【連載】大阪の橋

    第32回●豊里大橋(2)
    平田渡し 【へいたのわたし】

    逆巻橋寺『淀川両岸一覧』

    松村 博
    (74期・大阪市都市工学情報センター理事長)



       この辺りの淀川にはかなり古い時代から渡しが設けられていました。元禄時代に編まれた『摂陽群談』には「西成郡平田村より河内国茨田郡十番村(現在の守口市八雲中町付近)の堤へ渡って街道へ出る。ここは大坂の津より山城国伏見へ登る川船を改めるところである。世に平田番所の渡しといわれる」と説明されています。この地が淀川の水運の要衝であったことがわかります。

       平田渡しは平太渡しとも書かれ、この名前が、延宝4年(1676)から淀川の下流域での渡船の営業権を得ていた大道村(東淀川区大桐)の土豪沢田佐平太【さへいた】の名前に由来するという説もありますが、確かなことは分かりません。

       江戸時代末期の安政3年(1856)に発刊された『淀川両岸一覧』には「平太渡口【へいだのわたし】」として「西成郡平太村より、東生【ひがしなり】郡今市村へ淀川を渡る舟渡しである。今市の渡しともいう」と記述されています。このことから江戸時代前期の渡しの位置よりはかなり下流に移動していたことになります。


    Last Update: Sep.23,1999