われら六稜人【第39回】がちゃぼいマンガ道

恩師岡島先生と
自宅にて恩師岡島先生と(昭和36年)

第2話
バンカラという気風

    マンガ家になったのが昭和24年頃ですね。東京に出て来まして正式に医者をやめてマンガ家になろうということで『ジャングル大帝』という連載マンガをその 頃から始めたわけです。これが東京でマンガを描きだしたきっかけです。
    実際にはもっと前から描いておりました。小学校の3年生ぐらいから実はボツボツ描いておりまして、この北野中学に入りましてもマンガばっかり書いておりま した。前に北野高校におられた岡島吉郎先生(昭和9年~41年、旧制北野中学・北野高校勤務)、この先生が美術の先生で、僕は美術のクラスに入ったのです が、普通の絵は書かないで、マンガばっかり書いていました。岡島先生も公認の上で、美術の部屋でマンガを書いていたわけです。当時は教練の教官がおられたわけです。名前は忘れたけどマントクというあだ名の教官の方がおられました。ある日、マントク先生の似顔絵を書いておりました ら、烈火のごとく非常に怒られまして、職員室へ連れ込まれました。

    教練の教官に烈火のごとく怒られる図

    「お前のような非国民はとにかく殺す」と言うわけです。僕はもうガタガタ震えた真似をしておりました。なぜ「真似をした」かといいますと…その日本刀は切 れないのでありまして、前にどっかの捕虜の首を2、3切ったことがあると自慢話でよくやられたのですが、実際は一人も切っていないのでありまして、第一、 その日本刀は抜けないようになっているんだそうです。
    そういうことを既にもう知っているものだから、こっちは怖い真似をしてガタガタ震えておりましたら、向こうは「いいか、切るぞ」と構えるわけです。どう せ、抜けないものだから、こっちも安心しているわけですが、向こうはきっかけが掴めないもんだから、また「切るぞ」と凄むわけです。なかなかタイミングが 合いません。そのうち、抜けないことがバレたと思われたのか…マントク先生「じゃあ、もう切らない代わりに始末書をかけ」と言われて、始末書を書かされま した。そして、午後からずーっと廊下に立たされました。そんなことがあって、職員室でも「マンガを描く生徒」ということが知れ渡ってしまったわけです。

    当時の北野のスタイル

    その頃の北野の気風、北野カラーは今とは違いまして、今でいう番長スタイル、あの頃でいうバンカラスタイル。絵に描くとこういう感じで、ツバが非常に張っ ております。つばが張れば張るほどいいわけです。横にかばんをさげる。かばんの垂れが非常に長いほうが良い。ここに北野のマーク。それからゲートル。その 頃は脚半。北野の脚半は変わっておりまして、白いカバーみたいのを巻きましてボタンで止めてある変わった脚半です。こういうのがその頃の北野のスタイル。
    ところが番長なるものがいるわけです。番長といわずバンカラと言いましたが、それが、帽子のピーンとスジの張ったのを見ますと非常にレジスタンスを感じま して、これを奪いまして、十三の電車の線路の上に捨てるわけです。電車がバアーッと通過した後の帽子というのはこんな風にペチャンコになっているわけで す。これを今度は布団の下へいれまして寝押しにかけるわけです。そうすると、帽子は「ただの板」みたいになってしまうわけです。それを被るんですね。これ を被るとやっと番長の子分にしてもらえる。ですから3年生、4年生ぐらいになりますと、やたらにこういう帽子を被っている人が多いわけです(笑)。

    僕はやっぱり非常に真面目でありましたから、そういう帽子は被りませんでした。僕だけはどういうわけか、そんな風にさせられなかった。なぜかというと、そ の番長が非常にマンガ好きでありまして、何かいじめられそうになると僕は一生懸命マンガを描いて番長にやるわけです。そうすると非常にニコニコしてくれま す。
    その頃はそろそろマンガが無くなっていった頃です。『のらくろ』とか『冒険ダン吉』とかいう昔のマンガがありましたが、それらもそろそろ読めなくなった 頃、非常に戦争がたけなわになった頃でした。「マンガが読みたい…」番長だって学生ですからマンガが読みたいわけです。そこへ僕がスラスラ描いて渡してや るもんですから非常に喜んじゃいました。「手塚君、長生きしてくれよ」と番長に特別かわいがられていたために、僕だけは真面目な帽子を被ってバリッとやれ たのです。ここに僕の時代の先生が来られていますので、後で聞いていただいたら確かです。私は非常にマジメな生徒であります。弁解ではありません(笑)。

    バンカラに寵愛される図

    まあ、そういうことがありまして、この学校では非常にのびのびと生活させていただいたのですね。僕はさっきも申し上げた通り体格が小さいために、みんなか らある程度、馬鹿にされていた。何とか馬鹿にされないことをひとつやってみたい。コンプレックスが昂じれば昂じるほど何かひとつ、とにかく他の連中に出来 ないことを、自分一人でしか出来ないことをやっていみたいという気持ちになったわけです。それがマンガを描きだしたきっかけなんです。今でこそマンガを描 く人が増えていると聞いておりますが、その頃にはマンガを描ける特技というのはなかったようです。今の子供たちはみんなマンガを描きますが。

Update : Jan.23,2001

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