われら六稜人【第43回】メディアの人…報道の現場を歩んで

『サンデー毎日』昭和40年1月10日号
『サンデー毎日』
(昭和40年1月10日号)

第5頁
ベトナム報道

    政治のニュースをもっと取り上げたらどうやと、それから外国のニュースが話題になってきておると、『サンデー毎日』はこのままではいかんなということを編 集会議で言ったことがあるんですよ。当時の編集長は優秀なジャーナリストでしたが、週刊誌で政治ネタはだめなんだと、国際ネタもだめだ、そうなってるんだ と言ってたんです。ところがね、1年たったら変わってきたんです。1年後というのはベトナム戦争がものすごく激しくなってきたころでね。次の岡本博という 編集長はベトナムにえらい力を入れたんです。この人は映画評論家としても有名になった人で、司馬遼太郎の『余話として』にその人のこと書かれていますけど ね、この人は今までとちょっと違う感覚を持っていた。ベトナムをやろうと。無名のカメラマン兼ライターの岡村昭彦さんを使いまして、この人は後に『南ベト ナム戦争従軍記』(正続、岩波新書)を書きましたが、新聞社の通常の通信のルート以外のルートでベトナム報道に火を点けたんですよ。新聞では大森実が国際 事件記者で活躍しました。「国際事件記者」いうのは『中央公論』で連載したものですが、彼もベトナムに力入れてね。日本人にはベトナム戦争は2回あるんで す。最初はベトミンですね。でも、そのころの新聞見たら載ってませんよ、ベトナムでなにが起こってるかはね。ディエンビエンフーが陥落したことは載ってま すけど。日本人は遠い遠いもんやと思っていたんです。日本人にベトナム戦争が身近になった、それはこの大森実と岡本編集長の二人の功績やと思います。

    『サンデー毎日』昭和40年1月17日号
    『サンデー毎日』
    (昭和40年1月17日号)

    『サンデー毎日』昭和40年の正月号で「戦争」いうタイトルで、グラビヤ頁で死体がゴロゴロしているのをダーッと並べたんですよ。特集記事もほとんどベト ナムでね、レギュラーの小説は載りましたけど。ものすごく異色ある編集したんです。そしたら出版局長が怒りましてね。『サンデー毎日』の新年号いうたら、 みんなコタツに入ってゆっくり見るんだ、表紙は富士山だ、グラビヤページは太陽が地平から昇ってるきれいな景色を撮すんだ、そして巻頭には湯川秀樹か岡潔 か、格調高いエッセイを載せて、正月らしい気分にする、これが週刊誌の正月号だ、なんだこれは、と言ったんです。その2月の異動で編集長はクビになりまし た。ところがですね、これが爆発的に売れたんです。すぐよその週刊誌がマネをしました。『週刊朝日』が開高健を使ったのはそのあとです。今のジャーナリズ ムの焦点はこれだ、これやったら売れるというので人をいっぱい送り込んだんです。『平凡パンチ』いう雑誌は車かジャズか女の子かそういう話題の雑誌だった んですが、それが翌年の正月、第七艦隊ルポをやるようになりましたよ。

    つまり、時代が変わってメディアの内容が変わったんですな。編集長をクビにした出版局長も元は優秀な編集長で、僕は尊敬しているんですが、時代が変わって いることはプロでもわからない。メディアを享受する受け手のほうが、メディアの形を変えるんだという教訓を得ましたね。読者が新聞を変える、読者が週刊誌 を変える、視聴者がテレビを変えるということです。そういうふうに見ますと、新聞が一番変わってないけど、これもまた変わっとるんですね。我々最初のころ は社会面いうのは1ページしかなかった。その反対側を第二社会面いうようになって、それでも足りないで拡がってきてますな。政治記事も昔は今ほど読みやす くはなかったですよ。クロウト向きの政治記事やったですよ。今は田中真紀子とか政治の世界にもスターが出てきたから、記者会見の状況とかを報道するように なりましたが、昔は情報をデスクでまとめて、固い文章に直すんですね。それのほうが信頼感があるいうことで…今はスタイルが変わってきました。

Update : Jun.23,2001

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