【連載】大阪の橋

    第33回●豊里大橋(3)
    近代の平田渡し

    松村 博
    (74期・大阪市都市工学情報センター理事長)



       明治になっても個人営業で続けられていましたが、明治37年、淀川改修工事によって豊里村が左右両岸に分断されたときに村営になりました。このように場所も地名も変わりましたが、渡しの名前はそのまま受け継がれ、明治40年からは府営となりました。その頃の渡し賃は大人が2銭、小人が1銭だったそうです。

       そして大正14年にこの辺りが大阪市に編入されましたので市営(ただし個人の請負制)となり、この時から無料になりました。公営の渡しは道路法によって認定道路として位置付けられているものが多いのですが、平田渡しも「東淀川区第386号線」という道路の一環としての役割を果たしていました。

       戦後になって職業安定法が施行されたのを機に、昭和23年には市の直営になりました。淀川右岸地域の都市化が進み、利用者が急増しましたが、手漕ぎの船では片道20分もかかりましたので、ラッシュ時には積み残しが出る状態になりました。それに少し風雨が強いとすぐに欠航となり、利用者には随分不便なものでした。そこで昭和35年には21人乗りの発動機船に変えられ、さらに昭和38年からは36人乗りの新造船が就航しました。こうして最盛期には1日3000人の乗客と670台の自転車を運んでいました。


      平太の渡し跡の碑(左岸堤防上)
       平田渡しは300年もの長い歴史をもっていますが、昭和45年3月に豊里大橋が完成したのを機にその歴史に終止符が打たれました。淀川の本流では最も遅くまで存続した渡しであったことになります。そして淀川の左岸堤防上に「平太の渡し跡」と刻まれた石碑が建てられています。


    Last Update: Oct.23,1999