われら六稜人【第4回】楕円のボールに託した夢

第2回戦
青春は
ラグビーとともに

    俺たちの頃は前川さん、岡本さんなんかが数年先輩で…北野を卒業されて、大学の現役で頑張っておられる…そんな方が良くシゴキに来てくださった。関学を出 て十三信用金庫に勤められていた松宮さんなんか…自転車で集金に回る際に、よくグランドに寄っていただいたものだ。俺なんかフォワードで台をしてくださる のだけど、他の者はランニングでぐるぐる走らされて…大変だったかもな。松宮さんの話で印象深かったのがね…戦後まもなく、食糧事情の悪いときだよな…「冬の鴨は動きが鈍いので、先輩が捕まえてきてくれて、それを皆で食べたンだ」とか。あとで詳しく調べたら「あれは蛙ではなかったのか」とか…。はっはっは。

    とにかく関学やら早稲田、慶応などの諸先輩が、夏休みだとか言っては練習を見に来てくれるんだけど、大学によって先輩の言うことが全部が全部違うんだよな。その経験があったんで俺が監督をするようになってからは、現役の生徒にそのようなことのないように配慮したけどね。

    俺は北野を卒業して2年浪人をした後、京都府立医大に入った。当時はラグビー部が無くてね。サッカー部に入ってたんだけど…ちょうど大学の中でも、洛北高 校卒業の内科の先生あたりがOBを頼りにラグビー部を再建しようと動き出していて…結局、1年生だけで13人が集まった。在籍数が80人だから、ちょっと した数ではあったんだけどね。解剖学の教授が部長になって「自分の単位については全員通してやるから」と言われて…。でも、俺だけが落とされた。「お前ま で通したら勘ぐられる」って。

    大学卒業後も第二外科というセクションに修行を兼ねてしばらく残ってた。それで大学のOB戦なんかには出たりしてたんだけど、親父が急逝してしまって…そ れで呼び戻されて、あとを継ぐことになった。ちょうどその頃、野々村先生から「北野のラグビー部を見てくれないか」と相談されて…。同じ面倒を見るなら、 しっかり見たいと思って、本業の診療を午前2時間、午後2時間と少なめにして…残りの時間を北野のラグビー部に充てたわけです。昭和52年だったかな。


    ↑淀川河川敷での練習風景

Update : Dec.23,1997

ログイン