われら六稜人【第43回】メディアの人…報道の現場を歩んで

植村直己氏と(s53頃)
植村直巳氏と(S53頃)

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放送界へ

    毎日放送に移ったとき、別会社でしたし違うメディアでしたけど、大きな決断をしたという気持はなかったですね。それも毎日新聞社から出向したので、異動に 近いんです。いやだったら戻ればいいと言われて行ったこともありますし。でも、行ったら、またおもしろくなりましてね(笑)。
    早速テレビ報道部長の仕事しまして、万博の年ですね、カラーがそれで普及したころです。万博の開会式の前の日に雪が降って大騒動したり。そのころ毎日放送 は千里にあって、足場がいいものだから、大阪の民放4社の共同制作を千里に集まってやったんです。4社のうち朝日放送の報道部長が北野の人でしたね。
    転身したという気持を持たずに仕事ができたことは幸いでしたね。その時その時で興味持てるものにぶつかることができたしね。私なんか、初めはね、大阪の人 間でしたから大阪で終始したら満足と思っていたのですよ。ところが東京へ行くことになって、いやいや行ったんですけど、これがなかなかおもしろい。新聞以 外のおもしろさもわかりましたし、東京のおもしろさもわかりましたね。東京の悪いところも、いかに東京大学がいかんかいうこともね(笑)。東京大学卒業生 を大阪で見とるんと東京で見るのとは違いますね。僕は映画も1本作ってます。自分で作ったとは言えませんけど、タイトルに名前が出ています。「植村直巳物語」という映画です。植村直巳さんをテレビでずっ と応援していて、彼の北極単独行をうちのスタッフを一緒に行かせて、ドキュメンタリーを作り、これは芸術祭賞をもらいました。亡くなられたんで映画を作ろ うという話になりました。毎日放送と電通の共同製作で、制作費は13億くらいかかったんでしたかね、半分ずつ出すことになってたんですが、で、まあなんと かトントンでしたね。電通の人と私がそれの責任者ということで名前が出たのです。
    新聞と週刊誌とラジオとテレビと映画と、いろんなメディアを経験できて、そういうことではたいへん幸いでした。今度はインターネットですか、うーん (笑)。自分で進んでやったのではないのに、うまい具合にこっちへ行け、あっちに行けと言われてね。ラッキーでしたね。ま、なんでもおもしろいと思うとこ ろはありましたね。毎日放送が一番長いです。新聞社は週刊誌も入れて16年ほど、毎日放送は20何年ですね。今の和歌山放送で11年、ぼつぼつ辞めます (笑)。次はなにか他の…やはりインターネットですか。このあいだもパソコンやらなあかん言われたところですねん(笑)。

Update : Jun.23,2001

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