われら六稜人【第46回】「ミナミ千日前に馳せる思い」

関西芸術座時代の写真

第3幕
学問と無縁の大学時代

    記憶力最悪、受験英語にうんざりしたので選んだのが国文科。大阪女子大学国文科からぶっ飛ばされそうな学生でした。もし、あの頃もうちょい勉強しといた ら…も後の祭です。夫に質問されて何も分からず、「きみはコクブンやなしにクニブンやな」と言われたものです。
    ところが不思議なことに、演劇に接点が無かった私が、国文科の級友に演劇部入部を勧められたんです。当時、藤本統紀子さん(義一氏夫人)は演劇部のスター でした。私は照明とか他大学に貸し出されたりしてました。例の友人にバレエを習うことを勧められ、何を思ったか西野バレエ団に2年ほど夢中で通ってクラシックバレエのステキさを知ったり、その友人のお供みたいに 今の関西芸術座の当時の研究所を受けたら、通ってしまいました。
    演劇というものに私を出会わせてくれたこの友人は、悲しいことに若くしてこの世を去りましたが、結果として私が夫と知り合い、今に繋がる道を示してくれま した。

    『うぬぼれ兎』のお兄さん兎役にはまる

    研究所の卒業公演では、『海抜3200メートル』を演じましたが、今でも「見に行ったで」と言ってくれる「北野」の同窓生がいて、穴があったら入りたい思 いです。下手くそなのに劇団員になってしまった私は、案の定大した役もつかず、劇団の学校回りの公演で『うぬぼれ兎』のお兄さん兎をやったり、演出助手の 助手あたりをやってました。人生至るところでドジをやらかす私は、学校公演で一生懸命見てくれてる子供たちの前で突然笑い虫に取り付かれてセリフが出なく なったり、新劇合同公演の端役で、毎日会館の花道から客席へ落ちて、どうしてよじ登ったのか憶えていませんが、観客の笑い声が頭の隅にこびりついていま す。

    こんな自分でも意外な人生の流れの中で脚本に触れ、「こんなん書けるやんか」と思った怖いもの知らずの無茶なヤツだったんです。若かったんでしょうね。 NJB(今のMBS)のラジオの「夜のドラマ」に『青春の足踏み』という恥かしい題名のシナリオで応募したら拾われてオンエア。それが縁で、今も続く「部 長刑事」のシナリオを書くように誘われました。考えたら長く続いた番組ですねぇ。

    絣の着物姿で机に向かう土井行夫

    書くって面白いやんかと思い始めた頃、一幕物戯曲を書き上げたところ、劇団の先輩が当時シナリオで売れていた土井行夫に紹介するという話に。対の絣の着物 姿で机に向かう土井を見て、「いやぁ、モノ書きや!」と思えて、何もリアルな生活など考えずに結婚することに…。3人の子供を育て、夫の世話に専念した、 四半世紀の結婚生活でした。

Update : Oct.23,2001

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