われら六稜人【第6回】4本の弦で紡ぐ音色は

第2曲
消去法でフランス留学?!

    父親がバイオリニストで、家で左手の練習をやっていたんです。それで見よう見まね、興味本位に…というのが、僕がそもそもバイオリンを始めたきっかけなん です。当時6歳でした。日本では少し遅い部類かも知れません。だいたい3~4歳頃から始めますからね。海外なんかではもっと遅く始める人もざらにいますけ れど。だから「幼少の頃からバイオリニストを夢見て…」というわけでは決して無かったのです。ただ、途中で投げ出すことを許さなかった厳格な父のおかげで今日の僕があるワケですが、正直言って嫌々ながら取り組んでいた時期はありました。高校を卒業 した頃などは悩みに悩んでいた…というのも事実です。逆に、そんなに好きでヤル気もあって、それを裏付ける感性のある子供だったら、一定の年齢に達した時 点でそれを持て余すんじゃないかと思うんですね。そうして潰れていった人は数多いですよ。たまにいますけど、僕も一人…名古屋で見ていた子供さんで小学校 2~3年から「何が何でも…」というタイプの子で…何を教えていいか解りませんでした。

    これが100年も200年も昔ですと、すぐに神童としてデビューできるじゃないですか。でも今は義務教育があるので難しい。それに出てくるアーティスト自 体、昔は数が少なかったし期間も長かったので「商売」になっていたと思うんです。ところが現代では、次から次へと国際コンクールの入賞者が、毎年何十人単 位で日本から出てきますよね。競争は激しいですよ。

    だいたいシステムとしては、エチュードのこれとこれをやって、熱心に練習していれば、誰だって大体は弾けるようになるものなんです。チャイコフスキーなん かでも…作曲家が素晴らしいので譜面通り機械的に弾いても、ある程度の演奏ができます。できるようにしてあるのです。それでも感動は伝わってきます。で も、何が勝負かと言えば「センス」…感性くらいしか残らない。洋服でも同じことで…いい生地を使って、いい糸を使って、きっちり作れば上等なものはできる んです。しかし優れたデザイナーのものは、例え同じ手順で作ったとしても、出来上がりが全然違ってくる。そういうもの…センスなんです。

    僕がその「センス」のために苦労をしようと思ったのは、実はフランスへ行ってからなんです。僕の場合…選択は「消去法」だったんです。地学研究部にいて、 自然環境とか土地利用なんかをもっと深く知れたらなぁ…そういう思いで農学部を受験しました。もっとも3年生の頃は追試に追われる毎日で、そんなに将来を 見据えていたとはお世辞にも言えず、まずは「卒業できること」が最優先の課題でした。「アトは予備校ででも考えよう」と。一生懸命やりましたよ。でも、案の定…大学受験には失敗して、大阪北予備校に通う身となりました。しかも、まとまったお金も無かったので前期の学費しか払 い込みませんでした。それも結構…引き金のひとつにはなったかも知れません。あれで1年間分払っていたら…フランスには行けなかったでしょうから。人間 て…分からないものですね。

    資料だけは既に取り寄せていたんですが…夏休みの前後にとうとうプロを目指す決心をしました。「浪人」よりは「留学」のほうが聞こえもいいですしね(笑)。強く薦めてくれる先生もいて、それで9月28日(今でもしっかり覚えているんです)のフライトでパリへ発ったのです。
    一次試験が10月の半ばでしたか…その後に二次試験の曲目が発表されて、1ケ月位で仕上げ。11月の15日くらいに本番…というスケジュールだったと思います。

    初めてのフランスの印象は「言葉がしゃべれないということが、こんなにも不安なものか」ということでした。普段、日本にいる時には感じない問題ですよね。「ま~何とかなるだろう」と自分に言い聞かせて…実際、それぐらい度胸が据ってないとやって行けないですしね。
    英語が通じたのはせいぜい空港まで。街中では英語をしゃべれない人も多いわけです。愛国心で英語を使わない典型的なフランス人も勿論いましたし、それはいろいろです。おかげさまで僕も、1年くらいの滞在で日常会話程度のフランス語は習得しましたけれど。

    それでリヨン音大の一次試験なんですが…これが実にあっけなかったんですね。課題曲としては、有名なメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲の3楽章か、また はサンサーンスのバイオリンコンチェルトの3番の3楽章か。どちらも緊張している時にはミスの出やすい曲なんですね。僕はサンサーンスを選びました。
    1ページ目というのは前奏が3小節くらいあって、あっけなく終るんですけど、これはカッコいい。それからテーマ(主題)があって、第2テーマを歌い上げる辺りが一番オイシイ聞かせどころなんですね。曲の頭から2分くらいのところでしょうか。

    ところが、いざ試験となって僕が「聞かせどころ」を弾きかけたところで、試験官に演奏を停めさせられたんです。2曲しか課題曲がないのに、お洒落なスーツに、かっこいいタイピンなんかをつけて…精一杯の準備をして、弾きはじめて1分もしないうちに停めさせられた。
    もうこれは「聴くに値しない、全然駄目」か「ものすごく良い」かのどちらかだろう…そう割り切って試験会場を後にしました。結局、この一次試験は通ってましたから、後者だったんじゃないかと今になってから思うんですがね。

    そして二次。モーツアルトのアダージヨとパガニーニの2番のコンチェルトの第1楽章…カデンツァの効いた奴ですね。いづれも、難易度の高いテクニックを試すというよりは、誰もが知っている名曲をどのように弾きこなすか…を審査の基準にしていたんじゃないでしょうか。

    また、僕の受けた年が定員の多い「オイシイ」年であったこともラッキーでした。最後まで10何人かが残れましたからね。前年だと50人受けて3人しか通ら ない狭き門だったのですが、その反動もあったのでしょう…その年の卒業生の数が異常に多くて、空席が一度にたくさんできたんです。
    一次の受験者がだいたい140人くらいでしたか…その1/3が二次を受験して、14人くらいが晴れて同級生となったワケです。

Update : Feb.23,1998

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