われら六稜人【第46回】「ミナミ千日前に馳せる思い」

大手前高女の頃の写真

第2幕
まさかの「北野」に

    終戦と同時に、あの目を血走らせた軍国主義は民主主義にと180度の様変わり。中豊島小学校開校以来初めてと言われながら大手前高等女学校の受験に心細く 一人ぼっちでトライしました。記憶能力ゼロのくせに変なことは覚えているんですが、たった一つ妙に引っかかっているのが入学試験の理科のテストで、「洗濯 物がよく乾く条件」みたいなの。思い違いでなければ、急場の付け焼刃の民主主義教育に昔の家庭婦人教育の尻尾が見えておかしいですよね。2年間の女学校生活を急変させたのが、男女共学という学制改革の実施。3年からは思いもかけない「北野高校併設中学生」として十三へ通学。結果、「北野高 校」卒業まで女子とは6年間、男子とは4年間同窓として机を並べることになりました。 想いめぐらすと、このうずくような若さときらめきの青春の入り口を、なんと私は何の艶めきもないガキのまま、もったいなく費やしてしまったのです。日焼け も気にせず、「インドのカラス」と男の子たちにからかわれる始末でした。

    北野高校・理科研究部の写真
    当時の理科研究部の部員たち

    50歳を過ぎ、当時のマドンナたちの賑やかな高校生活を知るにつけ、文字通りの青い春を無駄にした喪失感に打ちのめされました。クラブは、医学を目指した 酒井佳子さん、薬学を狙う岩本裕子さんのお尻について何の興味もないのに「理研」へ。以来、私の人生はいつも人に背を押されて方向が決まったようです。 「理研」では、かくれんぼをして遊んでいました。それに「絵画部」。絵は嫌いじゃなかったんですが、満足に完成した作品もないです。でも、今でも地方で時 間が空いたら、近くの美術館を探して絵を眺めます。シナリオ、小説に色彩のセンスはとても必要だと思います。

Update : Oct.23,2001

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