われら六稜人【第29回】レンズに魅せられた男

1等星
満天の星空の下で

    昭和15年、東淀川区豊里菅原町に生れました。父は大工を生業としており、戦争が激しくなって焼夷弾が降ってくる中を、屯田兵として北海道へ疎開したのです。そのとき私は5歳でした。
    有珠郡壮瞥村駒別…昭和新山の近くといえば、およそ5キロ四方に人家が1軒も無いという、まったくの山の中で、豪雪の中を駅から2時間ほども歩いてたどり着いたように記憶しています。そこを開墾して、山から切り出してきた木で家を建てて自給自足の暮らしをしていたのです。そんな大自然の下、野山で兎や熊に出合い、川でカジカと遊んで過ごした生活の中では…考えてみれば「満天の星空」というものが、すぐに手の届く…ごく日常 の身近な存在であったように思います。全天すべてが天の川といった状態で、無数に輝く星々のひとつひとつが何か不思議な存在でもあり、いつか手にとって見 てみたいものだ…という潜在的な願望が、すでにこの頃から漠然と心の中にあったのかも知れません。

    父親ゆずりの器用さからか、子供の頃から「ものづくり」は好きなほうでした。私が8つの頃…小学校2年生の時に、隣家(といっても歩いて30分は離れてま したが)の装置を見よう見マネで「水車」を作りましてね。それで水力発電をしたのです。ちょうど当時、自転車用の小さな発電機が売り出されて…かなり高価 なものでしたが…それを利用してみたわけです。
    直径6センチくらいの発電機に30センチくらいの水車を取り付けて…水車が大きいと得られる力も大きいのですが回転が遅い。小さな水車だと力は弱いけれど も回転は速い…ということで、適正な水車のサイズを求めるような試行錯誤の実験を、すでにその頃から経験的に実践していました。力学、工作の初めですね (笑)。水の落差を変えたりもして…それで、今の懐中電灯ほどの明るさを得ることに成功したのです。当時はまだローソクの暮らしでしたからね。それでも結 構、便利でしたよ。私がものづくりに没頭したもうひとつの理由が吃音でした。石川家は代々吃音の家系で、兄も私もその血を引き継いでいました。幼少の頃の性格としては腕白で明るい、本来は活発な男の子だったと思うのです。
    ところが、小学校に通うようになって…山道を1時間ほど歩いてようやく到着したわけなんですが…そこで友達や先生と初めて会ったときに、ものが言えないんですね。詰まってしまって。顔を真っ赤にして困ったことを覚えています。
    学校で一番困ったのは国語の本読みでした。その頃から…自意識の芽ばえとともに…次第に小心、内向的な一面を併せ持つようになったのかも知れませんね。

Update : Feb.23,2000

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