われら六稜人【第5回】憂国大使の創作バレエ

第4幕
外交官、商売繁盛記

    ともかく、パリから東京へ呼び戻されて、条約局に配属となった。まだその頃はそんなに大事な仕事はしなかったけれど、しばらく勤務をしたら今度はブラジルのリオデジャネイロへ行けということになって…。ちょうど1960年、いわゆる60年安保闘争の時代。僕はリオデジャネイロで、ブラジルの新聞には滅多に載ることのない日本のニュースをトップの一面で見 ましたよ。岸総理が撃たれ、担架に乗せられて、担ぎ出されてる写真をね。それが、かのブラジルの地で「わが日本というのはこんな国なのか」と嘆いた初めて の経験でした。

    次にニューヨークの国連代表部に勤務して…これが1962年かな。キューバ危機ですよ。アメリカが本当に核戦争をおっ始めるかも知れない、という…。ケネディ大統領が海上封鎖をして、あわやソ連と第三次世界大戦?!というような一触即発の状況で。
    それはもう凄かったですよ。国民みんなテレビに釘付けで。今夜、ソ連が譲歩するか、それとも海上封鎖を突破してキューバに武器を運ぶか…。もし運んだら、米軍がそれをやっつけるというワケだよね。みんな非常に緊張した。
    結局、ソ連の輸送船はダ~っとUターンして逃げて帰って行ったンで、難を免れたケネディは、その強硬策が非常に支持を得たわけです。
    僕はそれをニューヨークで体験して、安保の理事会に出て傍聴もしました。非常に厳しい東西対立、いわゆる冷戦の一つの危機でしたね。

    ニューヨークから日本へ帰ってきたら…なんか、みんな暢気でね。もし、朝鮮半島に日本向けのミサイル基地が設定されたら一体全体、日本人はどうすんだ? クラス会なんかでも盛んにまくしたてたンだけどね。
    まったく他人事だった。「え~、そんなの新聞がちょろちょろっと書きゃあ筆先でどうにでもなるよ」そんな無責任なことを言う奴さえいた。
    日本人にとってみれば、ああいう切迫した「国を守る」という意識が、ほとんど皆無であったのが僕には非常に驚きだった。
    今でもないですがね。ずっと尾を引いている…。そして日韓交渉、韓国との正常化交渉ね。どうも僕は根が勤勉なものだから、忙しいところへ配属される傾向があって…商売繁盛というかね(笑)。

    そんなのが幾つかあって、日本勤務も束の間…次に派遣されたのがサイゴン。ちょうどベトナム戦争の真っ最中で。
    これまた暢気な日本では「ベ平連」とか言ってね。小田実なんかベトコンってやってたけど。結局あれは、1975年に終結した時の姿を見ると、北ベトナムが 南ベトナムを武力で押さえてしまって、ベトコンなんていうのはその手段に使われたに過ぎないね。だから、ベトコンに戦争の正義がある…と言わんばかりの 「ベトコンを謳歌した人たち」っていうのは、非常にみっともなかっただろうと思うんだけどね。

    まぁ、それはともかくとして、ベトナム戦争が一番激しい頃にサイゴンで…とうとう家族はみんな引き揚げさせましたね。それで1年ぐらいかな。ベッドの周りに土嚢を積んで生活したわけです。ロケットが飛んでくると言うんでね。
    ロケットと言っても…そんな大したモノではないんだけど、直撃を受けると死ぬんだねぇ。そうでないにしても、バ~っと破片が飛び散ってね。それで、特にガラスなんかが体中に突き刺さって大変だ…そういうような負傷者は多かったですけどね。
    こちとら、せっかく太平洋戦争で命からがら生きて帰ったのに、こんなベトナムで他人の戦争で死ぬのは馬鹿馬鹿しい。もっとも、直撃で当たる確率は宝くじに当たるくらいの確率だから大丈夫だろう…とは言ってたんですが。

    おかげさまで、ここでも僕は無事に生き延びました。友達と電話で話してた時に半径50メートルくらいの距離にロケットが落ちましたけど…住宅の中で、直撃は免れた。
    残念ながら、日本の新聞記者が一人亡くなったのと、あと…今「報道カメラマン」が一部で問題になってますけど…ピューリッツア賞を受賞した沢田教一さんがこの時亡くなっていたり、そういう犠牲者は出ましたけどもね。

    この頃の僕の身分が大使館の参事官。つまり、大使の次席ですね。余談ですが、サイゴンでテト攻勢の時に大使をなさっていたのが青木大使。去年のリマ事件で有名になった青木大使の親父なんですよ。立派な大使でしたがね。あぁいう災難というのは親子代々、遭うもんなんだね(笑)。

    このあと、もう一度パリでユネスコに勤務してから、東京に帰ってきてアジア局に務めました。7年間…異常に長いんですけど。その間に日中正常化、田中角栄の正常化から最後の福田・園田の日中平和友好条約締結まで、都合7年半いたわけです。
    この間に外務大臣は7人代わりました。「1人1年」の外務大臣に何ができるというんでしょうね。でも、しょうがないですよ、あれは。そういうシステム作っちゃったんだ、誰かが。

    で、パリと言えば…最初の在任(1952-54)の時にバレエに触発されましてね。そこらのチィチィパッパ的なお遊戯じゃなくてね。奥が深くて真に密度の濃い、立派な芸術だということを身をもって感じさせられて…日本で言う「能」みたいなもんですよね。
    それで、日本のバレエなんてのは「こんなの全然、駄目だ」ってボロくそに批判してたら「そんな偉そうなこと言うなら一体全体どうすりゃいいンだ」って言うンで、「いっそ止めりゃあいい」なんて咆哮を飛ばしてたんだけどね。

    「どうしても続けたいんなら『日本のバレエ』を演れ。そんなヨーロッパの真似をしても駄目だ。誰か…日本人が台本を書いて、日本人が作曲して、日本人が踊 る…そういうバレエを演るんならいい」「そんなに偉そうなコト言うんなら、お前が書いてみろ」それでバレエの台本を書くはめになったンです。その第一作目 が『いのち』だった。

Update : Jan.23,1998

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