われら六稜人【第36回】漢字に魅せられて…漢字学の楽しみ

第一画
門前の小僧が習わぬ漢字をおぼえた理由

    私は昭和26年7月に生まれました。戦後の日本がそろそろ復興しはじめた時期ですね。小学校にはいったのが昭和33年で、ちょうど長嶋茂雄が巨人に入団し た年。中学校1年の時に東京でオリンピックがありました。だいたい日本の高度成長と共に小学校中学校と歩んできた、という感じです。
    父は、私が小学校に入った頃には小さな印刷屋を経営していました。当時の印刷は活版印刷ですから、土間に活字ケースがいっぱい並び、隅に版を組む場所と機 械が一台という、ほんとに零細な規模でした。場所は大淀区南浜という所で、今は豊崎という地名にかわりました。梅田と天六と中津を三角形にしたら、ちょう ど重心になるようなところです。零細な小企業の工場や商店が多く、特にメリヤス屋さんなんかが多かったですね。塾なんかありませんでしたから遊ぶたい放題でしたね。そういえば「ベンキョ学校」と呼ばれていた塾がありましたね。今で言えば補習機関でしょうか、学校の 授業についていけない子供がこっそりと行くようなところでしたね。でも町なかのガキどもにはそんなところに行く殊勝なやつなんかいませんし、学校から帰っ てきたらカバンを放り出して、すぐに原っぱへグローブとバットを持って駆けつけるというのが、私たちの日常でした。
    ところがやっかいなことに「お手伝い」という関門がありましてね。商売をしている家では、子供が家の稼業を手伝いをさせられるわけです。それをしないと開 放してもらえない。原っぱへ早く行かないと、いいポジションも打順も取られてしまう、しかし仕事がある。そのジレンマみたいなのに陥って、結局両立させる ためには家の手伝いを早く片づけて行かなければならない。思えば、けなげな少年時代でしたね(笑)。


    写真提供:中西印刷株式会社

    うちの仕事は印刷ですが、小学校高学年の頃のお手伝いは、活字屋さんへ活字を取りに行くことでした。うちのような小さい印刷屋では、すべての活字が揃って いるわけではありません。大手は自社内に活字の鋳造設備を持っていますが、普通の印刷屋は活字を活字屋さんまで買いに行くんです。父があらかじめ活字屋さ んに電話で注文していますから、私が家に帰ると「おまえちょっと行って来い」と言う。それで自転車で10分位の所でしたね、そこまで活字をもらいに行きま す。ところがこの活字屋がドンくさくて、時々注文と違う活字を出してくることがあるんです。だから活字屋さんで、注文通りの活字かどうかちゃんと調べてか ら帰るんです。活字はもちろん左右逆の鏡文字になってますが、それでも大体わかりました。それに我が印刷所に無い活字というのは、原則的に難しい漢字なん ですよね。それを買いにいって、現場で文字をじっくり眺めるのですから、おかげで小学校4年5年のころ、学校ではとうてい習わない漢字を結構知っていまし たね。

    もうちょっと学年があがると、必要な活字をケースから取り出す仕事が与えられました。だいたい冬は年賀状、夏は暑中見舞い、それ以外は引っ越しの挨拶とか 名刺やチラシとか、そういうのが得意先から出てきます。最近の年賀状はずいぶん言葉が簡単になっていますけど、昔の商店のオヤジさんらが出す年賀状は「毎 々御厚誼を忝なくし」とか「一層の御指導御鞭撻を」とかの決まり文句が多かった。「御鞭撻」というようなことばは、中一の時くらいから知ってましたね。大 人が使うそういう難しい漢字を平気で口にしたり、作文に使ったりする子供だったから、担任の先生はきっとやりにくかったと思いますよ(笑)。

Update : Oct.23,2000

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