルタで反体制デモが反日暴動に発展した「マラリ事件」が起きた。事件は、田中角栄首相がジャカルタに到着した翌日、日本大使館がデモ隊に投石され日系企 業の社屋が放火されたほか、1000台以上の日本車が破壊され、中国人街でも放火・略奪が起き、死者8人、逮捕者800人以上に及んだ。

医師のハリマン・シレガルさん(55)は当時の学生運動指導者で、事件でデモを指揮して逮捕され、国家転覆罪で禁固6年の判決を受け た(3年間服役)。シレガルさんは「デモは指揮したが、暴動には関与していない。私たちは、外国の投資企業と現地提携先の在イ華僑だけがもうけ、地場の中 小企業が衰退して庶民がますます貧しくなる状況に不満で、スハルト体制を批判したに過ぎない。反日暴動に発展したのは、運動が国軍内部の権力抗争に利用さ れたからだ」と話す。
事件の際、大統領官邸などの警備を指揮した元国軍少将、パルントゥさん(58)は「事件の背景には2人の将軍の権力争いがあった。暴動直後、 一方の将軍に連なる部隊がジャカルタに増派されたかと思うと、間髪置かず、もう一人の将軍に属する部隊も派遣された。学生や大衆が将軍たちの権力争いに利 用された証拠だ」と明かす。

ただ、日系企業にも原因がなかったわけではない。シレガルさんは「当時、日系企業と競争していた欧米系企業に近い人物が、現地従業員を平手でたたくなど日系企業のごう慢な管理方針について新聞に書かせた。こうした報道が反日感情をあおったという側面もある」と指摘する。
■日本のODAの功罪

戦後賠償に代わって日本と東南アジア諸国の橋渡しを目指したのがODA(政府開発援助)だ。2国間のODAには円借款(融資)と贈与(無償資金協力、技 術協力)がある。ODAの累計供与額が国別で最も多いインドネシアとは68年に最初の円借款契約を締結し、当初は主に電力分野、80年代は道路・港湾など の運輸部門や治水・かんがいに力を入れ、90年代以降は教育や保健なども加わった。

インドネシア側のODA窓口になる国家開発計画庁で現在、円借款による道路建設など地域開発事業に携わっているエディ・プラモノさん(46)の父は大戦 中、ジャワ島中部に住んでいたが、日本軍が反抗的な住民の手首をしばり、水も与えずに炎天下に終日座らせるという仕打ちを繰り返し、中には死んだ人もいた という。また、住民を「労務者」として強制労働に従事させ、農作物も収奪した。プラモノさんはこうした話を父から聞いて日本をうらんでいたが、「ODA事 業に携わって、日本がインドネシアと良好な関係を築こうと努力していることが分かり、日本への見方が変わった」と日本のODAを評価する。

しかし、環境保護や人権問題に関わる著名弁護士、ジョンソンさん(39)は「ODAは、日本の政治家や企業が還元利益を得るための道具に過ぎな い」と批判する。日本のODAによるスマトラ島のコタパンジャン・ダム建設事業で立ち退きを強制された住民約8400人が02~03年、日本政府などに対 し、元の居住地の原状回復や計約420億円の損害賠償を求める裁判を東京地裁に起こした(審理中)。ジョンソンさんは住民側代理人の一人だ。「移転で農業 ができなくなり、娘の売春を黙認している住民もいる。日本のODA事業にはほかにも問題のものが多く、事業の影響をもっと真剣に考慮すべきだ。また、汚職 が介在し事業資金が流出するため、住民に計画通りの補償金が支払われない場合もあるのに、日本は見てみぬふりをしている」と指摘する。

国家開発計画庁の職員も「かつてはトップ・ダウン方式の事業もあったが、事業計画立案に住民が参画しないと、住民の合意は得られない」と、手法の問題点を認める。ジョンソンさんは「良識ある日本人と協力して日本のODAのあり方を変えていきたい」と話している。