われら六稜人【第45回】「養生こそ至上の処方なり」

藤岡さんの大学時代の写真

第2診察室
学生運動

    僕ね、結局今の記憶では、阪大は社会が一科目やったんです。京大は二科目やったんです、僕は日本史一科目しか勉強していなかった。それで阪大いうことにし たんです。通る可能性があるからね、僕浪人はしたくなかったし自分は科目の問題だけで、阪大やったら通る自信があったわけですな、飯田先生が反対して も・・・。
    そんな単純なことなんです。別にどっちでもよかったんです。あの当時はね、京大へ行くのが何て言うか本当言うたら、おかしいけど北野に来た限りは京大行か なあかん雰囲気はあったような記憶はあるんです。
    僕が入った年の阪大医学部の最低点はかなり低かったんです。科目は違いますけどね。当時はね電子工学、基礎工学がものすごい人気でね、要するに洗濯機や、 テレビやというのね。まだコンピュータがない頃の電子工学がものすごい人気で、一番にできる奴はそっちへ行くわけですよ。医学部いうのはまあ医者の子弟が 多かった面もあるしね。事実、成績もそんなに良くなくていい。ところが僕が卒業する頃には一番難しくなった。その6年間の間に変わったんです。あの当時、医者になるいうたらめちゃくちゃ金がいるという雰囲気があったですね。実際はそんな金はなんもいらなんだ。当時年間授業料が9千円でした、入学 金が千円ね。 実際はアルバイト一杯あってね、いけるんですよ。ただちょっと、やはり確かに金がないと行けない…という雰囲気あったですよ。
    私もね、おやじがなりたい仕事が医者だったんですよ。けれどもまあ農家の長男やったし田舎のね。結局その夢諦めたんでね、私北野に行って、父ははっきり言 わへんやったけども、阪大の医学部へ行って欲しいような、医学部へ行くんやったら金かかるけども、それぐらいは学費出したるからと、よう言うてましたけど もね。私ね、解剖すんの嫌やし傷すんの、こんなもの嫌やし、結局はおやじは無理強いはしなかったですけどもね。

    入学してからは、石橋で本ばっかり読んでいたんです。哲学関係のね。結局そんなことやっていたらね、マルクス主義に引っ張られたんですよ。学生運動やって いる連中にね。 「お前え、何勉強している」。「俺こんなこと勉強やってる」言うたら、これも勉強せい言うわけで、引っ張りこまれた。結局、それから学生運動に関わって いったんです。 当時、僕は医学部へ入ってよかったと、そのとき思ったのね。人間は何かという時にね、一番ええとこ入ったなと人間を研究するんだから、そう居直ったんで す。ともかく医学部でいこうと、後は自分なりに勉強しようと思っていた。そんな思っているところに学生運動へ引きずり込まれて結局学部へ上がってから4年 間学生運動やっていたんです。ものすごい対立があってね、学生間に。学生間というたらおかしいね、学生運動やっている集団の間でね。
    派閥、すごい議論があったんですよ。だけど結局、学生自治会いうんですかねそんなんに関わってね。要するにいろいろ・・・。
    当時は、暴力沙汰は全然なかったんです。
    結局、最後東大立てこもったり、浅間山荘、あいつらここから論争したわけですよ。ところが彼らはね、ものすごい紳士的やったんです。言葉遣いもね。ものす ごい丁寧やしね、僕はしょっちゅう大論争やっていたわけです。大論争、おおげさやけどその当時の若僧がやっていたんですけどもね。阪大だけ孤立していたん ですよ。阪大は全国的なそういう過激な行動をしようとするストライキやとか何か反対していたんですよ。僕ら秀吉的ですからね。

    藤岡さんの大学時代の写真2

    どっちかと言うたらね、あの当時はねインターン制度なくする運動があったんですよ。僕らはね、インターン制度はあるべきやと、インターン制度は改善すべき だと。 なくすのではなく改善すべきだと、彼らは改善の余地はないともう一年間まさに搾取されるだけだと、だからなくすべきやそういうことやったんですね。その対 立があって僕は阪大の自治会の委員長やったりしたんです。ただ僕がやったときは学部の1年上に2年・3年・4年おるわけ、その時に僕一年で委員長やってい てその2年・3年・4年説得しなあかんしね。そんなことをうじゃぐちゃやっていたんです。
    僕は結局一年で落選したんです(笑)。全国的にそういう廃止運動に逆らうからそれで落選させられて、僕は学部の一年生の時、一年やっただけです。ずっと僕 はインターン制度というのは、いい制度であると今でも思うんですけどもね、当時廃止、こんなものあかんから無くせ、いうことになってしまって結局私が卒業 した昭和43年からなくなったんです。42年の人はインターン制度があった形になっててね、42年卒業の人と、43年卒業の我々が一緒に国家試験受けたわ けです。国家試験が我々は1年早かったんです。学生時代はそんなんばっかでしたね。それから結局何て言うかな医学の勉強もね、今の医学生みたいにはひどく なかったですよ、
    当時、暗記することが結構少なかった。その後、飛躍的にいろいろわかってきたから、暗記することがめちゃくちゃ多いみたいですけどもね、解剖学の暗記なん て嫌やだったですけども。一応、そういうこと学生運動やる余裕があったんです、結構みんなインターン制度の問題やからね、クラスほとんど7割か8割は討議 に参加するんですよ、一部そんなん関係ない奴おったけどそんなん少なかった時代ですわ。結構医学はどうあるべきやとか、医療制度はどうあるべきやとかそん なことまで含めていろいろやったわけですね議論を。

Update : Aug.23,2001

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