われら六稜人【第35回】博物館を一代で築いた男

第1営業部
「天下の台所」に生れて

    池田屋の姓は沢山ありますが、どれも物流業に縁の深い屋号なんです。その証拠に、阿波池田にしても土佐と讃岐と阿波の交通の要衝に地名が残っています。摂津池田は丹波と摂津でしょ。物流あるところに池田屋が出てくるのです(笑)。初代、池田屋萬兵衛が堂島新地3丁目に米方両替商を創業したのは江戸時代中期の1736(元文元)年にまで遡ります。当時の大阪は「天下の台所」と呼ばれ、全国諸藩の年貢米が集積する中央市場の機能を有していました。
    米市場では実際の正米の売買のほかに、投機目的の帳合米の取引も盛んに行われていましたが、萬兵衛はそれを家訓(「雑穀請判すべからず」)で禁止していま した。その後、1753(宝暦3)年に米卸業を併業。1806(文化3)年には北浜4丁目に移転して、1879(明治12)年に伏見町5丁目で米穀問屋を 開業します。これが六代目池田萬助です。僕の曾祖父ですね。

    代々、商家には襲名という習慣があります。わが池田家においても、継承者が「池田萬助」を襲名。61歳を迎えた時点で経営の第一線から退いて隠居名「池田屋萬兵衛」を名乗ることになっていました。

    僕はそういう家に生まれたのです。3歳の頃、母が弟を出産しましたが、残念ながら産後の肥立ちが悪く、母子ともに死んでしまいます。それで僕は幼稚園に4年間も行かされました。それが愛珠(あいしゅ)幼稚園です。もう代々4代にわたってお世話になっています。


    愛珠幼稚園。修了記念(昭和11年3月)

    ご存知のとおり、北船場でしたから僕付きの女中が一人いました。それが、毎日お相手をしてくれるのです。その後、父が後妻さんを貰いました。僕は今でも憶 えていますよ、父の結婚式のことを(笑)。その後妻さんに子供がなかったので、結局、先妻の子である僕が後を継ぐことになるんですが。

    愛日小学校(=愛日国民学校)はその当時から男女共学でした。同期の三島君の学んだ集英小学校なんかは、まだ共学でなかったそうですから、かなり先進的だったんですね。
    「い」組「ろ」組「は」組とあって、各組お成績の一番優秀な方は浪高の尋常科へ行きました。その次が北野中学。僕ら商人の子は天王寺商業、職商売の子は都島工業へ行く…というのが専らの相場でした。ごく自然に、受けるところがパターン化されて決まっていたのです。
    ところが学区制が始まって、大阪市の北半分からは天商を受けられないという事になった。それで僕は北野を受ける事にしたのです。愛日小学校から北野へ 「15人」の枠が決まってまして、僕の時も一人余分に受けたけれど落ちましたね。曽根崎小学校からは「30人」が入学していました。


    愛日国民学校。卒業記念(昭和17年3月)

    ところで、北野中学の入試の時に感じたのですが、僕みたいに長男は損です。上に兄姉がいないので体験談を聞く人がいない。すべて情報は自分で探さなければ ならないのですから。たまたま小学校の友人から前年、前々年の試験問題を入手して、よく見てみますと、体操の科目に「逆上がり」があることが判りました。 それで急遽、毎日毎日3ケ月余りも逆上がりの練習を続けましたよ(笑)。
    何とか特訓の甲斐もあって試験の時にはちゃんとパスしましたけれど。今のように、体の調子が悪ければ保健室で受験できる…なんて事はもっての外でしたね。試験の時に風邪を引いていたりしたら完全に落ちてますね(笑)。
    どうやら皆さん…逆上がりが出来ずに通っている人も結構多いのですよ。しかし、僕は逆上がりが出来て通った。それだけの事です(笑)。ちなみに、社会に出 てから気付いたのですが…皆さん、お成績がいいのは、私よりも逆上がりの分だけ学業の出来が良かったんですね。単純でしょ(笑)。

Update : Sep.23,2000

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