われら六稜人【第29回】レンズに魅せられた男

2等星
新聞配達で得たもの

    昭和23年に帰阪して、父は焼け野原となった菅原町の地に、焼け残り材を拾い集めて、仮り家を建てて住まいました。それから間もなくです…母が過労で他界しましてね。まだ小学校5年生だった私は言葉にできない寂寥感に打ちのめされました。
    15歳上に兄が、13歳上に姉がいましたから、それからは姉と兄嫁が母親代わりでした。父が大工で多忙をきわめていましたから…実際には兄が私の面倒を見てくれたのです。兄には今でも感謝しています。そんなこんなで家が非常に貧しかったものですから、私は子供心に家計のことを考えざるを得ませんでした。それで母の死後はずっと新聞配達をしていたのです。足掛け約7年間続けましたよ。
    北野へ入れたのもこの新聞配達がルーツと言っても過言ではありません。なぜかというと新聞配達は朝3時半頃から6時半頃までに配るんです。それから家に帰っても仕方がないので、ご飯を食べて学校へ行くまでが私の勉強時間だったのです。これがよき日課でした。
    寒い季節は息が凍るのです。手袋も凍ります。そんななかでの新聞配達は大いに役に立ちました。負けん気が養われた感じです。北野へ入ってからもずっと続けましたよ。私の子供にまで新聞配達をさせたぐらいです(笑)。

    私は柴島中学の出身なんですが、その頃、街頭で目にした紙芝居にヒントを得て、カメラを自作したのです。1台目はソルトン・シャッター(いわゆる「縦走り フォーカルプレーン・シャッター」)のもので、2台目にはレンズ・シャッターを採用して前作の露出ムラを解消しました。レンズには市販の虫眼鏡を用い、 フィルムは…当時もう35ミリもありましたが…手札型乾板を用いました。中学の卒業アルバムの写真の中には、私のカメラで撮影したものが5枚用いられてい ます。摺りガラスでピントを確認してフィルムに差し替える…アレですね。フォーカルプレーンの動きは難しかったですが、これも工夫に工夫を重ねました。そういう 意味ではレンズ・シャッターのほうが簡単でしたね。アルバム写真を撮影したのもレンズ・シャッターのほうです。これでいろんな賞を貰いました。
    卒業式の日、学校で初めてといわれる「ものづくり特別賞」というのを頂きました。この賞状、手書きなんですよ。副賞が「シャープペンシル1個」でね。いいでしょ(笑)。卒業式の全校生徒の前で戴きました。
    旺文社の赤尾敏夫さんからは「日本学生科学賞」を、続いて「最優秀大阪府知事賞」「文部大臣賞」へと繋がっていくのです。

    嬉しい時や淋しさを紛らわす時に、よく「ものづくり」をしました。カメラの他にも起重機を作ったり「自動開閉ごみ箱」みたいなものを作って教室で喜ばれたりもしましたよ。足で踏んでポンと開くやつですね。当時なら特許がとれたかも知れません(笑)。

Update : Feb.23,2000

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