われら六稜人【第41回】昆虫少年、博物館へ


地理の川副昭人先生

第3展示室
川副先生との出会い

    中学の何年やったかな…5月の新緑の季節ですわ。5月10日前後。アゲハチョウなんかがようさん出てくる時期なんですけど…虫好きの仲間2、3人と連れ だって、能勢の妙見山へ行きましてね。能勢電鉄の終着。あそこへはよく蝶々を採りに行ってたんです。人があんまりいないですから、とくに虫採りなんかしてる人と現場で出会ったら自然に会話が生まれるわけです。いろんな人とね。その日は、ちょっと年輩の おっちゃんが一人…毛虫を採ってはるんですよ。毛虫をね。僕らは蝶々を採りに行ってるじゃないですか。それでなんか…けったいなおっちゃんおるでぇ思うて (笑)。声かけたんですよ。
    「おっちゃん、それ何捕ってんの?」そしたらね「これは蛾の幼虫や。染色体を調べるために採ってるんや」と仰るわけです。僕ら単純な子供やからね(笑)。 あぁ、これはきっと偉いセンセイなんや思うて。ただ毛虫捕って遊んでるんやないんや。何か研究してはる偉い先生なんや…思てね。で、その日一緒に付いてま わって…知らん場所もようけ教えてくれましたわ。

    帰りに駅で缶ジュースをおごってもらって、電車の中でいろいろ話をしてるうちに「ボクは北野高校で教員やってるんや。君らどこに住んどんねん」て言うから 「西淀川区です」って答えると「そしたら第一学区やな。頑張って北野に来いよ」って。一種の青田刈りかな(笑)。それが川副昭人先生との出会い。社会科の 先生で、当時はもう定時制に移られてたんですけどね。今でもよう覚えてますよ。
    電車の中でいろいろ話を聞いていて、蝶々の有名な先生やいうことが判ってね。それから何度も手紙のやりとりをしたり、一緒に蝶々採りに連れてってもらった りね。「家に遊びに行っても良いですか」言うて川副先生のご自宅までおしかけて標本を見せてもらったり…かなりお世話になりましたですよ。

    それまでは特にどこの高校へ行きたいという願望はなかったんですが、せっかく川副先生が言うてくれはるから「北野へ行きたいなぁ」と思いましてね。結局… 北野に入れたのは僕だけだったんですが、合格発表の日に早速、川副先生から家に電話がかかってきまして。「君は北野に入学したら生物研究部に入るよう に」って言われて(笑)。入学者名簿を見てはったんでしょうね。「生物研究部には『LUPE』言う年誌があって、この10年間…発行が途絶えてるんや。君 が入ってこれを復活させなければならない」と念を押されて。
    僕は高校へ行ったら「何かスポーツしたいなぁ」って漠然と思っとったんやけどね。根が素直なもんやから「はい」言うて、ふたつ返事で答えた(笑)。なんか そういう意味では、わりと北野に入る前から北野には縁があったんですけどね。勿論、生物研究部があるなんて川副先生から聞かなかったら知らなかったですけ ど。

    ところが、その生物研究部に入ってみたら期待外れでね。期待外れというか…要は部員がいないんですよ。3年生の先輩が3人いらっしゃっただけでね。ひとつ 上の2年生の先輩は一人もいらっしゃらない。結局、一般の部活動と比べたときに文化部というのはどうしても地味ですからね。当時『LUPE』にも書きまし たけど、虫採りしとったら「マニア」とか言われるわけですわ。「オタク」やとか言われて、女の子にももてない。やっぱり暗いイメージがありましたからね。 それで結局、先輩に引き留められて「帰らんといてくれー」と懇願されてね(笑)。仕方なく、僕一人でやってたんですよ。


    ▲復刊させた機関誌『LUPE』
    ▼『LUPE』No.25(Apr.1998)より

    それ…当時の『LUPE』ですわ。すごいなぁ。結構、上手に描いてるなぁ。なかなか、おもしろいねぇ。このころは時間があったんですわ、きっと(笑)。ほ ら、川副先生に巻頭言を書いて貰ってるでしょ。「先生、『LUPE』出しますから…なんか一言、書いてください」言うて、書いてもらったんですよ。
    この23号、24号というのが僕がおった時やと思います。1年、2年の時に出したんかな。この前の22号っていうのが、確か10年くらい遡ると思うんです よ。「歴史があるんやで」とさんざん聞かされましたからね。「あぁ、そうですかぁ」言うて(笑)。この題字なんかも昔の号を探してきてね、作ったりしてま したね。いやぁ、懐かしいなぁ。

    しばらくして同級生の女の子がもう一人たまたま入部しましたけど…女の子と2人ではクラブ合宿にも行かれへんでしょう(笑)。ちょっとねえ…危ない世界に なりますからね(笑)。計画のしようがない感じがありました。その後も部員は少なかったですね。とにかく何かクラブっていう形で活動するには、あまりにも 人数が少なすぎるっていう状況はありました。どこの文化部もそうでしたけど。元気なのはオーケストラ部とコーラス部くらいで。部室が隣でしょ、生物研究部 の。楽しそうにやってはりましたわ(笑)。
    居場所としては良かったんですけどね、部室があるっていうことは。ちょっと授業をサボろう…とかいうのも、やりやすいし(笑)。ともかく「生物研究部」と いうユニットで何か活動するっていうのは、ちょっとしにくかったですね。あんまり一生懸命やったっていう記憶はないなあ。

    淀川はね。やっぱり良いフィールドやから、よう行きましたけどねえ。僕、西淀川に住んでて自転車通学やったでしょ。だから…網持ってぱぁっと行くって言う のはよくやりました。文化祭用のネタでね。いろいろ淀川で集めてきて使いましたけど。カニ釣りとかカエルの解剖とか、いろいろね(笑)。
    むしろ僕の場合は、長居の自然史博物館がありましたからね。そこで天王寺高校の連中とも知り合いましてね。天高の生物研究部も崩壊寸前やったんですわ (笑)。それで「お互い、大変やのう」言うて慰めあって。「今度、俺らこんなん出すんやぞ」言うたら「俺らも出す」言うて…対抗してなんか出してましたわ (笑)。彼とはいまだに付き合いありますけどね、昆虫で。彼は京都大学に行って、昆虫の生態学の研究をしていて、僕は神戸大学で昆虫学。大学は違ってたん ですけど、いまだにずっと腐れ縁でつきあってますわ。

    そういうふうに…博物館に行けば、わりといろんな仲間がおるというような状況がありましたね。天高の奴と出逢ったのもそうやけど、大阪の博物館の場合、そ こを中心としたサークルみたいな活動がわりと活発だったんですよ。博物館の研究室へ行って、いろんな話を聞いたり、博物館のセミナーとか野外調査とかに参 加したりして。「昆虫化石を調べる」とか「蝶々の移動を調べる」とか…いろんなグループがあって、そこにまぁ属することになるんですわ。
    まさに大学で言うところの「サークル」みたいなものが、博物館にあったわけです。そこにずっと入り浸って…自分が大学生になれば、逆に世話をする側に回っ てね。だから、僕は大学へもほとんど行かなかったですねぇ。皆さんそうかも知れへんけど(笑)。講義は友達にちょっとノート見せてもらって、単位もきっち りで卒業する…そういう感じで。
    まあ、今思ったら「もうちょっと勉強しとっても良かったかな」という気もしますけど。でもその時間ずっとフィールドワークに出てたことが、きっと良かった んやろなぁと思いますわ。とにかく全国あっちこっちへ虫採りに行きましたからね。北海道からずぅっとね。

Update : Apr.23,2001

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